み言葉に聴く 2004/11
聖書は二千ページにも及ぶ書物である。その最初に「神が言われた」として記されているのは、何であろう。そこで神の言葉として作者にだれが聞いたのか。現場にだれもいなかったのにどうしてあのようなことがわかったのか。それは聞き取った人がいたからである。神にとくに選ばれた人が、神に近づけられ、天地創造という本来だれも見たことも聞いたこともない全くの神秘の事柄について、神から告げられたのである。
それは言い換えると、特別な霊的な耳が与えられてそのようなことを聞き取ることができたと言えよう。
地が混沌であり、闇がすべてを覆っていたこと、神の霊(風とも訳される)が一面を動いていた。(吹きつのっていた)といったことも、神から告げられたからこそ、それが単に大昔の想像の話というのとは全くことなる深い意味を持ち、人間の歴史において測り知れないインスピレーションを与えてきたのであった。
そしてこの創世記を記した人には、神が明確につぎのように言うことによって、宇宙の根本問題の解決の道が開かれることを知らされた。それが次の言葉であった。
光あれ!
この一言で光が闇と混乱と底知れない深淵で覆われた世界に革命的な変化を与え、いのちを与えることになった。
こうして、聖書という書物は、聞き取ることから出発していると言えるのである。
人間の声以前に神の声がいつも語りかけている。それは、主イエスが、神の愛は太陽のようにまた雨のように万人に降り注いでいると言われたことでも示されている。それは言い換えると、神の愛から出た言葉は万人に語りかけられているということでもある。愛は無関心ではない。いつも他者に働きかけるのが愛の本質であり、いつも語りかけようとするからである。
そのことをよく表しているのが、星や太陽、山々や海などの自然である。
天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。(旧約聖書・詩編十九・2~5)
ここでは、星や太陽など天体をとくに取り上げて、それらに神の栄光(力や永遠性、美しさや清さなど)が現れていること、そして、天体はかわることなく沈黙の言葉で世界に語り続けていることが書かれている。
自然の世界はいつも我々に語り続けている。風の音、波や木々の奏でる音、そして谷川の流れ、さらに植物の一つ一つもまた私たちへの神からのメッセージがたたえられている。巨木はことに沈黙でありながらそのかたわらに立つ者に不思議な力をもって語りかけてくる。長い歳月を幾多の風雨や寒さに耐えて
数百年を成長し続けたゆえにそこにはまた他にはない独特のものがあり、それはおのずと私たちに語りかけてくる。
人間は変わりやすい。しかし、そうした大木からの語りかけは、変わることのない存在の力が感じられ、無言でありながら、私たちをほっとさせ、力づける。
またそれと対照的なわずか1ミリ前後しかないような小さな花を持つ小さな野草においても、それぞれに、私たちへの語りかけを持っている。
野草のなかには花壇にあるような大きな花を咲かせるものもあり、目を覚まさせるような深いブルーの色を持つ花、カラスウリのように複雑なレース模様の花など、実に千差万別であるが、そうした花や葉の形、さらに全体としてのすがたにおいても心して見つめる時にはさまざまの語りかけが感じられる。
主イエスが、「野の花を見よ」と言われたのは、野の花からも神のメッセージが私たちに向けてなされているからである。
また、雷のすさまじい音や稲妻の光は、たんに恐いという感じで受け止めている人が多数を占めているであろうが、聖書の世界では、そのような恐れをもたらすような現象も、神のご意志の現れなのである。
神は御手に稲妻の光をまとい
的を定め、それに指令し、御自分の思いを表される。(ヨブ記)
三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み…
モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。(出エジプト記一九章)
有名な十戒が与えられる前には、このように神が近づき、稲妻や雷をもって神は答え、その後、十の最も基本的な戒め(教え)を与えたのであった。
このように、野の花のような可憐なものとは全く異なる荒々しく恐怖を呼び起こす雷や稲妻といった自然現象も神のご意志と深い関わりがあるものとされている。
神は愛である、神はやさしいお方であり、慰めの主であるというイメージからは、あの雷の轟音とか稲妻がその神のお言葉を象徴するものであり、ときには神の言葉そのものでもあるといったことは、多くの人たちにとっては到底想像できないことであろう。
