神はわが力、わが岩(詩編四六より) 2005/3
キリスト者の戦いとは、目に見えない悪の力との戦いのことである。この世には、至るところにそうした戦いが生じる。一人一人の心の中に、家庭や職場の中に、あらゆる人間関係の中に、また病の苦しみや死の近づいたとき、いっそうそのような悪の力が迫ってきて、それまでの信仰とか理想とかを突き崩そうとする。
こうした戦いのときに何より重要なことは、私たちが神によって固く立っているかどうかということである。このことにおいてとくに有名なのは旧約聖書の詩編四六編である。
神は私たちの避け所、そして私たちの力。(*)
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
わたしたちは決して恐れない
地が姿を変え
山々が揺らいで海の中に移るとも
海の水が騒ぎ、泡立ち
その高ぶるさまに山々が震えるとも。
(*)「力」と訳された原語(オーズ)は、新共同訳では、「砦」と訳しているが、口語訳、新改訳、関根訳などもすべて「力」と訳しているし、大部分の英語訳でも「力」(strength)、ギリシャ語訳旧約聖書でも、デュナミス(力)と訳している。
この詩において、神は避け所であり、力であり、助けであると言われている。私たちに常に必要なもの、そして正しい道、本当の幸いへの道を歩むために最も重要なことは、つまづき、倒れる私たちを常に助け、悪から守って下さる力である。悪の攻撃から身を守るための避け所なのである。
この詩の作者にとって、神は○○せよ、と教えを迫ってくる姿でなく、正しく道を歩むときの決して欠くことのできない存在、不動の岩のようなお方なのであった。
この詩の作者は、自分の周囲がいかに混乱し、また世界において山々や海などに大いなる異変が生じようとも、という大きな視野に立ち、天地創造のときにまでさかのぼって見つめている。なぜ、この作者はこのような不動の確信を持つことができたのか。それは、神がともにいるという実感が深くあったからである。そしてそれと結びついているのが、天地創造の時の神が自分をも支えて下さるという確信であった。人間がなにかに頼るとき、それがもろいものであればあるほど、そのようなもろいものに頼ったなら、頼る者も共に倒れてしまう。
この作者の心にはっきりと現れたのは、最も重大な異変が生じたときである。それは地震や大波、天災のようなものであるかも知れない。
そのようなことが大規模に起これば起こるほど、私たちはそれまでの信仰も揺らぎそうになる。神がおられるならどうしてこんなことが生じるのかと。
しかしこの詩の特に心に残るところは、いかなる大きなことが生じようとも、決して動かされることのない、作者の強固な信仰の姿である。
私たちの心は海の水のように、少しのことで揺れ動く。人間はそのようなものでそこからどんなにしても不動の確信など生じないとあきらめている人も多いかと思われる。
天地創造の神を見つめ、その万能の力を実感していなければこのような信仰は生れないだろう。人間の信仰がどこまで固くされるか、それをこの詩は指し示している。
このような海の水の混乱と動揺を極めた状況は、この世の現実を思い起こさせる。
次の段落で、この詩は一転する。
川とその流れは、神の都に喜びを与える。(*)
いと高き神のいます聖所に。
神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。
夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。
神が御声を出されると、地は溶け去る。
(*)「川」を新共同訳は、「大河」と訳しているが、この原語 ナーハールは、ユーフラテスのような大河をも意味することがあるが、普通の川をも意味する。ほとんどの英訳では、river と訳されている。関根訳、新改訳、口語訳も「川」と訳している。
ここでは、それまでの海の荒れ狂うような状況とは大きく変わって、静かな川の流れの光景が歌われる。
同じ水の集まりでも、このように、全く対照的に並べられている。古代人にとって海の水は人間や船を飲み込み、底知れない深い闇を思わせるものであった。とりわけ、嵐のときには、猛烈な力をもって荒れ狂うので、船などひとたまりもないほどになる。
しかし、もう一つ、全く別の水があり、それがここに言う神の都に喜びを与えるものである。
神の都、それはエルサレムのことであるが、この町は、標高八百メートルほどの山の頂上の台地にある町であって、川は流れてはいない。
それにもかかわらずこの詩の作者は、豊かな川の流れを啓示されたのであった。それは旧約聖書の最初から言われているエデンの園から流れていると記されている川をも思い起こさせる。
エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。(創世記二・10)
また、預言書にもこのような流れが、エルサレムの神殿からあふれ出るという内容が見られる。
…彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。
…川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。(エゼキエル書四七・1、9)
このような記述は、一見したところ、一体何の意味があるのかと、心に残らないかも知れない。
しかし、これは聖書の最初からずっと一貫して示されてきた、いのちの水のことなのである。
この有名な詩の作者もまた、そのいのちの水をまざまざと示されたゆえにこのように詩に組み込んだのである。
山の上の台地、そこには、少し下ったところに泉があって水が時々あふれ出るというところはある。しかし一つの川もないようなところであるにもかかわらず、この詩の作者には大いなる川の流れを見ることができたのである。
いかなる敵が取り巻いても、また天地異変が生じようとも決して恐れない、という強固な信仰だけなら、心は硬化してくるかも知れない。それは冷たく、固い信念に終わるかも知れない。
それがさらに道をそれると、預言者を迫害したり、キリストも同様に迫害された。
強固な信仰をうるおす、いのちの水が流れているのでなかったら、信仰も恐るべきものとなる。
「川とその流れは、神の都に喜びを与える」という一言は、その意味で重要なものを持っている。
神はその流れのある都にともにおられる。夜明けとともに助けを与えて下さる。それは神の助けがそれほどまでにすみやかだと言おうとしている。
この詩は内容的に三つの部分に分かれているが、第一の部分は、天地創造の神であるゆえに、自然や宇宙のどんなことが生じようとも恐れないという確信を見ることができる。
