ヨセフの涙 2004/7
旧約聖書の創世記の後半に現れるヨセフに関する物語は、子どものときから学習雑誌で読んだことを覚えている。そのときは単なる昔の物語としてであって、中学以上になるともう全く思い出すこともなかった。
そしてそのような昔話が現代に生きる私たちに何らかの関係があるなどということも思いもよらなかった。
しかし、聖書の内容が次第にその深い意味を現してくるにつれて、こうした過去に読んだ単なる物語だと思ったものが、現代の私たちにも深い意味を持っていることに気付いてきた。
創世記四十二章以降もヨセフに関する記述が続いているが、その中で、ここではヨセフが涙を流したことが、繰り返し八回ほども記されていることの意味を考えてみたい。
ヨセフの兄弟たちは、かつて弟のヨセフを殺そうとした。そしてそれはいけないという者もいたので、結局通りがかった商人たちに売り渡し、ヨセフはエジプトへ売られていった。
ヨセフは王の宮廷の役人の家で働くことになったが、そこから無実の罪によって捕らえられ、牢獄に入れられた。しかし、そこで神の力を受けて様々の不思議なこと、驚くべきことが起こり、獄中の人間から、エジプトの最高の実力者の地位にまで上がったのであった。しかもヨセフは地位をあげるためのいかなる運動めいたこともしなかった。ただ、不思議な導きによってそうなったのである。
さらに意外なことが続き、かつてヨセフを殺そうとまでした兄弟たちが飢饉のために、エジプトにやってきて穀物を購入しようとした。そのときヨセフは直ちに兄弟たちに自分の身を明かそうとはしなかった。全く素知らぬ顔をして、兄弟たちの心がよくなったかどうか確かめようとしたのである。
そのためにあえて難しい要求を出した。それは父が最も愛している末の子(ベニヤミン)を、父のいるカナンから連れてくるように命じたのである。兄弟たちは驚き、苦しんだ。長い間、かつての自分たちの重い罪をわすれて生きてきたと思われるが、この苦しみに出会って彼らはその罪を思い起こしたのであった。
彼らは、 互いに言った。
「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」
すると、ルベンが答えた。「あのときわたしは、『あの子に悪いことをするな』と言ったではないか。お前たちは耳を貸そうともしなかった。だから、あの子の血の報いを受けるのだ。」(創世記四二・20~22より)
この兄弟たちの言葉を聞いて、ヨセフは彼らに遠ざかって涙を流した。それは何の涙か。兄弟たちが、自分たちの罪に気づき、その罪の重さに目覚めて悔い改めをはじめたのがわかったからである。ヨセフが涙を流したのはそのことのゆえであった。
新約聖書においても、天において最も大いなる喜びがあるのは、罪人が悔い改めたときだと記されている。
罪人がひとりでも悔い改めるなら、(悔い改めを必要ないとして、自分を正しいと思い込んでいる)九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にある。(ルカ福音書十五・7より)
ヨセフが涙を流して深く心を動かされたのは、単なる再会の懐かしさのためではなかった。自分をかつて迫害した兄弟たちのはるか上の立場となって兄弟たちがかつて自分が見た夢のように、自分の周りにひれ伏しているという驚くべき夢の実現の喜びのためでもなかった。ふつうなら、子どものときに見た夢がそのまま、おそらくは二〇年近く経ってから実現したことに驚き、喜ぶかも知れない。
しかし、神に導かれて生きてきたヨセフはそうした人間的な優越感から喜ぶなどという感情は生じることがなく、罪の悔い改めという一点において深い喜びを感じて、思わず人知れず涙を流したのであった。
兄弟たちはエジプトの最大の実力者が自分たちに命じるゆえに、やむなく遠い父親の住んでいる国に帰り、末の子ベニヤミンを連れて再びエジプトに戻ってきた。
そして穀物を購入したのち祖国への帰途についた。そのとき、ヨセフが用いていた高価な銀の杯をだれかが盗んだとの疑いをかけられて兄弟たちは再びエジプトのヨセフのもとに呼び返された。そしてその銀の杯が、ベニヤミンの袋から見つかった。そのために、ベニヤミンは、エジプトで奴隷にならねばならないと宣告された。
