リストボタンキリストを証しするもの  2005/4

私たちのふだんの生活では、「証し」といった言葉はあまり使わない人が多数を占めているだろう。しかし、聖書においては証しということは重要な意味を持っている。
ヨハネ福音書において、とくにこの「証し」という言葉が多く使われている。(*
マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書を合わせてもわずか二回しか用いられていないのに、ヨハネ福音書では三十三回、ヨハネの手紙を合わせると、四十三回も用いられている。
なぜ、このように多くの「証し」をするという言葉がほかの三つの福音書と比べて格段に多く用いられているのか、それは、著者が証しということをとくに重んじていたからである。
ほかの三つの福音書では、主イエスが何を教え、何をなさったかということをできるだけそのままに書こうとする姿勢がある。ことに最初に書かれたマルコ福音書にはその特色がはっきりしている。
しかし、ヨハネ福音書は最後に書かれた福音書であるために、単に事実を書くということなら、すでに三つの福音書にあるので、それらを基礎とした上で、神からの聖霊による示しを受けたことが書かれているという特質がある。
それは、ヨハネ福音書の冒頭からすでにあらわれている。「はじめに言があった。言は神であった。」ということは、イエスが行ったこととか、直接教えたこととは違って、著者のヨハネが神から啓示されたこと、聖霊によって示されたことを書いていると言える。
このことがすでに「証し」である。ヨハネが神の霊によって、キリストこそは、永遠の存在であり、万物の創造にもかかわり、現在も生きておられるといったことは、肉体をもっていたときのイエスが教えたことでなく、復活して天に帰った主イエス(復活したキリスト)が、教えたことである。
そしてそれを実際に霊の耳で聞き取ったゆえに、「キリストは永遠の存在であり、神と同質である」と証言しているのである。
ヨハネ福音書はこのように見てくると、著者が受けたキリストの証しで満ちている書であると言えよう。
キリストは光である、それが暗闇のなかで輝いている。暗闇は光に打ち勝たなかった。(ヨハネ福音書一・5
これも、キリストがいかなるお方であるかという証言である。
そして、

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。(ヨハネ一・1617
これも同様なキリストについての証しである。考えたことを議論したり、意見を言っているのでなく、ヨハネや彼と同様にキリストを信じるようになった人々が、ほかでは決して与えられなかった、深い恵みを受けたということなのである。
そのことを証ししているのが、この文である。
そしてそのようなキリスト者たちの証しがなぜ、神の言葉と言えるのか、と思われるかも知れない。
それは、人間の祈りや叫び、あるいは讃美を集めた旧約聖書の詩編が神の言葉として聖書に収められているのは、それが確かに人間の祈りや讃美であっても、その背後に神がおられて、神がそのような祈りや讃美へと導かれたのであるから、それらは単に人間のきままな考えや感情でなく、神のご意志、お心の反映であるとみなされるからである。
キリストのさきがけとして現れて、人々の心を神の方向へと向け変えることになったヨハネも、キリストのことを証言した。

ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」(ヨハネ福音書一・15

さらに、このヨハネはキリストの本質を証言してつぎのように言った。


見よ、世の罪を取り除く神の小羊!(ヨハネ一・29

この短い言葉は、一見なんでもないように見える。しかし、これは実に広く深い内容をわずかの言葉に凝縮したものである。罪とは人間がだれでも持っている深い不信実な情でもある。それがあるから、自然のままの人間は、主イエスが言われたような、「敵対する人を愛し、その人のために祈る」というようなことはだれもできない。自分中心に考え、思い、そして行動することが罪であるゆえ、そのような深いところにある罪の問題をきびしく扱う。
人間がどれほどそのような深い罪を持っているか、本人も分からない。自分はそんな罪など持っていないと思い込んでいても、ふとしたときにそれが現れ、自分の罪深さを思い知らされる。
聖書にもそうしたことは多く記されている。苦難の折り、敵対するものが次々現れてくるときには、ただ神に依り頼み、復讐とか憎しみなどの感情を相手に持つこともしないで、神の助けを祈り願う人であったが、そのダビデがそのような数々の困難のすえに王となって周囲の敵をも平定して安楽な生活となったとき、重大な罪を犯してしまった。ダビデは自分がそんな罪を犯してしまうとは夢にも思わなかったであろうと思われる。
また、新約聖書ではキリストの弟子ペテロのことも思いだされる。
主イエスが、まもなく自分が捕らえられ、十字架にかけられて処刑されると予告したとき、弟子のペテロは、自分は死ぬことがあっても、イエスに従っていくと、断言した。しかしそれはまもなく全くの偽りの言葉になってしまった。命がけで従うどころか、イエスが捕らえられたあと、あまりの動転のゆえに三度もイエスなど知らないと否認してしまったからである。
このように、人間は自分の限界、罪ということすら分かってはいない。それゆえ、自分の罪を取り除くということは不可能であるのがすぐに分かる。他人の罪を除くことなど到底できないのはなおさらである。
しかし、洗礼のヨハネは、キリストだけは、世の罪、すなわちあらゆる世界のすべての人たちの罪を取り除くことを確信していた。世の罪とは現在の世界に生きる人たちだけでなく、現在の生きている人々、将来の人間など一切の罪を除くことができるということである。何という大きなわざであろう。
驚くべきわざであり、これは人間がすることはありえないことである。
洗礼のヨハネは、そのことを自分の修行でも学問や他人からの教えでもなく、ただ神からの直接の啓示によって知ったのである。
さらに、そのヨハネの言葉にある、「世の罪を取り除く神の小羊」という言葉の後半のことも意味深い。「神の小羊」とは何を意味するのだろうか。
この一言を理解するにも、旧約聖書で「神に捧げられた小羊」というのがどんな意味を持っていたかを知る必要がある。聖書はたしかに、より正確に理解しようとすれば、旧約聖書が不可欠になる。旧約聖書において、小羊とは、次のような意味をもって記されている。

エジプトの奴隷の生活から解放されるという前夜の最後の食事としてとったのが小羊の肉であったが、その血を、家の入り口の柱と鴨居に塗った。それによって神のさばきが過ぎ越したという故事があった。これは、きわめて重要であったからこの月を正月とした。そして以後の歴史を通じてこのことが過越の祭として行われることになった。
キリストはまさにこの小羊の役割を果たして、信じる人が罪のために受けるはずの裁きを赦され、義とされる
ために来られたということを証言している。

また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。(ヨハネ五・36

このように、神ご自身が、イエスに特別な力を与え、神の子であることを証ししている。それは次に言われているように、イエスが行っている業によって示されている。

しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。(ヨハネ福音書五・36

このように述べて、主イエスのなさっている業(はたらき)は、神から来ていることを表していると言われている。
イエスの行った業、それはいろいろとあった。しかしそれは当時の人たちが、メシア(救い主)というものに期待していた業とはあまりにもかけはなれていた。それゆえ、イエスのことを証言した洗礼のヨハネですら、後になってイエスは本当に預言されていたメシア(救い主)であるのか、と大きな疑問を抱いたほどであった。

イエスはご自身の業の特質をつぎのように言われた。

目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病(ハンセン病が多かったと思われる)を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
わたしにつまずかない人は幸いである。(マタイ福音書十一・56

このように最も苦しむ人たち、さげすまれている人々、闇にある人たちが新しい力を与えられ、救われているという実体であった。このような何の権力も社会的な地位もないような、無視されている人間が生きかえったようになったといっても、そんなことで、国全体がよくなったり、ローマの圧政から救われるのか、といった疑問がだれの心にも根ざしてきたのであり、それが洗礼のヨハネですらそのような疑問を持つに至ったということである。
このように、主イエスの業は開かれた目を持った人にはたしかにそれが、神の業であるということを示すものであったが、当時の旧約聖書の学者たちも理解できなかった。そしてそのあげくにイエスを殺そうとまで考えるようになった。

さらに、主イエスは、つぎのように言われた。

あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。(ヨハネ五・39

ここで言われている聖書とは、旧約聖書のことである。旧約聖書は、キリストについて証ししているという。このことは、表面的に旧約聖書を読んでもとても気付かないことである。
しかし、何年も読み続け、いろいろと必要なことも学んだり、経験していくとき、次第にこのキリストの言葉が実感をもって感じられてくる。
このことは、新約聖書をよく読むと、主イエスだけでなく、パウロや他の弟子たちも旧約聖書がいろいろな意味でキリストを指し示していることが分かる。
例えば、旧約聖書の冒頭にある、闇と混乱のただなかに、「光あれ!」と神が言われたら光が生じた、という記述は、ヨハネ福音書で言われているように、キリストご自身がたしかに闇に輝く光そのものであったことを指し示すものである。


