この世は何が支配しているのか 2004/10
旧約聖書にはダニエル書(*)というわかりにくい書物があるが、そこには一読して分かりやすいと思われる内容もある。
例えば、王を神のように拝めという命令に従わなかった三人の若者たちは、火に投げ込まれるが、驚くべき神の守り、すなわち御使いたちによって救い出されたこと、また、ダニエルが、王の命令に背いて、自らの信じる神に毎日祈りと讃美を捧げていることが見つかり、ライオンのいる洞窟のなかに投げ込まれる。しかし、そこでも神の守りによって危害を受けなかったことなどが書かれている。
(*)ダニエルという名前は、有名な指揮者かつピアニストのダニエル・バレンボイムのような人名としてなじみがあり、私もキリスト者となるずっと以前からダニエルという名前は知っていた。ダニエルとは、ディン(裁く)と、エル(神)とから成っており、「神は裁く」という意味をもっている。
このような内容は、子どもの日曜学校のテキストにも書かれてあり、あまりにも非現実的だということのためか、単に興味深い昔話として読まれてしまい、現代の私たちと関係のないものと思われがちである。
けれども、このような驚くべき奇跡によって、このダニエル書は永遠のメッセージを神から私たちへ伝えようとしている。それは、この世は悪が至るところにあり、その悪が支配しているように見えるし、実際に悪しき権力者やその部下たちによって正しい人たちが実に無惨に捕らえられ、苦しめられ、殺されていく。
しかしいかに現実の世界で神などいないと思われるような暗い状況においても、背後には、神の驚くべき守りがあり、御計画があるということへの確たる証言なのである。
信仰のゆえに、神を信じる者が著しい苦しみを受けるということ、それはこのダニエル書の時代だけでなく、ずっとはるかな古代から今に至るまで続いている事実である。
ダニエル書が書かれた時代は、この書物のさまざまの記述を綿密に研究することによって、紀元前一六八年頃といわれている。それは、その頃にイスラエルに激しい迫害を起こした、アンティオコス・エピファネス四世(**)の時代の頃に書かれた書物だとされる。このことは、旧約聖書続編(***)の、マカバイ記という書物に詳しく記されている。このマカバイ記は、新共同訳では87頁にわたっており、創世記とほぼ同じ分量で、当時のアンティオコス・エピファネス四世の迫害の状況が具体的、詳細に記されている。
(**)アンティオコス・エピファネス四世とは、在位 BC175~163。アレクサンドロス大王の死後、創設されたセレウコス王朝の支配者のうちの一人。マカバイ記には直接彼の名前が何度か記されている。「そしてついには、彼等の中から、悪の元凶、アンティオコス・エピファネス四世が現れた。…」(マカバイ記一・10)
(***)旧約聖書続編とは、外典とも言われる。ヘブル語旧約聖書に含まれていない文書で、キリスト教会によって、尊重され、正典ないし、それに準ずる位置を与えられてきた諸文書をいう。有名な古代教父たちの間でもその位置づけについては意見が分かれていて、ヒエロニムスは旧約正典と外典を区別したが、アウグスチヌスは正典と外典を区別しない立場を取った。旧約聖書から新約聖書の間には大体において数百年の隔たりがあり、その間に書かれた文書は、その頃の歴史や当時の人たちの信仰を知るためには不可欠のものである。
ここでは、とくにその七章について見てみよう。
ダニエルは、一つの夢を見た。それは次のような内容である。
… 天の四方から風が起こって、大海を波立たせた。
すると、その海から四頭の大きな獣が現れた。それぞれ形が異なり、第一のものはライオンのようであった。…
第二の獣は熊のようであった。
次に見えたのはまた別の獣で、豹のようであった。
第四の獣は、非常に強く、巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじった。他の獣と異なって、これには十本の角があった。
その角を眺めていると、もう一本の小さな角が生えてきて、先の角のうち三本はそのために引き抜かれてしまった。この小さな角には人間のように目があり、また、口もあって尊大なことを語っていた。…(ダニエル書 七章より)
このような記述だけをみれば、全くなんのことか分からない人が多数を占めるであろう。ダニエル書は当時の世界の歴史的な状況を描いているのである。海から四頭の獣が現れたという。現代の私たちと異なって、聖書の時代には、海はその深い闇と大量の水によって舟でも人間でも呑み込まれたら二度と帰っては来れないということなどから、得体の知れない恐いもの、サタンがそこに住んでいるとみなされていた。黙示録にも、悪魔から力を受ける一頭の獣が海から現れることが記されている。(黙示録十三・1~2)
ここで言われている四頭の獣とは、バビロン、メディア、ペルシャ、ギリシャとされている。
