人の考えと真理 2003/4
人の考え、意見といったものは、時代や状況によって実に目まぐるしく変わる。一人の人間をとってみても、十年前、二十年前とではずいぶん考え方や行動は違ってくる。
国や社会も同様である。文部省の方針もゆとり教育の重要性を説くかと思えば、基礎学力の不足だといって、今度は予備校的な競争教育が重要だといったりする。六十年ほど前は、天皇は現人神だといって、全国の教育の場でも教えていたが、敗戦の後には、当たり前のことであるが、自ら人間宣言をした。
また、その頃は、アメリカやイギリスのことを、鬼畜米英などと言っていた。敗戦とともに今度はアメリカ追従となって、アメリカがなにか一番良い国であるかのように言われるようになっていった。
憲法第九条も、成立したときには、毎日新聞の世論調査(一九四六年五月)では、七〇%が戦争放棄条項に賛成しているので、大多数はこの平和主義憲法に賛成していたのである。
「聖戦」ということは、イスラム原理主義者と言われる人たちがよく口にすることであるが、日本も今から六〇数年前には、有名な学者たちもそんなことを言っていたのである。一九四一年十二月に出された米英への戦争開始のときの天皇の文書(詔書)の解説書にはつぎのように書いてある。
「世界戦史の上での真の聖戦というべきものは少ない。そうした中で、皇国日本が米英に対してなした宣戦こそは、大義名分の旨に合致し、東亜共栄圏の確立、世界新秩序の創建に邁進する上において、まさに真の聖戦である。」(一九四二年三月発行の「宣戦大詔謹解」序文)
しかも、これは、久松潜一、平泉澄といった東京帝国大学教授ら有名な学者の執筆になるものである。
こんな意見が、日本の代表的学者が書いていたし、それを日本の代表的新聞も掲載していたのであった。しかし、その後わずか四年も経たないうちに訪れた敗戦によって、このような考え方は根本から否定されていったし、国民も大多数は米英との戦争が聖戦だったなど、だれも本気で言う人はなくなった。
こうしたさまざまの変化はつねに見られる。そうした変化の著しい人間の意見や考え、世論といったものに対して、全く変わらないのが、聖書にある真理である。
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。(旧約聖書・イザヤ書二・4)
ここに記されたことは、今から二七〇〇年ほども昔の預言者が、神から直接に啓示された真理であり、主イエスが次のように言われたことも、同様な究極的真理であって、この真理性は、数千年を経ても変わることはない。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ福音書五・43~44)
世論や政治家たちがどのように考えを変えようとも、こうした聖書の真理はそれらに全く影響を受けずに、輝いている。それがどれほど現在の人が実行
できるか、だれがその真理を信じているかということでなく、いかに少数の人しか信じていなくとも、真理は真理である。
それはちょうど、夜空の星が人間のいかなる変化や混乱にいっさい影響を受けないで輝いているのと同様である。