こうしたことは、すべてヨセフが兄弟たちの真実さを試みるためになされたことであった。
兄弟たちはかつてヨセフのことで自分たちがはかりごとをして弟のヨセフが死んだと偽って父親に報告し、父ヤコブを深い悲しみに陥れた。今度は最愛のベニヤミンまでも失えば、父ヤコブの悲しみは耐え難いものとなり生きていけなくなるかも知れないと兄弟たちは思った。
そのような窮地に追いつめられて彼らのうちの一人、ユダ(*)は次のように言った。
ユダが答えた。「御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、わたしどもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。
この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。」(創世記四四・16)
(*)このユダはヤコブの子どもであり、アブラハムの子孫の一人。イスラエルの十二部族のうちで、このユダ部族だけが残ったので、後にユダヤ人という名称が生れた。創世記では、ユダという名は、「主をほめたたえる」という意味だとされている。ユダというとキリストを裏切ったユダがあまりにも知られていて、一般的にはこの創世記のユダのことはあまり知られていない。
このように、ユダはかつての自分たちの罪を思い知らされ、それを神が明るみに出したのだと知った。
彼は、ほかの兄弟たちに罪を転嫁したり、自分だけでなく兄弟たちとともに悪事を働いたのだとか言い訳をもせず、そこに神の御手の働きを知らされ、神ご自身が罪を明らかにされたのだと悟った。
このように、このヨセフや兄弟たちの記述は決して単なる話しのおもしろさなどを目的として書かれたのではない。新約聖書の時代にも共通して流れている真理である、罪を知ること、そしてその悔い改めの重要性を指し示しているのである。そして本当に自分たちの罪がわかったとき、その罰をも逃げないで甘んじて受けるという姿勢をユダは持っていた。
そしてもし父がヨセフの代わりに特別に愛しているベニヤミンを失ったら、父ヤコブを苦しめて死なせることになる、そのようなことにならないために、ユダは言った。
…何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。
この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」(創世記四四・32~34)
このように、父を苦しみと悲しみにあわせないために自分が奴隷となって一人エジプトに残されてもよい、そのようにして欲しいと懇願した。自分たちが受けている疑いは根拠のないことだと全力をあげて反論しようともせず、甘んじて、自分が遠い異国で奴隷になるということまで覚悟した背景には、ユダがかつて兄弟たちとともに父を欺いて苦しめたことが念頭にあり、そのようなことを自分の命にかけても繰り返さないという決意であった。
このようなユダの心は、すでに引用したように「神がかつて弟たちにした悪事のことで裁きを受けているのだ」(四二章21)というところから来ていると言えるであろう。
自分が犯した罪の重さを知る度合いが深いほど、私たちが直面する思いがけない苦しみであってもそれは、その罪の罰であり、また、その罪の重さを知らせていっそう正しい道に立ち返らせるための神の導きなのだと受け入れることができる。
ユダの心にはそうした罪の悔い改めがあったからこそ、こうした自らの苦しみをすすんで受けようとまでしたのであった。
ヨセフはそのユダの決意を聞いて、そばに仕えている家臣たちを退かせ、大声で泣いた。ヘブル語原文では、「エジプト人は(それを)聞いた。ファラオ(王)の家(の者たち)は聞いた。」(*)とあり、 ヨセフが声をあげて泣いたことが周囲にいたエジプト人にも聞こえたほどであり、そのことが宮廷全体にも伝わったと強調されている。
(*)英訳の一つをあげておく。And he wept so loudly that the Egyptians heard it, and the household of