そして、第四の獣の十本の角から、一つの小さな角が生えてきて、ほかの角は引き抜かれ、傲慢な態度であったという。 この小さな角こそ、ダニエル書の書かれた時代に最も厳しい迫害をして、民を苦しめた、アンティオコス・エピファネス四世であり、ダニエル書全体がこのときのはげしい迫害を背景として記されている文書なのである。
この支配者がいかに神の民を苦しめたかについては、さきに述べた旧約聖書の続編に含まれるマカバイ記に詳しく記されている。その一部をここに記す。
…そしてついに彼等の中から、悪の元凶、アンティオコス・エピファネスが現れた。彼はエジプトを侵略し、その後で、イスラエルへの攻撃に転じて、エルサレムに大軍とともに進軍した。そしてこともあろうに、人々が最も神聖だとする聖所に入り込み、金の祭壇、燭台、その他の神への礼拝に用いる用具などを奪い、金の装飾とか金銀の貴重な祭具類をはぎ取り、略奪のかぎりをつくして国に帰っていった。
数年後、再び大軍をともなってアンティオコス・エピファネス四世はエルサレムに来て、イスラエルの人々をだまして、平和交渉と称して襲いかかり、多くのイスラエル人を殺した。そして略奪をした上で、都に火をつけて、家々や都を取り囲む城壁を破壊した。女、子どもは捕らえられた。…
聖所での焼き尽くす献げもの、いけにえ、なども中止し、安息日や旧約聖書にもとづく祝祭日も中止、聖所を汚し、そのうえで、異教の祭壇や偶像を作り、人々がながく守ってきた割礼を禁止した。要するに神からうけたとして守ってきた律法を忘れさせようとした。そして律法の巻物を見つけるとそれを引き裂いて火に焼いた。それを隠していたのが見つかったり、律法に従って生活を続けている者は、見付け次第処刑された。子どもに割礼を授けた母親は、王の命令で殺し、その乳飲み子を母親の首につるして、その家族の者たちまでも命を奪った。(旧約聖書続編
マカバイ記Ⅰ一章より)
この記述と、旧約聖書のダニエル書にある次のような記述を比べてみれば、それが共通した内容を持っていることに気付く。
その上、天の万軍の長(神)にまで力を伸ばし、日ごとの供え物を廃し、その聖所を倒した。
また、天の万軍(イスラエルの人たち)を供え物と共に打ち倒して罪をはびこらせ、真理を地になげうち、思うままにふるまった。
わたしは一人の聖なる者が語るのを聞いた。またもう一人の聖なる者がその語っている者に言った。「この幻、すなわち、日ごとの供え物が廃され、罪が荒廃をもたらし、聖所と万軍とが踏みにじられるというこの幻の出来事は、いつまで続くのか。」(ダニエル書八・11~13)
また、このことは、さらにダニエル書の十一章においても再び記されている。
彼(アンティオコス・エピファネス四世)は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる。
契約に逆らう者を甘言によって棄教させるが、自分の神を知る民は確固として行動する。
民の目覚めた人々は多くの者を導くが、ある期間、剣にかかり、火刑に処され、捕らわれ、略奪されて倒される。(ダニエル書十一・31~33)
以上のように、マカバイ記に記されている迫害の背景を知ってはじめて、ダニエル書がそれと同時代に書かれた文書であるということがはっきりと感じられるようになる。
つぎに、マカバイ記Ⅱの六~七章の中からより詳しい記述を引用する。
息子に割礼をしたという理由で、二人の女が引き出され、その胸に乳飲み子をかけられ、、彼女たちは町中引き回されたあげく、城壁から突き落とされた。また近くの洞窟にて、秘かに安息日を守っていた人々があったが、密告され、みな焼き殺されてしまった。…
律法学者として名声のあったエレアザルはすでに高齢であったが、口をこじ開けられ、律法で禁止されている豚肉を食べるように強制された。しかし、彼は神の律法で禁止されているものを食べるよりは、むしろ死を受け入れることを選び、それを吐き出してすすんで拷問をうけようとした。そのとき、彼と知り合いの者が豚肉の代りに清い肉を食べて、豚肉を食べたようにみせかけることをひそかに連れ出して勧めた。しかし、エレアザルはそれを断ってこう言った。
「我々の年になって嘘をつくのは、ふさわしいことではない。そんなことをすれば大勢の若者が、エレアザルは九〇歳にもなって、異教に転向したと思うだろう。そのうえ、彼等は、ほんのわずかの命を惜しんだ私の欺きの行為によって道を迷ってしまうだろう。また、私自身、わが老年に泥を塗り、汚すことになる。たとえ今ここで、人間の責め苦を免れたとしても、全能の神の御手からは、生きていても死んでも逃れることはできないのだ。」このようにして進んで責め苦を受けて、世を去っていった。
