休憩室 2003/10
リンドウ
秋の山にて野草は多く咲き始める。そうしたなかでとくに多くの人たちに親しまれ、愛されてきたのは、リンドウではないかと思います。しかし、ほとんどの人にとっては、リンドウとは、花屋さんにあるリンドウで
あり、それが購入されて会場や家庭で飾られているリンドウではないかと思われます。
花屋で見られるのは、多くはエゾリンドウといって、北海道などに自生しているものです。多くの花をつけ、その飾られたところに秋を感じさせる、青い美しい花です。しかし、徳島の山でみかけるリンドウには、花屋さんでは見られないような素朴な美しさを感じさせられます。
宮沢賢治の、「銀河鉄道の夜」という作品の中に、次のような箇所があります。
…その小さなきれいな汽車は、空のすすきの風にひるがえる中を、天の川の水の中をどこまでもどこまでも走っていくのでした。
「ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ。」カムパネラが窓の外を指さして言いました。
線路のへりになったみじかい芝草の中に、月長石ででも刻まれたような、すばらしい紫のりんどうの花が咲いていました。…(「銀河鉄道の夜」岩波文庫255頁)
車窓から見えるものは数々あると思われるのに、とくに、このリンドウが記されているのは、それだけリンドウが山野に群生しているのが、著者にとってもきわめて印象的であったからだと思われます。
私にとっても、数十年昔の大学時代に、京都の郊外からずっと何日も山を登り始め、峠をいくつもいくつも越えて、だれもほとんど通らないような道をたどって、日本海に流れ込む由良川の源流地帯へと歩いていったとき、その川の岸辺のところどころに、小さいながらも澄みきった青さの花があり、それがリンドウでした。そのリンドウは、ワーズワースの「水仙」という詩のように、ふとしたときに思い出されて、その山の奥深い原生林帯を思い出すのです。
ほとんど人も訪れない京都府と福井県境付近の深い山中を流れる渓谷、そこはさながら別世界でした。それは信仰を与えられる少し前であってまだそうした自然を創造した神のことは知らなかったのですが、その人間の手の加えられていない自然そのものの渓谷の流れと付近の樹木、紅葉しかけた美しい葉、だれも斧を入れたことのないような原生林に深く心を動かされたのです。一日中十時間ほども歩き続けても一人も人間に出会うこともなかった深い山中にあって、その清い水の流れは、私の魂のなかに流れ込み、リンドウの深い青色は心のなかに彼方の世界を指し示すものとなって刻まれたのです。
そしてそれから一年あまりたって、人間の罪を赦し清めるキリストの十字架の意味を神は私に啓示されたのでした。
秋がめぐってくると、あのはるか遠い昔のリンドウと水の流れを思い出すのです。そしてあの遠くて長い山道は二度と歩けないけれども、神の国への道が示され、いのちの水の流れを与えられ、神の国に咲く花を知らされてきたことを思います。