リストボタン靖国神社について 2004/12

中国や韓国との交流のうえで重要な問題となっているのが、靖国神社への首相の参拝問題である。なぜ、多くの神社があるのに、靖国神社への参拝が問題になるのか、そのために靖国神社とはどういう神社なのかを考えてみたい。 
この神社はできてからまだ百数十年しかならない新しいものである。その起源は、江戸時代の終りころ(一八六二年)、京都で安政の大獄以来、権力者の弾圧によって死んだ人たちの霊を祭ったことに始まる。
その後まもなく江戸時代は終り、明治となってすぐ(一八六九年)、それは東京九段の地に、東京招魂社となった。この招魂という名称は、戦死した魂を神社に招いてそこに神としてまつるということであるが、こういうことが国家の中心的なことの一つとしてなされたということに驚かされる。死者の魂を動物を招きよせるように自分かってにすきな場所に招いたりできるなどということは本来ありえないうえに、それを神としてまつるということで二重に不可解なものになっている。
 この招魂社は十年ほど後(一八七九年)になって靖国神社と改称した。そこには、安静の大獄(一八五八年)以来の戦死者二百四十六万人を神として祭ってある。(*

*)靖国神社で神として祭られている内訳は、主なものをあげると、明治維新前後の内乱 七七五一名、西南戦争など 六九七一名、日清戦争 一万三六一九名、日露戦争 八万八四二九名、満州事変など 一万七一六一名、日中戦争 一八万八一九六名、太平洋戦争 二一二万三一九九名などとなっている。

 このようにこの靖国神社というのは、戦死した人を無制限に神として加えていくというおよそ世界にも類の無いものである。戦争で相手国の無実な人々を多数虐殺したような人々もみな神として拝まれる対象になっている宗教施設などというのは不可解きわまりないものなのである。
これはなにが人間として大切なことであるかという道徳的感覚を破壊するようなことである。
靖国神社の問題は、中国や韓国などが不満をつのらせ、批判をするから問題なのでなく、このようにおよそ崇拝したり神とまつるべきものでない人間を神と祭って拝むというその出発点からして問題なのである。
しかも、とにかく戦争で死んだ兵士なら悪人でも誰でも、現人神とされた最高の地位にあった天皇が礼拝して下さるのだ、だから、天皇のため、お国のために戦死することはこのうえなくありがたいことなのだ、ということになる。
キリスト教ではその教典たる聖書のはじめのほうですでに、唯一の神以外のものを神としてはいけない、拝んではいけない、と記されている。(*
これは、究極的な真実や正義、そして愛を持っておられる神以外のものを一番大切なものだとしてはいけないということである。
こうしたあり方と比べるとき、靖国神社が戦争にかかわった軍人なら何人でも神にしてしまうという特異性が際立ってくる。

*)あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
あなたはいかなる像も造ってはならない。
あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。(出エジプト記二十・35より)

戦前の国定教科書(修身)にはつぎのように靖国神社のことが記されていた。

靖国神社は東京の九段坂の上にあります。この社には君(天皇)のため、国のために死んだ人々をまつってあります。春と秋の祭日には、勅使をつかわされ、臨時大祭には、天皇皇后両陛下の行幸啓(**)になることもございます。
君のため国のためにつくした日々をかやうに社に祭り、またていねいな祭りをするのは、天皇陛下のおぼしめしによるのでございます。わたくしどもは陛下の御めぐみの深いことを思ひ、ここにまつってある人々にならって、君のため国のためにつくさなければなりません。