言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光に打ち勝たなかった。(ヨハネ一・45

また、マタイ福音書においても、光とはキリストのことであるとして、預言者イザヤの預言を引いて次のように記されている。

暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。(マタイ四・16

また、使徒パウロも次のように述べて、創世記の記述はキリストにある新しい時代を前もって証していると
受け止めていたのが感じられる。

「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さった。(コリント四・6

また、創世記の終りのほうに、次のような記述がある。

ユダよ、あなたは兄弟たちにたたえられる。あなたの手は敵の首を押さえ
父の子たちはあなたを伏し拝む。
王笏(おうしゃく)はユダから離れず、
統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て諸国の民は彼に従う。
彼は、ロバをぶどうの木につなぐ。
彼は衣をぶどう酒で洗う。(創世記四九・811より)

こうした文章は分かりにくいが、全体として言われているのは、つぎのようなことであろう。
ユダで表されるその子孫には特別な力と祝福が与えられ、その子孫から現れるメシアは、敵(悪)の力を支配し、王権が与えられ、世界の民がそれに従う。
そして、そのメシアの時代には、貴重なぶどうの木の実をロバに食べさせるほど、服をぶどう酒で洗うという象徴的表現で言われているほどに、豊かなめぐみのあふれる時代になる。これは、ヨハネ福音書の冒頭で次のように言われていることを、遠い昔から証ししていると言えるのである。

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。(ヨハネ一・16

このように、一見関係なさそうに見える箇所であっても、よく考えながら読むと、驚くべきことにそれらはキリストを証ししているのが浮かび上がってくる。
まだメシアのことなど、ほとんど誰も意識しないような時代にあっても、神から特別に引き上げられた人には、闇のなかにきらめく光を見るように、はるかな将来に実現させようとする神の御計画の一端、しかも本質的な内容の一端が啓示されるのがわかる。

旧約聖書がキリストを証ししているということは、詩編やイザヤ書にもしばしば見られる。
主イエスが最期に息を引き取る直前に叫んだ言葉、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!」(*)(わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!)という言葉は、そのまま旧約聖書の詩編の二二編の冒頭に現れる言葉である。

*)エリ、エリは、ヘブル語。レマ、サバクタニは、アラム語。マルコ福音書では、エロイ、エロイ、となっていて、前の部分もアラム語。このように、旧約聖書の原語であるヘブル語や、イエスの時代に使われていたアラム語でこの主イエスの叫びが記されているのは、それほどに当時の弟子たちや人々の心にその叫びが深く刻み込まれたということであり、しかもその言葉が、イエスより数百年も昔の詩編の作者の叫びとまったく同じであり、その詩編がイエスのこの最後の叫びの預言となっている。
この詩編二二編は、ほかにも、人々があざける言葉なども、驚くほどイエスの十字架処刑のときの周囲の人たちのあざけりと共通している。

わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い
唇を突き出し、頭を振る。
「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら
助けてくださるだろう。」(詩編二二・89

これは、先ほどの「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか」という叫びの後に現れる内容であるが、これは、次のように、新約聖書でキリストが受けた侮辱を予告するかのように似た内容となっている。


そこ(イエスが十字架にかけられている場所)を通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(マタイ福音書二七・)

さらに、詩編二二編にある、つぎのような小さいことに見える出来事すら、キリストの十字架のときに同様なことが生じているのに驚かされる。

彼らは私をさらしものにして眺め、
私の着物を分け
衣を取ろうとしてくじを引く。(詩編二二・1819

これは、福音書の次のように記された出来事を預言するものとなっている。

それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、
その服を分け合った、
だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。(マルコ福音書十五・24

このように、詩という本来は個人の苦しみや嘆き、讃美や祈りを内容とするものが、キリストのことをそのまま指し示すものとなっているのである。詩編が書かれて数百年という歳月が経った後で、このように実際にキリストに関することが現実にそのように起こるということは、到底偶然とかいったものでなく、時間を超え、歴史の流れのなかで御計画をなされていく神の御手を感じさせることとなっている。

さらによく知られているように、旧約聖書のイザヤ書では、いろいろの箇所でキリストのことが預言されていて、全体としてキリストを証しするものとなっている。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの罪のためであった。
彼の受けた苦しみによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。
彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。(イザヤ書五三・312より)

