リストボタンこの世のはかなさについて    2004/2

わが国で古来広く読まれてきた文学のひとつは、平家物語である。そこに、平家がいかにして勢力を増大させて栄華を極めたか、それにもかかわらずいかに急速に権勢を失っていくか、また平家を滅ぼした源義仲や義経、頼朝らもまた短期間で消えていくことが記されている。
その長編歴史物語の冒頭につぎのような言葉がある。

祇園精舎の鐘の声、諸行無情の響きあり。(*
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。(**
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ。

*)祇園精舎とは、古代インドのコーサラ国の首都郊外にあった仏教の寺院。諸行無情とは、すべては移り変わるものであって、常であるもの(不変)は何もないということ。
**)沙羅双樹とは常緑高木。インド北部原産。高さ40メートル。仏教では聖木とされる。


古代インドの寺院で響く鐘の音は、万物は移り変わるという言葉(詩句)を流し、川辺に咲く沙羅の花は釈迦が死んだときに、たちまち花が白色に変じて、盛んなるものも必ず衰えるときがあるという人生の道理を示したという。

このように述べて始まる平家物語は、私の手元にあるもので小さい字で四百ページほどになる大作である。今から八百年ほども昔にこのような長編が書かれたということは驚くべきことと言えよう。
常人をはるかに超えた記憶力、構想力、知識や文学的感性、そして宗教的な感性を持っていた人だと考えられる。
この著者がこの長い物語の最初にこのような文章を持ってきているということのなかに、著者が何をこの物語に託そうとしたかがうかがえる。
それはこの世のはかなさであり、すべては、移りゆくということであり、そこからくる悲しみである。それは目の前の小さな出来事や自然界のことだけでなく、国家社会のような大きな場であっても、それは共通している。狭くもひろくも、一切はこのはかなさに覆われているということが根底に見られる。この平家物語には、悲しみとか涙といった言葉が数多く現れるがそれはこの冒頭のはかなさと通じるものがある。
そしてこのはかなさを表す第一として、祇王・妓女という二人の白拍子(*)のことが現れる。
彼女たちは、数年の間は世をときめく平清盛の寵愛を受けたが、仏御前という別の白拍子を清盛が気に入ったときから捨てられ、死ぬことを考えたが母親の説得で辛うじて死を思い止まり、二十歳前後でこの姉妹は尼となって、京都の嵯峨の奥にある山里の庵にて、母親とともに念仏生活に入ったと記されている。(**

そして夕日が西の山の端に沈むのを見ると、「日の沈むのは西方極楽浄土である。私たちもはやくあの浄土に生れたい。」
そう思うにつけても、過ぎた日の悲しいことが次からつぎに思い出され、ただ尽きせぬものは涙なのである。

そうした涙のなかで過ごす母子三人のもとに訪ねてきたのが、かつて祇王のかわりに清盛の寵愛を受けた、仏御前であった。
彼女が言うには、「この世の栄華は夢の夢、富み栄えたところでなんになりましょう。かげろうや稲妻よりも、もっとはかないのが人生です。一時の栄華に誇って来世のことを知らないとしたら、それは悲しいこと。」
と言って、自分のゆえに、清盛のもとから追い出された祇王に赦しを乞い、ともに極楽往生の願いをとげたいと申し出たのであった。もし赦されないなら、どんな深い山のなかの苔の床や、松の根元にも野宿して、命あるかぎり念仏して極楽往生の願いをとげたいと必死に涙ながらに訴え、それによって祇王姉妹とその母らとともに、山里のさびしい庵で女ばかり四名が念仏によってその生涯を終えたという。

*)白拍子とは、平安時代末期におこり鎌倉時代にかけて盛行した歌舞、およびその歌舞を業とする舞女。
**)祇王寺として京都市右京区の嵯峨にある。


このように、哀れな女性の姿が記されているが、平清盛自身も、短い間の栄華ののちに、激しい熱病にかかって苦痛にさいなまれつつ死んだ。そして、平家はたちまちほろび、かつて清盛が一時的に都とした、福原(*)を平宗盛が最後にそこを去って逃げていくとき、かつての都を焼き払って西へと下っていく。ここにも、かつて栄華をきわめた平家が無残にも落ちていく様が哀しみをたたえてつぎのように記されてている。