しかし、自然の全体が神の御手のわざであり、すべてに神はそのご意志を表しているのが、特別に聖霊を注がれた人には分かっていたのである。
神の言葉は常に語りかけている。それはすでにあげた詩編十九編で表されているように、とくに自然において見ることができる。
「語ることもなくそれでも神の栄光を語り続けている。」
そしてその語り続けられている神の言葉はつぎの主イエスの言葉からもいえる。
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。(マタイ五:44~45)
敵対するもの、自分に対して悪意を持って向かってくる者に対しても祈ること、その人が神のよきもので満たされるようにと祈ることは、太陽の光や雨がどんな人にも注がれているのと同様だと言われている。主イエスは最も身近な自然をもこのように、深い神の愛を象徴的に表しているものとして見ておられたのである。
そのような無差別的な愛をもって注がれているのが神の愛であるならば、当然その愛はまた語りかけておられるといえる。愛とは、無関心や放置するものでなく、絶えず語りかけるという本質を持っているからである。
青い空や雲、夜空の星や風のそよぎ、動くことなき山々の連なり、またさまざまの野草たちの花等々それらは心開いて見つめる者には常に言葉を語りかけているのを実感することができる。
「聞け、あなた方、私の創造のわざがその栄光を語るのを!」と。
同様に神はまた人間の理解できる言葉をもって語りかけておられる。それが最も明らかに示されたものが、聖書だと言えよう。
聖書には、神がいかに人間に語りかけたか、そして人間がいかにそれを聞き取り、それに従ったか、また聴こうとせず、背いたか、が記録された書物なのである。
旧約聖書に現れる最初の人間として描かれているアダムとエバは神の声をはっきりと聞かされていて、そこにはあらゆる良い木の実があり、自由に食べて生きることができるようになっていた。にもかかわらず、エバはヘビの言うことを聞いて、そこからアダムも神の声に反対する内容にもかかわらずエバの声に聞いて、楽園から追われることになったのである。
このように、私たちが本来約束されているよきところから追われるのは、実は神の声に聞かないところに原因がある。このように聖書は創世記という最初の書物から、神に聞くことと人間あるいはサタンに聞くことの二つを並べて置くことによって、いかに神に聞くことが決定的に重要であるかを浮かび上がらせている。
「箱舟」と大洪水でよく知られているノアにおいても、周囲の人がみんな人間の声に聞いてまちがった道を歩んでいたのに、一人神の声に聞いてそれに従った。それが救いにつながったのである。しかし、救われてから安定した生活となってからノアは油断して神の声に聞かなくなって、醜態をさらしたことが記されている。
いかに、特別に神によって選ばれ、特別に神の声を聞いた人であっても、絶えず目を覚ましていなかったら神の声でなく自分の声、人間的な声に聞いて神から離れていくことが示されている。
モーセは歴史のなかでも最も神の声を聞いた一人であった。自分の考えで人を助けようとしたが、それはもろくも崩れて遠く離れたところへと命からがら逃げていくしかなかった。そこで結婚もし、羊飼いとしての静かな生活をしていたモーセに神が語りかけ、それとともにエジプトにあって、絶滅の危機に瀕した同胞を救い出し、「乳と蜜の流れる地」へと導いていくようにと使命が与えられた。羊飼いというまったく政治的なこととは無関係な生活をしていた時であっても、神は風が思いのままに吹くように思いがけない人間を選んで語りかける。
モーセは自分はエジプトの王に対して何ら力もなく、武力もなく、対抗するような兵力、部下もない、語る言葉もないと強くしり込みするが、神は助け手を与える。このように、神が語りかけるときには、それに聞いて従うだけの必要な力をも共に与える。力以外に必要なもの、人間やお金、場所、ものなども与える。
エレミヤは、旧約聖書に現れる最も偉大な預言者の一人であって、祖国がまちがった道を歩み、神でないものに従ったために、当時の大国であった新バビロニア帝国に滅ぼされようとしていた。このような国が滅びるという重大なときに、エレミヤは神からの声を聞いた。
エレミヤもまた、その声に最初はとまどった。
「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。
その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。
しかし主はわたしに言われた、「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。
彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は仰せられる。
そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、
「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。
見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」。(エレミヤ書一・5~10)
このようにして若者であったエレミヤは、神からの語りかけを受けると同時にそれを実行するための言葉を与えられ、この世の権力者や周囲の人間に抗して立つ力を与えられた。神が語りかけるのは、無駄に語りかけるのでない。それが全く従えないようなことなら、語りかけることに意味がない。人間は何かを命じたり語りかけてもそれを実行する力をも与えることはできず、強制的になるばかりで反発を生じさせることが多い。
神によって召された預言者であったらいつでもそのような神の力で満ちているかというとそうではない。
例えば、キリストよりも八百年以上も昔に現れた預言者エリヤは、神からの言葉を受け、貧しさのために死ぬばかりになっていたある女とその子どもを助けた。エリヤはその女のもとに残っていた一握りの小麦粉とわずかな食用油をもとにして、驚くべきわざを起こしてその女が日々食べていけるようにした。その子どもが死んだときにも、神からの力によってよみがえらせることすらできたと記されている。
そうして、偽預言者たち、人々をまちがった道に連れていって大きな災いを国に起こした偽りの宗教家を集め、彼等の無力と腐敗ぶりを、天からの火を呼び寄せて神の力を示すこともできたのであった。
そのような聖書全体を見ても異例な力を与えられていたエリヤであったが、当時の悪にとらわれた王妃がエリヤを激しく憎み、今日明日中にエリヤを殺すと宣言して迫害をはじめたとき、エリヤはそれを聞いて、遠く直線距離でも、一五〇キロも離れているベエルシバまで逃げて行った。そしてさらにそこから従者をおいて、一人砂漠のようなところを一日歩き、とある木の下に来て、「主よ、私の命をとってください。」と苦しみのあまり祈って神に訴えた。これはもう死にたい、という意気消沈したうめきと言えよう。
あれほどの力を与えられながらこのような弱さのなかに陥っていくのは意外な気がするが、これは聖書という書物が人間の本質を深く見抜いているからである。人間とはこのように本質的に弱く、悪に立ち向かってはいけないようなものなのである。しかし、そのような人間の弱さのただなかに、神が来て下さるというのが聖書の一貫して告げている真理である。
このエリヤの精神的な危機にも、神は驚くべき方法によってエリヤを救い、体力を与え、そこからかつてモーセが神の言葉を受けた遠い山にまで行くことになった。そうした長い旅をも主が支え、導かれた。目的地の山に着いたエリヤはまだ霊的な力は与えられておらず、自分の使命も分からないままであった。
神から、「エリヤよ、お前はここで何をしているのか。」と問われた。それはエリヤが霊的に立ち直っているかどうかを問いただしたのであった。
しかし、エリヤは神の山(ホレブの山)まで、はるかな遠いところまで来ることができても、まだ自分のなかには悪の力への恐れが依然として根強く、今後どうしたらいいのか分からない状態であった。それは次のような答えに現れている。
…エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」(列王記上十九・14)
こうした不安のなかにあったエリヤの前に嵐のような風や地震などが生じたがそうした荒々しい状況のなかからは神の声はなかった。その後に静かな細い声が聞こえてきた。その声によってエリヤははじめてひそんでいた洞窟から出て神の御前に立った。
神はそのときはじめて新しい使命と、それに従う霊的な力ををエリヤに与えたのである。あれほど弱気になって死を求めて死は確実にすぐ間近に迫っていたほどのエリヤが、別人のように立ち直ったのであった。
ここに、人間の声に聞くことがいかに人を弱くさせ、この世の力に押し流されていくか、そしてその逆に、神の声に従うことがどのように人間を変えていくかが印象深く描かれている。
現代の私たちにおいても、周囲のさまざまの混乱に満ちた出来事、外面的に大きな変動などを見つめているだけでは私たちは決して新たな力を得ることもできず、立ち直ることはできない。私たちの心のなかにいろいろの声が鳴り響いているときそれらに巻き込まれてしまうと、人間的な感情で他人を非難したり、自分の弱さに落胆したり不安や不満が生じたりするばかりである。