このような言葉が、実際にキリストの受難より五〇〇年あまりも昔にすでに言われていた。これはキリストの受難とその意味を深くとらえている。それは現代のキリスト者の心の深いところにある霊的な体験であり、またキリストを信じるに至ったのは、まさにこのイザヤの預言したキリストのことを信じて受け入れたからに他ならない。
これは、旧約聖書がキリストを証ししている、預言しているということのいくつかの例であるが、これら以外に全体としてみれば、旧約聖書は随所でキリストを指し示している、キリストのことを証ししているのが感じられる。
この世はまったく真実も愛も通用しないように見える場合も多い。武力や金の力、権力などで多数の人間を支配し苦しめることは、古来数知れない。またそれらとは全くことなるが、病気とか飢えによる苦しみや悲しみによってもどこに神がいるのか、と深刻な疑問を抱かせることも随所に見られる。
しかし、こうした混乱と闇と疑いのただなかで、一冊の書物が星のように輝いてきた。それこそ聖書であって、それはすでに旧約のときから今まで述べたように、キリストへとレンズで光を一点に集めるように、キリストのところへと焦点が合わされているといえよう。
ヨハネ福音書において、主イエスが、「聖書(旧約)はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネ五・39)と言われたのは、このような意味であった。
現在の私たちには旧約聖書とともに、キリストを直接に証しする文書である新約聖書が与えられている。それゆえ、このキリストの言葉は、そのまま全部の聖書についてあてはまることとなった。

そして新約聖書を知らされている私たちには、さらに聖書だけでなく、神の創造された自然の広大な世界もまた、キリストを証ししていると言える。
それは、キリストとは単なるよい教えを説いた人間というような存在でなく、神と本質が同じであり、神とともに永遠から永遠へと存在しているお方である。

はじめに言があった。言は神であった。万物は言によって成った。(ヨハネ福音書一・13より)

ここでいわれている言とはもちろん、私たちがふつう使っている言葉という意味ではない。今から二〇〇〇年ほど前に、人間の姿をして現れ、イエスと名付けられる以前から、実は存在しておられたのであって、その永遠の存在を、ギリシャ語でロゴスという歴史的にも重要な意味深い語を用いたのである。
ロゴス logos とは、ギリシャ語では、哲学における最も基本的な用語の一つである。それは、理性、原理、言葉、理(ことわり)など多くの意味がある。
すでに紀元前五〇〇年頃のギリシャの哲学者であったヘラクレイトスは、「万物の生成はロゴスに従っている」(「ギリシア思想家集」32頁 筑摩書房)と述べて、万物の根源にある目に見えない法則のようなものをロゴスと言っている。
こうした考え方は、後の時代にも受け継がれていったが、ヨハネ福音書の冒頭の言葉は、このようなギリシャの最高の知性が考えていた宇宙の根源たるロゴスが、実はキリストであったのだと言おうとしているのである。
そしてそれに加えて、旧約聖書の冒頭からいわれているように、神の言葉が持つ、創造の力を重ね合わせたものとして、ロゴスという言葉を用いている。
こうした点から、キリストは単なるよい教えを説いた古代の教師というような存在ではなく、永遠の昔から存在していた宇宙万物の創造者でもあるというのが本来のキリスト信仰なのである。
これは、ヨハネ福音書だけでなく、ヘブル書にもやはり重要なので、その冒頭に記されている。

この終わりの時代には、御子(キリスト)によってわたしたちに語られた。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造された。(ヘブル人への手紙一・2

このように、キリストによって世界は創造されたということであるから、私たちの周囲の自然もまた、キリストの本質がそこに刻まれていることになる。
新緑の初々しさ、野草の繊細な美しさ、そして年月を経た樹木の堂々たる姿、あるいは、はるかに連なるやまなみの持つ静けさと力、そして、海の押し寄せる大波の力強さ等々すべてそれはキリストを指し示し、キリストを証ししていると受けとることができる。
私たち一人一人が、聖書の言葉やそれについての印刷物、文章などによって、それまでの神を信じない生活から根本的に変えられ、自分の罪深さを知り、そこからの救い主を知らされて新しい生活へと導かれていくのも、キリストの力であり、キリストを証ししている出来事である。
以上のように、ヨハネ福音書がとくに「証し」という言葉を多く用いているのは、実に多様なものがキリストを証ししているからである。それは、開かれた目をもって見るほど一層キリストを証ししているのに気付くようになってくる。


*)「証しをする」というギリシャ語(動詞)は、マルテュレオー martureo というが、この言葉は、つぎのように、福音書によって著しく用いる頻度が違っている。
マタイ 一、マルコ0、ルカ一、ヨハネ 三十三、ヨハネの手紙 一〇
「証し」(名詞)というギリシャ語は、マルテュス martus であるが、これについても、ヨハネ福音書とヨハネの手紙で二十一回も使われているのに対し、ほかの三つの福音書を合計しても四回ほどである。

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