確信の必要性 2005/3
この世で生きるときに、持っているべき確信がある。それは正しいこと、善きことは必ず悪に最終的に勝利するということである。
表面的に見れば、この世はそれと逆の状況になっているように見えることが多い。
真実を求めて発言したり、行動したりしても、権力や金の力によって押しつぶされるということはよく見られる。弱い立場にある者が、強い立場の者に苦しめられ、ときには命さえ奪われるということも歴史のなかでは繰り返し見られてきた。
しかし、そうした表面における出来事だけでなく、目に見えないところでの出来事がある。
正義とか悪とかいうことは、その本質は目には見えない。それゆえ、善が悪に勝利するというときも、それは目には見えない世界のことなのである。実際、主イエスが地上に生きているとき、捕らえられ、悪の力によって無惨にも殺された。それは目に見える世界では、どう見ても善の敗北だと見える。
しかし、敗北したはずのキリストの弟子たちは、それからしばらくしてから、目ざましい力を与えられ、迫害を受けつつも、世界へとキリストの福音を伝えるようになっていった。そして全世界にキリストの信仰は広がっていった。
それは、目には見えない世界において神の力が悪に勝利したからである。
そのことは、主イエスが、最後の夕食で、捕らえられる直前に語ったと伝えられてきた言葉に示されている。
「あなた方は、この世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」(ヨハネ福音書十六・33)
この預言的な言葉を裏付けるように、キリストが処刑されて以来も、キリストとその真理は敗北して消滅することなく、ずっと二千年の間、人々の心のなかで勝利し、信仰を受け継ぐ人たちが続いてきた。
善が悪に勝利するという確信は、論理や科学では得られないことである。学校教育でいかに多くの学びをしたところで、この単純で奥深い確信は与えられない。
この確信はまず自分の内なる悪である罪が神の愛によって赦されるという経験をしてはじめて善の力が悪に勝利するのだということが実感できる。
そこから、この世界全体においても、善の力が悪に勝利するというのを信じることができるようになる。善の力とは、神の力にほかならない。そのような万能の神であり、あらゆる悪に最終的に勝利される神を信じるかどうかで私たちの歩みは大きく異なってくる。
キリスト教のシンボルである十字架は、罪の力に神が勝利して下さったことであり、復活は、死の力にも勝利されたことを指し示すものである。キリストの福音とは、そのような勝利の力を信じる者にはだれでもその力が与えられる、ということなのである。