Pharaoh heard it.(New Revised Standard Version)
ヨセフが、大きな声をあげ涙を流したほどの深い喜び、それは兄弟たちの真の悔い改めを知ったからであり、それがユダの自分を犠牲にしても父を守ろうとしたほどにその悔い改めが疑いないものであることがわかったからである。
そのことは、創世記の最後の部分で、ヨセフの兄弟たちが、父ヤコブが亡くなった後で、さらにその悔い改めの心を現したときの描写でも表されている。
兄弟たちはもしかしてヨセフがまだ自分たちがかつて犯したヨセフへの罪を赦さず、仕返しを受けるのでないかと案じた。
…そこで、人を介してヨセフに言った。「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。
『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」
これを聞いて、ヨセフは涙を流した。(創世記五〇・15~17より)
ヨセフの涙、創世記では繰り返しそのことが記されている。(*)
それは八回にも及んでいる。このような記述のなかに、創世記を書いた人が特別にヨセフの涙について動かされたのがうかがえるし、それは書いた人の背後におられる神のお心を映し出しているものだといえよう。
(*)最初は二〇年ほども経って、かつて自分を殺そうとし外国人に売り渡した兄弟たちが、自分たちの罪に気付き、いまの苦しみはその罰だと気付いた時(四二・24)、ついで、まだ自分のことを明かしてはなかったときに弟ベニヤミンを初めて見たとき(四三・30)、それから兄弟たちに自分のことを明かしたとき(四五・2)、そして初めて兄弟としてベニヤミンを抱いたとき(四五・14)、兄弟たちをも抱いたとき(四五・15)、さらに長い歳月を経て、父ヤコブと再会したとき(四六・29)、さらにその後父の死去のとき(五〇・1)、そして最後に、さきほど引用した兄弟たちが赦しを乞う願いを聞いたときである。
しかもこのヨセフの涙は、どれも喜びの涙であって、孤独のゆえに流す悲しみや悔しさの涙ではない。彼が兄弟たちに憎まれ、殺されそうになってついに外国に売られたときや、無実の罪で牢獄に入れられたとき、そしてようやくそこから出られると希望をもったときにも忘れられてしまったこと…そうした数々のことにおいてもヨセフが涙を流したとは書かれていない。
こうした涙の最初と最後の記述が、いずれも兄弟たちの罪の悔い改めに関することであった。そこに聖書がどのようなところに心の深い感動があるかを示そうとしているのがうかがえる。
ヨセフの涙は喜びの涙であった。それは単に再会したことでなく、かつて自分を売り渡した兄弟たちが、その罪を知りはじめたこと、そして悔い改めへと導かれていく道にあることを知ったことによる。神が最も喜ばれるのは、表面的によいことをしたことでなく、こうした自分の罪を知ることである。人生の本当の喜びはなにか楽しいことをしたとか、自分の目的通りになったとか人々が認めてくれたとか、でなく、自分の罪を知って悔い改め、そこから神につながり、神からの平安を与えられ、神の国の賜物をいただくようになったときである。
それは九十九匹の羊をおいて、一匹の見失われた羊を探し求め、見出して喜ぶ神の愛、悔い改めた一人の罪人に喜ぶ天使たちの心(ルカ十五・10)であり、放蕩息子の父親が、悔い改めて帰って来たその息子のために、最大限に喜ぶ心として聖書では繰り返し記されている。
人間の喜びはしばしば単に飲食とか名誉、称賛を受けること、金や物などが手に入ったときに生じる。
しかし、神の心はどんなことに喜び、深く心動かされるのかが、ヨセフの涙を通して示されている。
罪を知らず、悔い改めと、赦しのないところでは私たちの本当の平安もなく、力も与えられない。このヨセフと兄弟たちとの出会いの場面そのことを表している。
ヨセフが自分もかつて兄弟たちに誇ったりする人間であったのが、苦難によって砕かれて神中心に生きるようになったこと、悔い改めがいかに重要であるかを知らされたがゆえに、そこから兄弟たちをもその悔い改めへと導こうとしていることが書かれていて、ここに神のお心が示されている。