しかし、大きな混乱に巻き込まれてもそれが過ぎ去るのを待ち、一人神の御前に立って静まるときに、このエリヤが聞いたような、「静かな、細い声」を聞くことができる。そうしてその声は霊的に立ち上がる力を与えてくれるものとなる。
この箇所について、ヒルティは次のように述べている。
いわゆる「神の探求」については、列王紀上第一九章、特にその11~12節(*)にこの上なく見事に描かれている。それには、人生目的に対する絶望や火や嵐がつねに伴いがちである。
しかし、正しいものは静かな説き勧めの声をもって訪れてくる。…
パウロのように、かすかな神の声に向かって開かれた耳を獲得するまで、忍耐し抜く者はきわめてまれである。
けれども、あらかじめ疾風怒涛の苦悩の時期を経なければ、人の心は十分に開かれることがない。(「眠れぬ夜のために」第二部 五月九日)
(*)主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
使徒パウロは、主イエスの光を直接に受けた後、キリストの福音を伝えるものとしてとくに選び出された。しかし、人生の新しい方向を目指して歩むことを、家族親族のだれにも相談もせず、またすでにキリストの使徒としてキリスト者を指導していた主イエスの十二弟子たちのところに行って教えを受けようともしなかった。一人アラビアに退いたのであった。(ガラテヤ書一・16~17)
そこでパウロは、主に導かれて一定の期間を、新しい使命について主イエスからの直接の示しと力付けを受けていたと考えられる。それは自らのそれまでの激しい動き移る人生の雑音から離れて、静かな細い主の御声に聞き入るためであったろう。
私自身の現在までの歩みのなかでも、信仰を与えられてから何度か大きな分かれ目に立たされてきた。教員になること、それから全日制高校の教員から、夜間定時制教員に転勤希望を出すこと、また激しい暴力と混乱の夜間高校に勤務してそれにいかに対処するか、そのまま他の教員のように、彼等の想像をはるかに超える暴力や荒れ果てた行動を見過ごして、ただ時間が過ぎるのを待つだけ、そして転勤を待ち続けるといった姿勢をとるのかどうかという大きな問題があった。さらに盲学校に転勤してからそこでの驚くべき長い年月にわたる不正なことに直面してそれを黙って見過ごすか、明るみに出すかの問題、また、ろう学校に勤務して半世紀を超えて手話を禁止し、手話を罪悪視してきたろう学校教育に手話を導入することの必要性を日増しに痛感してそれを実際に何十年というろう教育のベテラン教師の反対のただなかで、手話を教育に導入すること等々、それから個人的な問題においても、困難な決定をせねばならないようなこともあった。
それから、私の決定によっては一生の方向が変るというようなことが迫ってきた。それは、教職を辞めてみ言葉を伝えることに専念することを決めるときであった。教員としての仕事の他に、日曜日の礼拝集会とともに、週に何回か持つようになっていた集会があり、それとの兼ね合いが次第に困難になってきていた。教員を一度辞めたらもう再度戻ることはできない。
このような様々の状況において、自分がこうしたい、といった自分の願いを第一に持ってきていたら、それはたいてい安易な道、反対を受けない道であったが、そうすれば私の人生は全く異なるものとなっていただろう。それは今日までに与えられた数々の祝福や恵みが与えられなかったということである。神からの祝福を受けるということはどんなことなのか、それはこうした現実の困難に直面して、人間の声でなく、神からの静かな細い声に聞いて、神を信じて決断したことがその祝福を受けることと深くつながっているのが分かった。
静かな細い声に従うと本当に困難な事態となり、心身ともに疲れるような状況にと巻き込まれたこともあった。しかしその困難を経て最終的には、はじめには予想しなかったような助けが現れたり、荒々しかった人間が急に変化して私を受け入れるようになったこととか、意外な人が現れて助けられたり、それは実際に決断してみないと決して分からないことであった。神のなさる事はまことに深く、だれも予想も考えもしないようなことなのだと知らされた。
神の声かどうかはっきりとは分からないこともある。そのような時には、決断せねばならない最後のときまで祈り求めて神の示しを受けようとする。それでもはっきりとした応答を感じられないときには、思い切って困難な方を選んだこともあった。どちらが神の声の示す方向か分からないときには、このようにいずれか一方を信じて選ぶことで、そのようにすればたとえまちがっていてもあとから主イエスが軌道修正して下さるのである。
