リストボタンことば    2003/6

158)私たちは祈るべきである。もし、人が神と正しい関係にあり、心から神を愛しているなら、呼吸と同じように自然に祈るであろう。私たちの中にも、神と正しい関係にあって、祈りが自然のすがたになっているゆえ、祈りを強いられる必要のない人々がいて欲しいのである。(「祈り 十二の鍵」CH・スパージョン著 173頁)

・このような祈り、呼吸のように自然な祈り、それは自分の思いをもつねに神に注ぎだし、新鮮な空気を吸って生きるように、神の国の霊的な賜物をたえず受け取って生きている状態だと言える。こうした状態に近づいた人は、周囲の人のために自然に祈り続け、あたかも心臓がからだに血液をおくり続けるように、よきものを注ぎ続けていく。
この言葉は、つぎのマザー・テレサの言葉を思い起こさせる。
「祈ることを愛しなさい。日中にたびたび祈りの必要を感じるようになさい。いろいろの妨げを乗り越えて祈りなさい。祈りは心を広くして神ご自身という贈り物を受け入れることができるようにする。」

159)正しいキリスト者は絶え間なく祈る。彼らは、必ずしもその口をもって祈らなくとも、彼らの心は眠っているときも、覚めているときも、絶え間なく祈る。真のキリスト者のしるしは祈りであるからだ。同様に、真のキリスト者は、つねに十字架を担う人である。(「ルターの卓上語録」グロリア出版 177頁)

・絶え間なく祈ること、それは自分に本当によいものがないことを深く知っている心から生まれる。自分が何かを持っている、力をもっていくなどと思っているときには、深い祈りは生まれない。自分のなかになにもよいものがないと自覚した、マタイ福音書にある「心貧しい者」でなければ、そのような祈りは生まれない。また、絶えず祈ることは、神を愛しているのでなければできない。愛とは心を注ぐことであるから。 そして本来、キリスト者とはそのような心貧しき者、たんに神を信じるだけでなく、神への愛を持つようになった者だと言えよう。


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