*)現在の神戸市兵庫区。平安末期、福原荘(しよう)として平清盛が領有、ここに別荘を営み、わずかの期間であったが、都とした。

折から初秋の月は下弦の弓張月である。静かな夜は更けるにつれていよいよ静かに、住み慣れた都を離れてのこの旅寝に、夜露と涙は枕にその露けさを競うほどであった。
ただ、何もかも悲しいのである。
今はなき清盛が造ったいろいろの建物を見ると、それらは、どれもこれもここ三年ほどの間に荒れ果てて、年を経た苔が道をふさぎ、咲き乱れる秋草が門を閉じるばかり。
瓦にははやくもシダが生えて、垣根には蔦(つた)が繁っている。高い建物は傾き、苔むして、通うものはただ松風ばかりである。また、宮殿のすだれも落ちて寝所もあらわとなり、射し入るものはただ、月の光だけである。
翌日にいよいよ福原の建物に火を放った。この福原もさすがに名残おしかった。暁かけて峰になく鹿の声、渚(なぎさ)に寄せる波の音、袖に宿る月の影、千草にすだくこおろきの声、目に見、耳にふれるもの、ひとつとして哀れを誘い、心を悲しませないものとてない。つい昨日のこと、木曽義仲の追討に向かったときは、兵は十万余騎もあったが、今日西海の海に舟をだそうとしている者はわずかに七千余り、人里離れた海の波を分け、潮のまにまに流されていく舟は、さながら空の雲に漕ぎ消えていくかのよう。こうして日を過ぎて都ははるか雲のかなたとなってしまった。はるばる来たと思うにつけても、尽きせぬものはただ涙である。一一八三年、平家はすべて都を去っていったのである。(「平家物語」巻第七より)

また、木曽の山中で成人した源義仲(木曽義仲)は、めざましい働きをしてわずか三年足らずで平家を打ち倒して、支配権を得たが反対勢力となった源義経らによって追撃され、わずか三十一歳で討ち死にした。ここにも急速に勢力を伸ばしたものが驚くばかりの短期間で没落していく様がやはり哀しみをもって記されている。
そのときから義経は平家追討を指揮して、屋島の合戦で闘い、壇の浦に追いつめて平家を滅ぼすという武士としては並びなきほどの働きをした。
しかし、それもたちまち兄頼朝の怒りとねたみを受けて、今度は追われる身となり、ついに東北の地まで逃げていったが頼った有力者の死後にその息子に攻撃されて自害して果てる。義経もまた三十歳ほどで世を去っている。
そのようにして日本を支配することになった頼朝もまた、征夷大将軍となってから七年足らずで落馬がもとになって死んだ。
義仲、義経、頼朝らは平家を滅ぼすという目的では同じであったが、互いに闘い合って勢いを消耗し、まもなく滅びていった。
勇ましい武士たちも、可憐な女たちも共通しているのは、地位が高かろうが低かろうが、また男女の区別もなく、みんな移りゆくものという認識であり、悲しみである。
この平家物語の最後の部分には、平家一族のうち、わずかに生き残った清盛の娘、建礼門院徳子が、京都大原の寂光院にこもって平家一門のための祈りで生涯を終えたことが記されている。
寂光院は、屋根瓦は壊れ落ち、そのために霧が入ってきて常に香をたいているようであり、雨戸ははずれてしまって、そのために月が常住の灯明をかかげているようであるというほどであった。近くの小川には、山吹が咲き乱れ、幾重にもかさなる雲の切れ目から、山郭公(やまほととぎす)の声が響いてくる。
古びた岩の間から落ちてくる水音さえも、意味深い。緑の薄絹のようにみえる蔦葛(つたかずら)のしげる垣根や、緑の眉墨(まゆずみ)のような緑の山々に囲まれて、建礼門院の住家はあった。
それは軒には蔦や朝顔がしげり、忍草(しのぶぐさ)(*)、にまじって、忘れ草(**)が生えている。屋根をふいた杉板もくされ落ちて、その葺いたところもまばらとなり、月の夜など、時雨も霜も、露さえも、月光とともに入り込んでくる。
このようなところに住んでいる、建礼門院は、そこを訪ねてきた後白河法皇に語って、悲しみの涙にむせび、ちょうどそのとき啼いた時鳥(ほととぎす)にあわせて次のように詠んだ。

