はこ舟 2004年5月 第520号
内容・もくじ
忍耐と希望
地の塩・星のように
「天路歴程」について
死の谷をすぎて
主が共におられる
ヨセフの歩み(創世記三十九章より)
ことば
休憩室
返舟だより
忍耐と希望 2004/5
聖書においては、「忍耐」と「希望」とは不可分に結びついている。この点では日本語の「忍耐」という言葉とは大きく異なっている。
日本語では、困難な状況にある人に対して「忍耐しなさい」と言えば、それはがまんする、がんばってそれに耐える、という意味になる。国語辞典にも「じっと我慢すること」(学研国語辞典)とあり、広辞苑では、「こらえること。たえしのぶこと。」と説明されている。
ここには希望というのはない。希望はないがただ我慢するだけだということで、事態がよくなることへのあきらめがそこにある。
しかし、聖書において「忍耐」というとき、それはたんなる我慢やこらえるというようなことではない。
あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。(Ⅰテサロニケ一・3)
ここで、パウロが絶えず覚えているのは、信徒たちが信仰によって働き、愛ゆえに苦しみつつ働き、希望と結びついた忍耐ということであった。このように忍耐は直接に希望とつながっていることが示されている。
また、
良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。(ルカ福音書八・15)
このたとえにおいても、私たちが実を結ぶのは、み言葉を心して受け入れ、どんなことがあっても、神に希望をおきつつ耐えていく、それが実を結ぶことにつながると言われているのであって、単に苦しみを我慢していたら実を結ぶというのではない。
やはりパウロのよく知られた忍耐と希望に関する言葉にはつぎのような箇所がある。
わたしたちは、キリストのお蔭で、いまの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
それだけではなく、患難をも喜んでいる。(*)
なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
忍耐はよい品性の者とし、さらに希望を生み出すことを、知っているからである。(ローマの信徒への手紙五・2~4より)
(*)「患難をも喜ぶ」という表現で多くのキリスト者によく知られた言葉であるが、右の聖書の文で「喜んでいる」と訳された原語(kauchaomai ギリシャ語)は、「誇る」という意味も持っているので、新共同訳では、「患難を誇る」と訳している。しかし、日本語では、「誇る」というと、例えば学歴を誇るといった具合に「自慢する」というニュアンスになるが、パウロがこのような意味で患難を自慢しているなどとはもちろん考えられない。
パウロが、何事が起ころうとも、「いつも喜べ、常に感謝せよ」(Ⅰテサロニケ五・16~18参照)と、教えていることからしても、ここでは「喜ぶ」というのが、日本語としては、パウロの心にあった気持ちに近いと思われる。なお、口語訳、新改訳、文語訳などは「喜ぶ」と訳している。英語訳では、プロテスタントとカトリックのそれぞれ代表的な訳の一つとして知られるつぎの訳はいずれも、「喜ぶ」という訳語を使っている。
・Not only so, but we also rejoice in our suffering. (New International Version)
・Not only that;let us exult, too, in our hardships. (New Jerusalem Bible)
患難(苦しみ)に会うことによって、私たちは精神が鍛えられ、いっそう真剣に神を求めるようになる。そしてその真剣に求める心が神によって祝福されて、困難のただなかにおいても神からの喜びを感じることができる。
それは、苦しみは忍耐を生じる、すなわち、神を待ち望むという心を生み出す、そしてそれがその人の性格となり品性となっていく。どのようなことがあっても、神は必ず最善に導くという確固たる希望へとつながっていく。
このように、忍耐という言葉は、単なるあきらめや我慢では決してなく、神を信じ、神に心を注ぎ、神からの助けを待ち望む姿勢なのである。神がおられ、弱きところにかえってその力を注いで下さるのが神であり、愛の神であるならば、その神が単にあきらめと結びついた我慢を求めていることはあり得ない。
このように、聖書においては忍耐とは希望と結びついているがそれは、言葉の面でも明らかである。
主よ、わたしが声をあげて叫ぶとき、聞いて、私を憐れみ、私に答えて下さい。…
わが救いの神よ、私を捨てないで下さい。
たとい父母が私を捨てても、
主が私を迎えて下さる。
私は信じる、主の恵みを見ることを。
主を待ち望め、強く雄々しくあれ!
主を待ち望め!(詩編二十七より)
この詩には、苦しみの中から全力をあげて神を見つめ、神に叫び、救いを求め続ける魂のすがたがある。作者はたとい最も身近で関わりの深い父母が捨てるほどのことがあろうとも、神は見捨てないという確固たる希望を持っている。この詩の最後が、「主を待ち望め!」(*)という言葉で終わっているが、この言葉こそ、「忍耐」という訳語で表されている内容なのである。
(*)このギリシャ語訳(七十人訳)は、「hupomeinon ton kurion」(主を待ち望め)であり、「待ち望む」と訳されるギリシャ語は動詞であり、その名詞形(hupomone)が、新約聖書で「忍耐」と訳されている。
主イエスは、「最後まで忍耐するものは救われる」と言われた。ここでも、単に我慢するというのでなく、最後まで神への希望を失わず、神に待ち望む者こそは、救われる、という意味なのである。それほど、キリスト教における希望は重要なものであるし、そのようにいつまでも、世の終わりまでも続いていくものなのである。
それゆえにつぎのように言われている。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(Ⅰコリント十三・13)