こころのうた 2004/3
詩とは心に吹いてきた霊の風、あるいは心からあふれる水を言葉にしたもの。キリスト者の詩は神の国からの風をいわば他の人にも聞こえる音にしたものと言えます。ここには、私たちの徳島聖書キリスト集会に参加している方二名の詩をあげて短いコメントを付けました。そのうち、貝出さんの詩はここに収めたのとは別の詩が無教会の全国集会において、自作の詩と曲を歌って参加者の心に残されたこともありました。伊丹さんの詩は、「美研インターナショナル社」から発売された単行本に収められたものです。(なお、○を付けた短いコメントは編者吉村のものです。)
時 貝出 久美子
祈っても
祈っても
全く変わらないと
思えるときでも
静かに
静かに
神様の時は
満ちている
○神は私たちの考えや祈りを超えて、その御計画をなされている、これは私たちのキリスト教信仰の根本にあるべきことです。隣人を愛せよ、真実であれ、といった人間にかかわる教えだけがキリスト教でなく、宇宙全体を御支配なさっている神が、その大きな御計画をはるかな昔から現在にいたり、はるかな未来に向けて、大いなる計画を実現していくその過程なのだと信じることも、キリスト教信仰の重要な部分といえます。
野に咲く花は
野に咲く花は
ひとすじに
神の御旨を聴きて咲く
赤と聴けば主のために
白と聴けば主にならい
聖なる清らかな白に咲く
青と聴いた花たちは
天を仰いで祈りつつ
空ほど深い青に咲く
(詩集 「灯火のひとしずく」より)
○自然のたたずまいが私たちの心を惹くのはそれが神の御心のままに生き、また、御心のままになされているからです。神の真実や美しさ、清さ、力などが直接的に反映されているのが山や渓谷、大海原やその波、また野草や樹木などです。小鳥や犬、ネコのような動物もそれらの純真さのゆえにしばしば人間以上に私たちの心を慰めることがあるのも同様です。
新しい歌 伊丹 悦子
私はしに歌を歌います。
主が私を豊かにあしらわれたゆえ。(詩編一三・6)
心の絃よ
鳴れ
あたなの
指が触れたから
傷んだままで錆びついて
死のうとしていた
わたしの心のの竪琴よ
久しく歌うことのなかった絃よ
鳴れ
しずかにそっと
あなたのみ手が触れたから
ふるえて鳴って行け あなたの後を
そして歌え 新しい歌を
あなたへのほめ歌を
そのもろもろの
くすしきみわざを
(詩集「いつかの空」より)
○自然の世界もそれ自体がしばしば竪琴となって、その音楽を響かせています。風の音、波、小鳥、風にそよぐ木々の音など。さらに星の光、雲の動き、青く澄んだ大空なども沈黙でありながら、そこに天の国の竪琴を響かせているのです。私たちの心もまた、神の御手が触れるとき、ひとつの竪琴となります。古びてしまい音の出なくなったのもあり、また弦が切れてしまったのもあり、あるいはもうかすかな音、響きの濁ったものしか出なくなったのもあるように思います。
主よ、私たち一人一人の魂に触れて下さって、私たちの心がみんな天の国の音楽を奏でる竪琴とならせたまえ!