すべてに打ち勝つもの 2005/1
どのような困難や事故、苦しみにも打ち倒されず、かえってそうした困難を霊的な栄養として受け取り、より力を与えられて前進していく(勝利していく)ためには何が必要なのか。それについてはいろいろなことが言われてきた。
一般的には、そうしたことに対して、お金とか他人の助けも必要、だが根本的には、自分の意志や努力、考え方を変えることなどが、重要だと言われている。それはそれで重要なことには違いない。しかし、本当に苦しいときというのは、お金の力も助けとなる人間もいない、自分の考えすらまとまらず、またその意志すら落胆や苦しみのあまり、何をなす力もなくなってしまうのである。
聖書はまさにそのような勝利の道を随所に明確に指し示している。ここでは、ヒルティの著作からその聖書の示す道を彼の言葉で学びたい。
愛をもってすれば、あらゆるものにうち勝つことができる。(*)
愛がなければ、一生の間、自己とも他人とも戦いの状態にあり、その結果は疲れてしまい、ついにはこの世を嫌うようになるか人間嫌いにさえ行きつくほかはない。
しかし、愛はつねに最初は困難な決意であり、つぎには神のみ手に導かれてそれを行いうるまで長い間たえず学ぶべきものであって、愛は決してわれわれにとって自然に、生まれながらに備わっているものではない。
人が、愛を持ったときには、他のいかなるものにもまして、より多くの力ばかりか、より多くの知恵と忍耐力をも与えられる。
なぜなら、愛は永遠の実在と生命の一部分であって、これは、すべての地上のものとちがって、老化することがないからである。(「眠れぬ夜のために」下巻
一月九日の項)
(*)ヒルティのドイツ語原文では、Mit Liebeistalleszuuberwinden. 彼の墓碑銘に刻まれたラテン語では、AMOR OMNIA VINCIT. [アモル(愛) オムニア(すべて) ウィンキット(勝つ)]
・ここでいわれている愛は、もちろんこの世で歌やドラマなどでいわれている愛とは本質的に異なる、神の愛である。それゆえヒルティが言っているように、それはだれも生まれつき持っているものではない。聖書はこのことをはっきりと述べている。
あなた方も、私につながっていなければ、実を結ぶことはできない。(ヨハネ福音書十五・4)
霊(聖霊)の結ぶ実は、愛であり、喜び、平和…である。(ガラテヤ書五・22)
だれでもキリストに結びついていなかったら、愛という実を結ぶことはできないのである。それはキリストから、神から与えられるものだからである。
また、私たちは日々勝利していくか、敗北していくかである。その勝利のために、神の愛こそが不可欠である。ヒルティは、このはじめの短い言葉が、人生の結論的なものであったから、この言葉を墓碑銘に選んで、彼の墓にはこの言葉がラテン語で書かれている。なお、だいぶ以前に発行された白水社からのヒルティの著作集(全十二巻)の各巻の目次の手前のページには、その墓碑銘の部分が写真で取り入れられている。
ヒルティはとくに、「あらゆるものに」という言葉を強調している。それは人間の生活で直面する、孤独や誤解や中傷、不和、罪、心配や不安、病気、貧しさや他者からの軽視等々、私たちがそれらに出会うと怒ったり、落胆したり、憎んだりするようになるのはそれらに対して勝利できず、敗北したためであると言えよう。
勝利するとは、そうしたあらゆる不快なことに対して、その背後に神の御手を感じ、そうした不快なことやそれを起こした人間への静かな祈りを持つようになることであるし、神を見上げ、神からの無限の力の一端をも頂くことである。悲しむ者は幸いだ、との主イエスの言葉は、悲しみのままでいるのでなく、悲しみの中から神の力を与えられて、そこに大きな幸いがあるということであり、それこそ、その悲しみに勝利したということである。
この世の愛は、盲目にする。自分の子供だけ、自分の好きな人だけに向かうような感情をふつうは愛といっているが、そういう愛が激しくなるほど、相手しか見えなくなる。そしてひどい犯罪すら犯すことがある。
それに対して、神からの愛は、冷静に人間や事態を洞察するので英知を伴う。また、相手がひどいことをしてもだからこそ、そのような悪にとらわれた人間の魂がよくなるようにとの祈りを持つようになる。それゆえ、忍耐するようになる。
神は愛である、といわれるように、神の本質の一部であるからこそ、そのような愛はすべてに勝利する。最も奥深い妨げである、悪そのものにも勝利させる力があるゆえに、現在の苦難、災害や事故、病気などの苦しみや悲しみに打ち倒されず、最終的に勝利することができるのは、やはりこうした神からの愛によってのみ打ち勝つことができる。私たちはただそのような豊かな神の愛をわずかしか与えられていないことが問題なのである。
主イエスが、「求めよ、そうすれば与えられる」と約束して下さったのは、このような愛に対してもいわれているのである。人間の愛は、求めても与えられないことが多い。しかし、神の愛は、真実な求めに対しては必ず与えられるという約束なのである。