**)行幸とは、天皇の外出、行啓とは皇后や皇太子が外出することで行幸啓はそれら二つを意味しており、ここでは天皇皇后が靖国神社に参拝に行くということ。

このようにして、教育の方面からも靖国神社が特別に重要なもので、天皇のため国のために戦争に勝利することへと子供を教え込むという方針が見て取れる。
 靖国神社は別格官幣社(臣下をまつる最高の神社)であり、天皇が参拝する特別の神社となった。
 驚くべきことだが、一般の数え切れないほど多い神社は内務省所管であるのに、靖国神社だけは陸軍海軍省の所管となり、守衛に憲兵がついていた。
 しかも宮司(最高の神官)は陸軍大将であり、運営費は陸軍省から出て、さい銭は陸軍省に入っていた。すなわち靖国神社は宗教施設であると同時に、軍事施設なのであった。
一九七八年十月には、A級戦犯十四名をひそかに英霊と称し、神として祭ったのである。
 何も悪いことをしていないアジアの人々を日本軍が侵入していき、そこで戦闘を始め、おびただしい人々が死んでいった。その戦争を引っ張っていった人々を英霊とし、神としてまつってそこに国家の政治の中心になる大臣たちが、拝みにいくということは、太平洋戦争そのものを肯定することであり、日本軍が中国、東南アジア一帯で殺傷した数千万という人々への責任を何と考えているのであろうか。 六十年あまりまえの太平洋戦争において靖国神社はどんな役割をはたしたであろうか。
 戦争が始まると一般の人々にとっては、家庭の働きの中心である男たちを失う。死んだり、半身不随となったり生涯仕事ができなくなったりする。そのため戦争がひどくなると、戦争への激しい反対運動が生まれることが多い。
 そうした反対が広がると戦争を遂行してきた政府は倒れたりする。そのために、政府はその戦争を反対する人たちを封じ込めるために、靖国神社を利用していったのである。戦争で殺された家族の悲しみ、怒りと不満に対して、靖国神社に祭られるということは、天皇からの一種のほうびであり、恩恵なのだということになった。そして天皇が靖国神社にいるあなたの夫やお父さんを神としてお参りしてくれるのだといって、怒るどころか、感謝すら要求される事態となったのである。
 こうして靖国神社は戦争反対の心情を根元から打ち砕く一種の軍事装置として造られた。だからこそ、靖国神社は陸軍省の所管となり、膨大なさい銭も陸軍の収入となっていたのであった。
 各都道府県にも、靖国神社と同様な宗教施設が作られていた。それが、護国神社である。これは、靖国神社を全国に小分けしたものなのである。
このように、靖国神社とは、戦前のあの大きな過ちである侵略戦争を実行していくための精神的な推進役をになっていたのであって、積極的に戦争に関わって大きな罪を犯したと言えるのである。それゆえ、そのような神社に日本の政治を担う大臣、さらに国を代表する首相が参拝に行くということは、かつての戦争を何等反省していないばかりか、かつての戦争を肯定することになりかねない。
また、日本の国のために死んだ人々というが、多くの兵士たちは政府や一部の軍人たちの判断によって心ならずも戦争に行かされたのであり、太平洋戦争などそれが侵略戦争という悪事に加担することであることも知らされずに、聖戦だとされて戦場に赴いたのであった。多くの兵士たちはその犠牲者であり、また日本の国内にあって、必死に働いてそうした軍人を支えた国民も同じく戦争の本質を知らずに支えていたのであった。
また、次のようなことはとくに軍人と一般の人との扱いの差別をはっきりと示すものである。
一九四三年に台湾への定期航路の高千穂丸がアメリカの潜水艦の攻撃を受けて沈没、多くの死者をだした。そのとき、学年末の休暇で台湾の親のところに帰省する陸軍幼年学校の生徒もいた。靖国神社にはこれら生徒たちだけが祭られ、一般の乗客は除外されたのである。
あるいは、太平洋戦争末期に、太平洋に面した兵器工場がアメリカ海軍の艦砲射撃を受けて多くの死傷者が出た。そのときも、同じような死に方をしたのに、軍人の死者だけが靖国神社に祭られ、遺族にも政府から年金が出されるようになった。
このように靖国神社はとくに直接に戦争にかかわった兵士、軍人たちが特別扱いされる施設なのである。それは戦争という最大の悲劇であり、また大量殺人という最大の悪事を覆い隠すための手段として使われたからである。戦死した人を神にまでまつりあげ、英霊と称して学校教育でも一般社会でも最高の栄誉のように扱うことで、戦死という悲劇をなにかたいへんありがたいことのように錯覚させていく手段となったのである。
そのような靖国神社は、戦争を推進していった施設なのであり、平和を祈るとかいう場所では到底あり得ない。にもかかわらず、日本の首相はそこで平和の祈りをすると称している。
また、戦死軍人を次々と数百万もの神々として祭るということは、それらの戦争をじっさいに行なった人たちを神として敬うということになるが、それは朝鮮半島の人たちや、中国、東南アジアなどで殺害されたり傷つけられたおびただしい人々から見れば、それは自分たちを殺したりした人を神として敬っているという実に不可解な行動をしていることになる。
平和の祈りをするというのなら、最も悲惨な被害を受けた広島や沖縄の平和記念(祈念)公園などでするのがその願いにふさわしいものとなる。
もし何らかの施設を造るのなら、戦死した軍人を神として拝むのでも、戦死者をたたえるのでもなく、平和そのものを祈り願うような祈念施設が望ましい。
ただし、もしそのような施設をいくら造っても、日本人の心が変わらなければそれは、記念式のような形式的な行事をするだけになってしまうだろう。
究極的には、日本人一人一人の心が敵をつくったり、武力攻撃をしようと考えず、あくまで良きことを相手の国に対しても行い、平和的な話し合いによって平和を造り出そうとすることが重要になる。そしてそのためには、歴史の長い流れのなかで、平和に関しても究極的な真理を指し示しているキリストを受け入れることこそあらゆる状況にある人間や国のとるべき道なのである。


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