また、七人の兄弟が母親とともに捕らえられ、律法で禁じられている豚肉を食べるよう強制された。しかし、彼等は「律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできている」と言って、拒んだ。王は激怒して大鍋を火にかけさせ、兄弟のうちで代表的な者をまず母の面前で王に逆らったゆえにその舌を切り、頭の皮をはぎ、からだのあちこちをそぎ落とした。見るも無惨になった彼を、息のあるうちにかまどのところに連れて言って、焼き殺すように命じた。このようにして、次々と殺されていった。しかし彼等は、王に対して次のように言って世を去っていった。
あなたは、この世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせて下さるのだ。
たとえ、人の手で死に渡されようとも、神が再びよみがえらせて下さるという希望をこそ選ぶべきである。(「マカバイ記Ⅱ 七・9~14より)
このように、最も厳しい迫害のさなかにおいて、旧約聖書でははっきりとは言われていなかった復活ということが明確に確信をもって言われている。
そしてダニエル書においても、つぎのように、旧約聖書では復活のことが唯一明確に記されている。
多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り
ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
目覚めた人々は大空の光のように輝き
多くの者の救いとなった人々は
とこしえに星と輝く。(ダニエル書十二・2~3)
旧約聖書の長い時代において、死者からの復活ということは記されなかった。神の霊を豊かにうけたアブラハム、モーセ、サムエルなどの数々の預言者たちも、死の力に勝利する復活の力が与えられるということは啓示されなかった。それゆえ、創世記などでも、ヤコブは自分の子どもがエジプトから帰らなくなるかも知れないことを知ってつぎのように言っている。
…何か不幸なことがこの子(ベニヤミン)のうえに生じたら、お前たちはこの白髪の父を、悲しみのうちに、陰府に下らせることになるのだ。…(創世記四十二・38)
このように、単に死後の暗い陰府と言われたところに下るとしか思っていなかったのであるし、モーセのような旧約聖書の最大の人物、再び彼のような預言者は現れなかったと記されているほどの人物でも、「主の僕モーセはモアブの地で死んだ」と書いてあるだけで、天に昇ったとか、神のところに帰ったといった記述はまったくされていない。(申命記三十四章)
復活という、きわめて重要なこと、それがなかったらキリスト教という信仰のかたちもあり得なかったのであるが、それは、キリストより百七十年ほど昔のダニエル書において初めて明確なかたちで記されているのである。多くの人たちが神の律法のゆえに命を落とし、拷問され、苦しめられた。それは民族の危機であり、それを支えてきた信仰の存亡の危機であった。
けれども、神はそのような苦難をも決して無駄にすることはなさらない。この苦難の時期において記された、マカバイ記やダニエル書によって、復活というキリスト教の柱となる真理が明らかに示されたのである。
さらに、こうした苦難によって、打ち倒され、神への絶望に打ちひしがれるのでなく、ダニエルを通して、いかに悪魔的な支配をふるうものであっても、それらはすべてある期間までのことであって、それが終わればたちまち神の裁きを受けて滅んでいく、という神の支配がこれも明確に示されることになった。
そして最終的には、神の全面的な力と支配の力をうけた「人の子のようなお方」が現れてすべてを神の善きご意志のままに愛と真理の支配をなされるということなのである。
この「人の子」という表現は主イエスも用いられた。そしてイエスの再臨のときに語られた主ご自身の表現でも、ダニエル書の表現とはっきりした類似点がある。
夜の幻をなお見ていると、
見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り
年を経たと見えるお方(神)の前に来て、そのもとに進み
権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え
彼の支配はとこしえに続き
その統治は滅びることがない。(ダニエル書七・13~14)
ダニエル書で言われている、「人の子のような者が天の雲にのって…」という表現は、つぎの主イエスご自身が言われたことを思い起こさせる。主イエスはこのダニエル書の言葉にさらに新しい意味づけをされ、世の終わりに現れるご自身を表す言葉として用いられたのである。
イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見る」。(マタイ福音書二六・64)
また、人の子のような者が、神の前に来て、永遠の支配権、力を受けて、諸国はみな彼に仕え従うということは、新約聖書の黙示録で言われている、次の表現と同様な内容を持っていると言えよう。