自分の足元だけを見るのでなく、広く天地を創造し支配されている神を見つめること、それがこの詩人の確信の根拠の一つとなっていたのがわかる。
しかし、このような記述から、この詩が作られた状況が穏やかな世界のなかで作られたと思ってはいけないのであって、それは次のことでわかる。
すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。
神が御声を出されると、地は溶け去る。(七節)
周辺の国々からはしばしば攻撃がなされ、そこに住む民には危険が迫ってくることが繰り返し生じた。そのような危機的な状況であっても、神はいのちの川を流れさせ、多くの支流によってそこに住む人たちをうるおし続ける。そして確かに人々を守られる。
敵の攻撃がいかに大きくとも、神の一声で「地は溶ける」という。しかし、このような表現を私たちは使うことがないから、何を意味しているのか分かりにくい。これは、神の声によって強固と見える大地が震えること、何の力もなくなってしまうことを意味していると考えられる。
「溶け去る」と訳されている原語は、ムーグであり、これは、つぎのように「震えおののく」と訳されている箇所がある。「土地の住民は皆、我々のことで震えおののいている。」(ヨシュア記二・24)
国々が騒ぎたち、攻撃をしてくるということは歴史のなかでは常に生じてきたことであった。そしてそのたびに国の支配者は恐れ、武力で対抗し、周辺の国々に頼ろうとしたり、恐れにとりつかれることが多く見られた。しかし、神はいかなる事態となっても常にその守りの御手をそこにおいておられるというのがこの詩の作者に示されたことであった。
それは、歴史の流れの中での神の大いなる働きを作者が実感していることがこの詩の第二の部分に記されていることからもわかる。
国々がいかに攻撃を加え、危機に陥って滅びようとすることがあろうとも、神の都には一貫して神のいのちの水が流れ、歴史の混乱にまきこまれずに支えられているのである。
こういう詩編の記述は、現代の私たちにとっては、神を信じる人々、そしてその集まりが、いのちの水によってうるおされるさまを描いていると受けとることができる。
…万軍の主はわたしたちと共にいます。
ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
私たちの住んでいるこの天地、それを支配する神は、また、長い時間の流れのなかにおいてもその支配を持ち続けておられる。
「万軍の主」という表現はこれも現代の私たちにはわかりにくい。「万軍」と訳された原語は、創世記二章
一節では、「すべて」という語と合わせて用いられ「万物」と訳されている。
万軍の主という表現は、すべてを支配されている主、万物をその支配下に置いて、それらをご自身の悪との戦いの軍として用いる主という意味がある。そこから、この表現は、「全能の主」という意味にも使われることになった。(*)
万軍の主(神)という表現は、聖書においては、とくに預言書などに多く、三〇〇回以上も用いられていることからもわかるように、旧約聖書の神に呼び出された人たちにとって、神とはいかなる神かを明確に表すことのできる表現であった。
それは万物を創造し、それゆえに現在もすべてを支配する神、悪と戦う神、といった力ある神を表す言葉であったのである。そしてそのような神は決して現在は無縁になったのでなく、今の私たちにおいても、そうした力ある神への信仰がいつも求められているのである。
(*)「万軍の主」という言葉は、現代英語訳聖書にも、The LORD Almighty という訳も見られる。(New International Version 他)
しかし、どの訳語も不十分ということで、現代の代表的英訳聖書の一つも、原語のまま、Yahweh Sabaoth(ヤーヴェ・ツェバーオース)としている。(New Jerusalem Bible)
主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。
主はこの地を圧倒される。
地の果てまで、戦いを断ち
弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
「心を静めて知れ、
わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。
万軍の主はわたしたちと共にいます。
第三の段落では、未来に向けた作者のまなざしが感じられる。世の終わりを見つめ、神は最終的に何をなされるのかということを常に聖書を書いた人たちは思い描いていた。いかに現実の世の中が、混乱と不正がうずまいていても、またいかに人間の努力や武力などでできないことであっても、神はその全能の力をもって最終的には必ずよき世界を造られるという啓示である。
神はこの世界の悪の力を最後には圧倒し、神のご意志に背く人間同士の権力争いの道具である武力を断つ。このような、世の終わりにおける平和については他の預言者たちも同様に啓示されていた。これは現実の武力や権力、そして貧困や病のあふれる状況をみているだけでは決して生れることのない見方である。まさしくそれは人間社会や思想などとは全く異なるところから、光線のように投げかけられて生れた見方である。
終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい…
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書二・2~4より)
この詩は最後に、人間の力で解決しようとかいう考えを捨て、心を静めて神に向かうことをすすめている。心をむなしくして神を仰ぐとき、そうした宇宙や歴史、そして将来をもすべてその御手のうちに置かれて支配されている神の絶大なる力を実感してくるからである。そのような神の力は、必ず、国々に知られ、あがめられることを予感していた。
そしてこの詩が作られてから数千年を経て、確かに現代の世の中もいかに混乱があろうとも、そこで心静め、人間の力を捨てたところに、この詩人と同様な、神への固い信仰と、いのちの水にうるおされた人たちが世界に現れ続けているのである。
最後の節に、作者の確信はふたたび繰り返されている。
…万軍の主はわたしたちと共にいます。
ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
この言葉の意味を現代の普通の言葉にわかりやすく言いなおすと次のようになる。
「全能のゆえに、宇宙万物を支配し、悪と戦う主は、我らと共に永遠にいて下さる。
歴史を通じて無数の人たちに信じられてきた神こそは
、私たちをあらゆる危険から守り、悪の力から救って下さる。」