はこ舟 2004年4月 第519号
内容・もくじ
野の花を見よ
苦しみの後に
祝福の源
テロとの戦い
ことば
休憩室
返舟だより
野の花を見よ 2004/4
主イエスは当時の人々のまちがった形式的宗教を根底からの改革を指し示したお方であった。社会的指導者に対しても遠慮なくそのまちがいを指摘した。そして祖国が真の神に立ち返らないことから、裁きが間近に迫っていることを見抜き、深き悲しみをもってそれを見つめた。主は、社会的、政治的にも深い洞察をもっておられた方である。
そのようなイエスが言われた有名な言葉がある。
…野の花がどのように育つのか、注意して見よ。
働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(マタイ福音書六・28~29)
ソロモンとは、イエスより千年ほど昔の王で、英知においても優れていたが、神殿や宮殿を二十年もかけて築き、おびただしい富をもっていたことで知られている。さまざまの金銀の道具もゆたかに備えていた。
彼らの民族の歴史上でもかつてないほどの栄華を極めた王であっても、それは路傍の野草の一つにも及ばないと言われたのである。
野草を心して見るときには、どんなこの世の豪華なものよりもすばらしい美と驚くべき仕組みが見出せるというのである。
同様にもし、私たちが見る目をもっていたら、世の中で目立つ俳優、スポーツ、政治などの人々よりはるかにすぐれたものを、身近な人々、また小さき人々のなかに見ることができるであろうし、さまざまの出来事においても、その背後の神の導きを見るとき、そこにも驚くべき御手のわざを感じることができるであろう。
平和への道
現代の世界は、平和への道を見失っている。国連も、アメリカが始めたイラク戦争についてもリーダーシップをとることができなかった。アメリカもようやくみずからの過ちに気づき始めている。
日本も真の平和への道が六〇年前に明確に憲法第九条となって、示されたにもかかわらず、その道を見失いつつある。アメリカやイギリスはイラク戦争を始めた根拠に対して重大な疑いが国民の間にもだんだんと大きくなりつつある。そしてそれに同調したスペインは撤退することを決定した。
しかし、日本はそのまちがった方針で始めたイラク戦争を率先して同調したにもかかわらず、首相を支持する人が驚くほど多い。
これは日本の政府や国民が真の平和への道が分からなくなっていることをはっきりと示していると言えよう。
すでに今から二〇〇〇年も前に、主イエスはつぎのように言われた。
…エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。
しかし今は、それがお前には見えない。…」(ルカ福音書十九・41~42より)こう言われて、エルサレムが敵によって激しい攻撃を受けて廃墟となることが預言された。そしてその預言通り、主イエスが十字架で処刑されてから、四〇年もたたない紀元七〇年にローマの将軍ティトスは、皇帝から全権を託されてエルサレムを攻撃し、神殿を炎上させ、当時の歴史家のヨセフスによれば、捕虜になった者は九万七〇〇〇人、ローマ軍の攻撃によって生じた死者は一一〇万人にも達したという。(ヨセフス著「ユダヤ戦記」第三巻192頁)こうしてエルサレムは徹底的な荒廃にさらされ、主イエスの預言が驚くばかりに成就したのであった。
このような滅びの原因は何か、それは主イエスの言葉によれば、「神の訪れるときを知らなかったから」である。それは、キリストが神の真理をもって、神の訪れとして来たのにそれを拒み、その真理を知ろうとしなかったからである。
現在の私たちにおいても、同様なことが言える。平和への道、それは太平洋戦争のおびただしい犠牲者によって、いかなる武力をも国際間の紛争を解決する手段としては用いないという原則である。それは遠く旧約聖書にすでに源流がある。(*)そして
主イエスによって確固とされた真理である。
日本の憲法の平和主義はその延長上に生み出されたものだと言えよう。
この平和への道を無視し、まちがった道に踏み込もうとしているのが現在の日本である。
私たちは聖書によって真の平和への道を証し続けなければならない。
(*)見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る…
わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。(旧約聖書・ゼカリヤ書九・9~10より)
このように、真の王とは、武力や豪華な外見をもって飾るのでなく、みすぼらしいロバに乗ってくるような謙遜なお方である。そしてそのような王によって、武力による戦いは終わり、真の平和がもたらされる。そしてその平和は世界に及ぶ。
この預言は、今から二五〇〇年ほども昔に言われたものであって、目に見える世界では、それに反することが続いているが、キリストによってたしかに霊的に成就されていきつつある。