日露戦争から百年 2004/2
朝鮮半島と中国の満州の支配権をめぐってロシアと闘った、日露戦争(*)から百年が経った。戦争はおびただしい人々が命を落とし、また重い傷を受ける。わずか一年半ほどの間に、戦死した人は八万八千名、傷ついた人三十七万名という多くの人たちが生じた。これは日本だけの数字であって、ロシア側でもきわめて多数の戦死傷者をだした。
このようなおびただしい人々を苦しめ、命を奪った戦争の目的はというとそれは満州や朝鮮を自分の勢力下に収めようとすることなのであった。自分の国でなく、他国の独立をふみにじって軍事的に圧力をかけ、朝鮮を日本の植民地にしていくひとつの行程となった。
この日露戦争は、日本が大国ロシアに勝ったとか、講和条約が不十分な内容であったといった観点からだけ日本人の記憶に残っていくことが多いが、この戦争の勝利は、朝鮮にとってみれば、他国が自分の国の支配権をめぐって戦争し、その結果は他国(日本)の植民地とされることにつながっていった。
このように戦争は、自国の膨大な人命や戦費の消耗だけでなく、相手国も同様なおびただしい犠牲を生じたし、さらに戦争の相手国でなかった朝鮮の人々には以後の長い植民地への歩みを決定づけるものとなったのであった。
日清戦争や日露戦争で、朝鮮を戦場および基地として戦い、一九〇五年には韓国の外交権を奪い、その権限は日本が派遣する統監が管理することになって、韓国は独立を失った。以後、日本の保護国としてしまった。さらに一九〇七年には朝鮮の軍隊を解散して抵抗勢力を解体し、ソウルに日本軍を配備した占領状態で併合を強行した。
そして、中国の東北部満州にも、勢力を伸ばし、中国から切り離して日本がその勢力範囲のなかに置いて、以後の進出を増大させ、彼らから不当な利益を奪っていくことになったのである。
そしてそれがのちの、太平洋戦争につながっていくことになった。
このような点を考えるとき、戦争は戦争を生み、弱い立場の者の命を奪い、何ら不当なことをしていない、朝鮮の人や満州に住む中国の人たちを長期にわたって苦しめ、さらに太平洋戦争に至っては日本や朝鮮半島の人たちだけでなく中国の広範囲にわたって侵略し、大都市を爆撃し、数知れない人々を死に至らしめ、フィリピンやインドネシア、ビルマ、タイなどといったアジアの国々まで戦火を拡大していくことになった。
このようなことを考えるとき、いっそう戦争ということの悪魔性を思わされる。戦争は本来なら何の関係もなく、互いに顔を合わせたこともなく、もちろん不正なことも互いにしたこともない人たちに激しい憎しみを引き起し、大量に殺害や略奪を生じていく。
このように、日露戦争は、太平洋戦争というアジアの歴史では最大の戦争を引き起こすことにつながっていったのであるが、当時は大部分の人たちが戦争に賛成し、戦争に勝利したときにも有頂天になる人も多かったのである。
こうした真理のみえない状況において、一部の人たちはその戦争の不正を鋭く見抜いていた。
ここでは、日露戦争が開始された直後(一か月後)に出された内村鑑三の「聖書之研究」での文章をあげる。
ああ、私はいかにして戦争を止めさせることができようか。私はいかにして人々を敵の弾丸にさらす惨事を止めさせことができるのか。彼らを失って孤独に泣く老いた母があるではないか。彼らが死んで飢えや寒さに叫ぶ未亡人と孤児があるではないか。これを見て、涙を流さないのは人にして人ではない。私は人が戦争万歳を歓呼するのを聞いて、到底その声を共にすることはできない。
私がもし、王ならば私は無理にも戦争を止めさせよう、また私がもし政府の要人であり、天皇に重んじられているような者であるならば、戦争を止めるよう諫(いさ)めてやまないであろう。
しかし、弱き私はただ、泣くに涙あり、祈るに言葉あるだけである。ああ、私はいかにして戦争を止めさせることができようか。
私はただ福音を説き、キリストの平和の福音を説き続ける。そして一日も早くこの世に天の国が来るようにと願う。これが私のなし得ることである。…
人々がその心に神の霊を宿すにいたるまでは、戦争の声は止むことはない。キリストにあって一人を救うことは、戦争の危害を一人だけ減らすことなのである。そして戦争はたんに非戦論を唱えて止むものでなく、キリストの福音を伝えてはじめて止むものである。
ああ、私は悟った。はるかな将来を見つめ、私の目前に目撃する戦争の惨事を根絶するがために、私が世にあるかぎり、さらに熱心にキリストの福音を伝えることに従事しよう。
(「「聖書之研究」一九〇四年三月」平易な現代文に直してある。)
この内村の文章が書かれてから百年、現代の私たちもやはりキリスト者として同じように思う。キリスト者の固有の使命は、永遠の真理たるキリストの平和(平安)を罪赦されることによって受け、敵のためにも祈れる心を神から頂いて、その真理を伝えるところにある。
わたしは、平和(平安)をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。
わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。(ヨハネ福音書十四・27)
たしかにキリストが与える平安(平和)は、この世が与えるような仕方とは全く異なっている。それは人間の努力とか話し合い、あるいは、武力によってではない。それはまず人間の根本にある闇である罪を知ってそれを赦されるところにあり、神の聖なる霊を受けることによって与えられるものである。