テロとの戦い 2004/4
アメリカの大統領や日本の首相が繰り返し口にする言葉は、テロとの戦いということだ。しかしそもそもテロとは何なのか。(*)個人が爆弾を抱えて人込みのなかにて爆発させるとテロといって、犯人と言われる。
しかし、アメリカの軍隊が攻撃して六〇〇人もの人々を死に至らせたらそれは軍事攻撃という。そして彼らを犯人とは言わない。
こんな奇妙なことはない。テロとの戦いをする、テロをなくすると言いながら、その当事者が相手をはるかに上回るテロをやっているのだからである。
さらに、大規模な戦争となって、国家が大々的に敵国に爆弾を雨のように降らせ、ビルを爆破し、無数の人々を殺傷しても、軍事行動とかいったり、太平洋戦争のときの日本もそうであったように、そうした大規模なテロ行為を国中が喜んだりする。
(*)テロとは何かについては、いろいろの定義や説明が行なわれてきた。
広辞苑では、テロを「暴力或いはその脅威に訴える傾向。暴力主義。」と説明している。
また、大日本百科全書では、次のように説明している。(部分的な抜粋、要約)
「強制の手段として恐怖もしくは暴力を系統的に用いる考え方ないし行動。フランス革命期のジャコバン派の恐怖支配(regime de la terreur)に由来するとされているが、テロリズムの実践は人類史上きわめて古い。
第二次世界大戦のとき、ユダヤ人が、ヒトラーによる命令のために、大量虐殺されたこともテロである。しかし、これら歴史上の例からもわかるように、権力を持つ側が、それに反対する人たちを弾圧するときに行なうテロがあるのに対して、逆に政府や権力者に対してその支配をくつがえそうとして行なうテロがある。テロリズムの語の意義はかならずしも一元的ではない。」
また、欧州連合(EU)は、テロを「一国または複数の国、そしてその機関や国民に対し、それらを威嚇し、国家の政治、経済、社会の構造を深刻に変容させる、あるいは破壊する目的をもって、個人または集団が故意にはたらく攻撃的行為」と定義している。
また、「人命または器物への脅威をもって、政治的意図を達成しようとする行為」と言うように定義されたりもする。
二〇〇一年九月十一日にアメリカの世界貿易センタービルが破壊されたとき、ブッシュ大統領は「これは戦争だ」と言って、その攻撃にはアフガニスタンという国家の後ろ楯があるとし、そこからアフガニスタン攻撃を正当化した。このように、九月十一日の事件の最初から、テロと戦争とは区別をつけることができないものであったのがうかがえる。
ここにあげたような定義に見られるように、政治的意図をもって他者の命を奪おうとするような行為がテロであるなら、戦争こそは、最大のテロである。
テロとの戦いとはテロをなくするための戦いである。それなら、戦争という行為をなくすような働きこそ、テロとの戦いの最大のものとなってくる。
憲法第九条の平和主義は、そうした観点から暴力、武力をもって他国の人間の命を奪うことを永久に放棄するということなのである。それは国家的テロである戦争行為から、どれほど多くの人命が失われ、それをはるかに上回る人々がからだを壊され、家庭も破壊されて苦しみ続けることになったか、そのことを深く受け止めたからこそ、日本人も制定当時、全面的に賛成したのであった。
テロとの戦いと称して軍事力にまかせて相手を攻撃することによっては、テロを誘発しているのと同じである。事実、イラクでのテロが一層激しくなったのは、アメリカが自国の兵が殺されたということで、激しい攻撃をして六百人もの人々の命が奪われたからであった。
テロとは暴力であり、武力であるから、それをなくするのには、武力や暴力を使っていてはなくなるはずがない。こんな当たり前のことが日本の首相や与党には分からないのである。
今回の人質事件にしても、テロをなくすためには自衛隊とかの軍事力では役に立たないだけでなく、逆効果であるからあのように、個別に小さい働きながら地道にやっていこうとしたのであろう。
テロに屈するとは、自衛隊を撤退させることでなく、憎しみを相手に持つことである。テロとは憎しみであり、テロに屈するとは憎しみという感情に屈して相手を憎むようになったとき、テロを一番深いところで押し進めている闇の力に屈してしまったことになる。
テロに屈しないとは、あくまで相手を憎むことなく、従って暴力、武力で復讐しようとせずに話合いで解決しようとすることである。
かつて、黒人差別の激しいとき、マルチン・ルーサー・キング牧師は、クー・クラックス・クランのような、激しいテロ集団の暴力による攻撃に対しても、決して相手に暴力で仕返すことをしないという方針で運動を続けた。
そうした態度を堅持することこそが、テロに勝利することである。
相手のテロに対して復讐すること自体、すでにテロに敗北しているということになる。
こうした基本的なものの考え方は、すでに二千年も前に新約聖書に明確に記されている。
むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマの信徒への手紙十二・20~21)
テロという悪に勝つ唯一の道は、暴力や武力でなく、武力以外の善をもって、相手に対処していくことである。
この非現実的と思われるようなことこそ、究極的な対処の道である。アメリカやそれに協力している三十カ国以上の国々はアメリカのまちがった武力による対処を応援するかたちとなったが、それによって一層イラクはテロという暴力が双方で横行する事態となってしまった。それは彼らの考えが間違っているということを示すものである。
キリストは「私の国はこの世のものでない」と言われた。キリスト者の真の祖国は、使徒パウロも言ったように、日本でもアメリカでもなく、天の国である。その国から派遣されたかたちになっているキリスト者は、地上のまちがった方法でなく、いかに地上の人たちに受け入れられなくとも、最も賢明な天の国の方策をつねに指し示すことが求められている。