いざさらば 涙比べん ほととぎす われもうき世に音(ね)をのみぞなく

(ほととぎすよ、さあ、お前と涙を比べあおう。私もこの憂いの世にただ悲しく声をあげて泣いて暮らしているのだから)

こうした悲しみの言葉が記されているが、その後病気になって息を引き取る。そのときに、西の方に紫の雲がたなびき、たとえようもない香りが部屋に満ちて、来迎の音楽が空に聞こえるこうして平家物語は閉じられている。

最後に浄土宗の教える浄土のことが現れるが、それまでの地上の生活は涙と悲しみ、寂しさで包まれている。
人間の世はどんなに地位が高くとも、低くともこうした万物の流転のなかにおいては悲しみしかない、死後の浄土からの迎えを待つだけなのだという教えが刻まれている。
日本で最も広く知られている文学のひとつがこうした悲しみと淋しさに包まれていることは、大学卒業してから平家物語を知るまでは予想しなかったところである。子供時代から、平清盛や義経、弁慶、また頼朝などの活躍を本で見ていてそうした悲しみとは反対の勇ましさやおもしろさが印象にあったからである。
浄土教という信仰もその悲しみをいやすものでなかったことは、すでに述べた平家物語の一部であっても、そこに流れている悲しみを見てもわかる。
しかし、この点において、キリスト教信仰は、人間の世のはかなさを思い、この世の悲しみを深く知っていることで共通しているが、たんに来世の浄土を願っているのみでなく、すでにこの地上において、深い喜びと力を与えられるという点で決定的な差があるといえよう。
それは、すでに旧約聖書の困難な時代に書かれた詩編に、神への大いなる讃美や喜び、感謝のあふれるものが多く含まれていること、最後の詩編が神への壮大な讃美(ハレルヤ)で終わっていることがそれを指し示している。
また新約聖書においては、そのはじめのところで、主イエスの誕生が天使によってつぎのように記されている。

天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。(ルカ福音書二・10

キリストが来られたのは、人間に大いなる喜びを与えるためということが最初からはっきりと告げられているのがわかる。
また、キリスト教信仰によって人間に与えられる最も重要なものは、聖なる霊(神ご自身の霊)であるが、その聖霊がもたらすものは喜びである。

御霊(聖なる霊)の実は、愛、喜び、平和、(ガラテヤ五・22

あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。(ピリピ 四・4

キリスト者にとくに与えられる喜びとは、なにかが自分の思うままになったとか、人から認められたという通常の喜びでなく、「主にあって」の喜びだと言われている。それは聖なる霊から与えられる喜びということと同じである。

また、主イエスが最後の夕食のときに教えた言葉にも、次ぎのように喜びの約束がある。

わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。(ヨハネ福音書十五・11

ここにも、主イエスが来られた目的が「わたしの喜び」すなわち、神の国にあるような清い喜びを与えるためであることが約束されている。
さらに聖書の最後の書である黙示録にも、暗黒の迫害時代にあってもなお、天の無数の天使たちの讃美を聞きながら生きることができるのが暗示されている。
そしてこの聖書が記されて以後二千年にわたって、世界の無数の人たちが主イエスを信じて、この世からは決して与えられない、魂の平和と喜びを与えられてきたという事実がある。こうした深い喜びがなかったらどうしてキリスト信仰を続けていく気持ちになるだろうか。
キリスト教信仰が世界に伝わった原動力は、罪赦され、主の平和を与えられる喜びであったのである。
人間の武力による勇ましさ、支配や栄華など、じつにはかなく、一時的なものである。それは現代においても同様であろう。
イエスからの聖なる霊を与えられなければ、この世はいかに力あるもの、権力ある国家であっても、すべて流れ去り、消えていくものでしかない。
いかにこの世を揺るがすような出来事であってもそれらはすべて過ぎ去っていく。ただ過ぎ去らないのは神の国であり、神の言葉であり、主イエスそのものである。

*)シノブ・ノキシノブなどのシダ植物。
**)ヤブカンゾウの別称。

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