キリストから呼ばれた人 水野源三 詩 2003/3
一、
キリストのお召しを 受けしひとびとは
まる木橋をわたり ほそき山道行き
何よりも尊き 失われたものに
めぐみふかき神の 御救いを伝える
○キリストから呼び出された人は、たとえ困難があっても、み言葉を伝えるべく前進していく。丸木橋とはうっかりすると転落する危険がある場所であり、そうした場面は一人一人にも生じるものです。昔から、困難と危険のただなかを通って御国のために進んでいく人が絶えなかったし、キリスト者はすべてそのような細い道を、主の導きによって進むようにと言われています。
この詩に現れる、「お召しを受ける」といったような表現は現代では使わないために、意味がはっきりとれないという人も多くなっています。日常のふつうの会話の中では、ほとんどだれも「召す」などという言葉は使わないと思われます。
これは邦訳聖書にもよく出てくる表現ですが、 この言葉のもとにある原語(ギリシャ語)は、ごく普通の「呼ぶ」という言葉です。ですから、「キリストのお召しを受けた人々」とは、「キリストから呼ばれた人々」という意味です。これは現在のキリスト者(クリスチャン)といった意味で使われていました。ですから、キリスト者はだれでも、神から呼ばれた人、召された人だと言えます。つぎの箇所はその一例です。
神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。(ローマの信徒への手紙一・7)
この箇所でもわかるように、ローマにいるキリスト者全体が、神から呼び出された人たちだとされているのです。
この詩はそういう意味で、特別な伝道者だけを意味するのでなく、キリスト者みんながこのように変えられていくことが目標とされているのです。
二、
キリストの御愛を 受けし人々は
風そよぐ木の下 星あかりの部屋で
何よりも尊き 失われたるものが
恵み深き神へ かえるよう祈る
○キリストを信じた者とはすなわち、キリストの愛を実感した者。そして、キリストの愛を受けるとき、祈りが、その人たちの自然な姿となっていきます。その祈りは失われた者、傷ついた者、そしてみ言葉のために働く者のため注がれるようになっていきます。祈りが呼吸のごとくになって、日々を生きつつ、祈りによって神の国の命をたえず受けて他者へと送り出すように導かれていきます。
三、
キリストの恵みを 心に宿すひとびとは
おのれすてさりて 愛のわざをばなし
なによりも尊き 失われたるものに
めぐみ深き神の 慈愛を証する
○「失われたるもの」、それは苦しみと闇にある者、道を見いだすことができずに、立ち上がれない者。キリストの恵みを受けたとき、その心はそうした失われた人にまず向けられていきます。
キリストの恵みを受けた心とは、主の愛を注がれた心であるゆえに。キリストの心はまず元気で思うままに過ごしている者や、能力があって周囲から賞賛されているような者でなく、まず失われた者に注がれるからです。