…小羊(キリスト)は、主の主、王のなかの王であるから、彼ら(神に敵対する王たち)に打ち勝つ。(黙示録十七・14より)
ここでいわれていることは、小羊といわれるキリストは、あらゆる上に立っている者(主)たちの、さらに上に立っておられる存在であり、この世のあらゆる支配者(王たち)のはるか上にあって、それらの権力者たちを支配なさっているお方だとということである。
このような人間を超えた力、支配力は、人間が持つことはできない。それはダニエル書でいわれているように、神から直接に受けなければ持てない力である。
ダニエル書は旧約聖書にあってすでにキリストが神と同質のお方であるということを預言しているのであって、キリスト教の時代になって明らかにされていった、三位一体という真理を暗示していると言えよう。
このように、ダニエル書は、特別に残酷な迫害をもって人々を苦しめたアンティオコス・エピファネス四世の時代に書かれて、そこから悪魔の支配がはびこっているただなかであったゆえに、この世は何が本当に支配しているのか、という問題をとくに焦点をあててダニエル書全体にわたってさまざまの内容、表現をもって答えようとしているのがわかる。
ダニエル書のはじめの部分にあり、この文のはじめに引用したことをここで思い起こしてみよう。
偶像礼拝をしないという罪のために、燃える火の中に投げ込まれた三人の人たちが、神の助けによって不思議に助け出されたこと、またライオンの餌食に投げ込まれた洞窟で、驚くべき守りによって命を長らえたという二つの出来事は、ありもしない昔話とか、子ども向けのお話などいうことでなく、命をかけて唯一の神への信仰を守り抜こうとしたときの驚くべき助けの経験をふまえていわれているのである。恐ろしい迫害の時代にも、通常の平穏なときには想像を絶する責め苦に遇いながらも、そこに向かっている人たちが絶えなかったのは、このような奇跡ともいうべき助けが与えられたからであっただろう。外見的には助けなく、殺されていったように見える人であっても、その心の中に、御使いが現れて火の中、ライオンの中のような厳しさのただなかに、神の御手が伸ばされ、自らの魂が守られているのを実感したと考えられる。
火の燃える炉とは、すなわち激しい敵意であり、憎しみであるし、飢えたライオンとは、食いつくそうとするようなこの世の力、権力を象徴的に表している。私たちが神の御手にしっかりと捕らえられているかぎり、この世の力がいかに私たちを食いつくそうとして襲いかかってもなお、私たちはふしぎな守りを与えられてその魂が導かれていくのである。
ダニエル書とはこの世の悪との戦いについての勝利を述べた書だと言える。そのために、神とはどんなお方であるかということについても、そうした側面から強調されている。
ダニエルが見た神のすがたは次のように記されている。
… なお見ていると、王座が据えられ
長く年を経たと見える者(神)がそこに座した。その衣は雪のように白く
その白髪は清らかな羊の毛のようであった。その王座は燃える炎
その車輪は燃える火
その前から火の川が流れ出ていた。…(ダニエル書七・9~10より)
ダニエルが見た神の姿は、何よりも罪の汚れの一切なく、完全な清いお方であるということ、そして永遠の存在者であることであった。さらに強調されているのは、神の王座は燃える炎であり、神は自由に動くことができるので車輪のようなものの上に座しておられるという見方がここでなされており、その車輪そのものが燃える火であったという。さらに神の前からは火の川が流れだしている…ここでは「火」ということが繰り返し強調されていて、それは裁きの象徴として用いられている。
この書物が書かれた時期は、悪の力が支配して神に従おうとする人たちをふみにじっていたゆえに、いつまでこのようなことが続くのか、との真剣な問いかけに答える内容がこのダニエル書には満ちている。
悪がいかにはびこって支配しているように見えようとも、神はそうした悪を滅ぼす火のような力で満ちた存在なのである、だから悪を働く者たちの運命もごく限られているのであって、時が来たら、神から出る火の力によってたちまち滅びていくのだ、というメッセージが込められている。
このように、ダニエル書においては、神の愛という言葉は現れないで、神の悪への支配の力が強調されている。そして神が悪を滅ぼすのも、苦しめられている人たちへの愛ゆえであると言える。
現代に生きる私たちにとっても、悪の問題はつねに最大の問題であり続けている。アメリカのイラク攻撃、またイスラム原理主義の人たちによる無差別的テロ攻撃、あちこちで生じる犯罪、悲劇などなどすべては要するに悪の問題であり、この世を悪が支配しているのではないか、神などいないのではないかという深刻な疑問を抱かせるような事態が次々と生じている。
こうした中において、ダニエル書の私たちへのメッセージは闇に輝く光のように浮かび上がってくる。悪に対する神の力の勝利、その確信こそは最も私たちに必要なことなのである。