天よ、耳を傾けよ、わたしは語ろう。地よ、聞け、わたしの語る言葉を。
わたしの教えは雨のように降り注ぎ
わたしの言葉は露のように滴る。若草の上に降る小雨のように
青草の上に降り注ぐ夕立のように。(申命記三二・1~2)
モーセは神から示されて、人々に対して神がいかに真実と慈しみに満ちたお方であるかを語る。それとともに彼等の不信とそこに下される神からの裁きをも予告する。
神からの言葉は、霧のように、若草の上に降る小雨のように注がれる。モーセは自らが受けた言葉はこのような命を与えるものであると知っていた。ここで、雨とか霧、あるいは夕立といったような多様な言葉で言われている。それは神の言葉がしずかに注がれ命を与えるものだということが暗示されていると言えよう。
たしかに、静かに語りかけられる神からの御声に耳を傾けるとき、それは私たちの魂を生きかえらせる雨となる。
現代において、新聞やテレビ、雑誌などの内容は騒然としたもの、混乱を究めた世の中の状況をそのまま写したようなものである。それらは私たちに、降り注ぐ雨のようにいのちを与えるものでない。
しかし、自然も聖書も歴史も、そして現代に生きる私たちに日々告げられているニュースや出来事も実は、そうした神からの語りかけに満ちている。それを聞き取るかどうかである。
すでに述べたように、真に神の言葉を聞き取るならそれとともに、力が与えられる。立ち上がるようにと仕向けられる。
主イエスも、父から聴いたことでなければ何一つできない、と言われた。
「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。…私は自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。(ヨハネ五・19~30より)
私たちは神に聴く。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛しているのなら、そのような者は自然に神の言葉に聴こうとする。人は、見下している者、無関心な者、あるいは嫌悪感を持つ者の言葉には耳を傾けない。しかしだれでも愛する者の声には耳を傾けるからである。
そしてみ言葉とは、愛する神からの言葉であるゆえに、それは単なる命令だけでは決してない。聖書にも、「み言葉は蜜よりも甘い」(詩編十九・10)と言われているとおりである。
聖霊に従って歩む、それは生きて働くキリストに聞くことと同じである。使徒言行録においても、パウロが異邦人への伝道を志したのは、彼自身の意図ではなかった。それは祈りにおいて、心を一つにしていたときに注がれた聖霊が語りかけたのであり、その聖霊の声に信徒が聴いたのである。
さらに、パウロは現在のトルコ地方にみ言葉を伝えたいと考えていたが、それを禁じた声があった。それに従って彼はヨーロッパ(マケドニア)にと転じたのであった。それがキリスト教がヨーロッパを中心にして世界にひろがっていく最大のきっかけとなった。
このように、まず私たちは神からの語りかけ、主イエスからの語りかけに耳をすませて、聞き入ることの重要性を知らされるが、そのことを印象深い筆致で私たちの前に置かれているのが、マルタとマリヤの記事である。
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ十・38~42)
いくら自分でよいと思うことをしていても、まず主に聞き入ることがなければ、周囲の者の無理解やその他そのうち不満が生じてくる。マルタがこのような不満を言ったのは、彼女が主イエスの声に聴こうとしていなかったことがもとにある。主イエスが何を一番求めておられるのか、その声なき声に心の耳を澄ましていたなら、マリアが一生懸命に主イエスに聞いていることを見て、いっそう深くイエスの言葉がマリヤの魂にしみわたるようにとの祈りをもって台所仕事をしたであろう。マルタは自分の内なる声、すなわち自分を第一にしてもらいたいという人間的な声に聞いたのである。そこから、イエスとマリアに対して不満を持ったのである。
このように、人間的な自分中心の願望に聞くことは、霊的な力を失わせるものとなる。マルタはこのように不満を両者に向かって言うことによって、妹のマリアをもイエスをも本当には愛していなかったことが明らかになったのである。
第一に必要なことであるとともに、はじめから終りまでもずっと必要なのが、このマリヤのように主の膝もとにて、主の御声に聞き入ることだと言えよう。そこからすべてが始まる。
その御声を聞き取ったとき、それを実行するための力をも添えて与えられるし、神がそのことを通してさまざまの導きを示し、具体的に助けられるからである。そして全体として、神の国のための働きへと導かれることになる。