リストボタンキリストが来られた意味    2003/12

クリスマスとはキリストが地上に来られたことを記念し、感謝する日です。しかし、一般的には、サンタ・クロース(*)の日とか、クリスマスプレゼントをもらう日、クリスマスケーキ、クリスマスツリーを飾るなど、肝心のキリストの誕生の記念日だということすらかすんでいるほどです。

*)サンタ・クロースというのは、「サンタ(聖)ニコラウス」のことで、その発音がすこし変化して、サンタ・クロースといわれている。サンタとは、「聖」を意味する言葉で、英語では、セイント(saint) 、フランス語ではサン(サント)、seinte)スペイン語やイタリア語では サンタ、サント santao) などとなる。

聖ニコラウスとは、キリストより三〇〇年ほど後の人で、現在のトルコ地方に実在していた人です。ふりかかる悪から人々を守り、子どもを保護し、また貧しい人への施しをしたこと、その他にも多くの伝説が生れていった人で、そのようなことから、現在のようなクリスマスにプレゼントをするサンタ・クロースの伝説にとつながっていったのです。
よくサンタ・クロースはいるのか、という話になります。実際に以前、アメリカの新聞でもこのことが取り上げられ、その説明が本にもなって広く知られたこともありました。
煙突から入ったり、トナカイに乗ったりするサンタ・クロースは想像上のものです。しかし、サンタ・クロースの精神、その心は実在しているといえます。それはこの伝説のもとになった聖ニコラウスはキリストの心を頂いて、多くの不思議をなし、施しをする愛を神から授かったのであり、そのように分かち与える力と心は現在も実在するからです。
今年、東南アジアのタイ国に住んでいる人から送られてきたクリスマス・カードに下のような言葉がありました。
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A time of joy
(喜びの時)
A time of sharing
(分かち合う時)
A time of give generously.
(快く与える時)

主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すように
(使徒言行録 二十・35
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喜びの時、それは「主イエスが私たちのところに来て下さった喜びの時」という意味です。また、分かち合う時とは、主イエスによる救いや新しい力を与えられたその喜びを分かち合うことであり、主イエスから下さったもの、神からの数々の賜物を自分だけが持っているのでなく、共有し、分かち合う時ということです。また、そのような分かち合いということは、与えることにつながっています。私たちが神から多くのものを、受ける値打ちがないのに受けている、与えられていると実感するとき、自然に他の人たちにも少しでもそれを与えたいと願うようになるものです。水が満たされて内部からもあふれてくる泉は自然に周囲にもその水を注ぎだすのと同様です。
クリスマスとはそのように、キリストが私たちのところに来て下さったことを感謝し、喜び、私たちが受けたものを分かち合い、与え合うということなのです。
キリストはこの世界に光として来られました。そのことは、新約聖書のヨハネ福音書にもその最初に書いてあります。

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネ福音書一・45

ここでいわれている「言」とは、単なる会話のときの言葉でなく、神の「言」としてのキリストのことを意味しているとともに、この原語はロゴスというギリシャ語で、これはまた、単なる言葉という意味だけでなく、宇宙の根源にある理性といったような意味をも持っていて、それらを重ね合わした意味を持っています。ギリシャ哲学で考えられていたような理性と、旧約聖書で一貫してその重要性が言われている神の言としての双方の本質をもっているのが、キリストであると言おうとしているのです。
キリストというお方は、この世の闇を照らす光として来て下さった、その光は、単なる光でなく、いのちの光、神のいのちをもっている光である、それがヨハネ福音書で最も言おうとしていることなのです。
クリスマスの意味、それは闇の中の光として、キリストが来られたということです。それは、キリストが生れるよりずっと昔から預言されていたことです。

それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。(マタイ福音書四・1417より)

この世は、闇である、それはたいていの人が感じていることです。闇とは、それをずっと見続けていたくないこととも言えます。例えば、病気とくに末期ガンのような死に結びつくような病気、ハンセン病のような差別や孤独など肉体的にも精神的にも大きな苦しみをともなう病気、人の命を奪うような犯罪、その巨大化したものである戦争、飢饉、一般に死そのものそうしたものを見続けていたいと願うような人はまず、いないのです。どんな人でも自分がそのような苦しみの激しい病気にかかりたいなどと願う人はいません。
そんなものを見続けていられない、闇にはそうした恐ろしさがあるからです。
それに対して、例えば、高い山から望む美しい山々の連なりや、野草の素朴な美しさ、それは誰もがずっと見続けていたいと願うようなことです。それは、なぜか、そこに光があるから、神の創造された直接の光があるからです。
この地球の世界そのものも、太陽が最終的に消滅に向かう途中で、消滅していくのであって、そんなことを見つめていたら、いっさいが空しくなってきます。ここにも、闇があります。戦争や飢饉などが仮にないとしても、このようなことだけを考えても、目に見える世界をそのままずっと延長していくと、いつのまにか滅びという闇の世界に入ってしまうのです。
現在を見ても、将来を見ても、何十億年というはるかな未来を見ても、闇は広がっています。そうしたあらゆる状況における闇の中に光を投げかけるために、主イエスは来られたのです。
このように、イエスが地上に現れたのは、暗闇に住む人への大いなる光として、また、死の陰の地、すなわち、死ぬかと思われるほどの苦しみ、絶望的な状況にいる人への光として来られたのです。そのことは、今から二五〇〇年以上も昔にすでに預言されていたのです。
私たちが最も必要としているのは、このような意味での光です。
今は、明るくバラ色に輝いていると感じる人であっても、そのうち、突発的な事故や病気などによってどのような闇が迫ってくるか、だれも分かりません。 闇それ自体はいつまで続くのかという疑問も持たせるものです。しかし、その闇があたり一面に存在しながらもその直中に光が差し込んでいます。
キリストが闇のなかに輝く光であり、そのために来て下さったことは、さまざまのところで強調されています。それは、クリスマスの讃美にも多くみられます。
例えば、クリスマス讃美のうちで最も有名なものの一つである、「もろびとこぞりて」(讃美歌112番)にもつぎのような言葉があります。

この世の闇路を照らし給う
妙なる光の 主は来ませり

また、やはりクリスマスによく歌われてきた讃美につぎのようなものがあります。

永遠の光 暗き世を照らし、
闇に住む民の 上に輝けり (讃美歌21-二五五 3節より)

このように、私たちの現代の闇においても、光なる主を仰ぐとき、その光を受けるとき、私たちの抱えている問題の解決やそこに至る道が与えられ、同時に歩んでいく力も与えられます。そこにキリスト者の幸いがあります。

太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず

月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり
あなたの神があなたの輝きとなられる。
あなたの太陽は再び沈むことなく
あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり
あなたの嘆きの日々は終わる。(イザヤ書六十・19-20

このようにして、キリストの光を受けるとき、初めて私たちはもともと闇であったのに、あらたな光となる。それゆえ聖書ではつぎのように記されています。

あなた方は、地の塩である。あなた方は世の光である。 (マタイ福音書五・14より)
あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。 (ピリピの信徒への手紙二・15より)

私たち自身は決して光でも、星でもない。それにもかかわらず、神の光を受け、そのいのちの光を魂に与えられるとき、私たちはそのゆえに小さくとも、闇のなかの光となるのです。
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