リストボタンすべてを持つ 2005/5

新約聖書のなかには時々、とくに初めて読む人にとって、驚くようなこと、そんなことがあるはずがないと思われるような表現がある。
キリスト者はすべてを持っている、という次のような箇所もその一つであろう。

(私たちは)悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべてのものを持っている。
コリント六・10

世の人たちが苦しみ、まちがった方向に向かって歩み、さまざまの罪を犯して互いに苦しめあっている。そのような現状を見てパウロは深い悲しみを持っていた。それは「哀しみの人」と言われた主イエスも同様であった。しかし、そのような悲しみを持ちつつも、深い喜びを同時に持っていた。それはこの世から来るのでなく、上から、天の国から来るからであった。
また、何も持たないようであるにもかかわらず多くの人たちの心を豊かにし、神の賜物によって満たすようにと導いた。
そして権力や金、持ち物は何も余分に持たないようであるのに、「すべてのものを持っている」ということができた。それは、神の国の目には見えない賜物を受けたときには、実際にそのようにすべてを持っている、与えられているという実感を与えてくれるのである。
逆に、いくらこの世の宝である権力や金や名声を持っていても、神の国にある目に見えないよきものを知らないときには、心のなかに深い空白があってそれを埋めることができないという感じが残るであろう。
このような天の国の宝こそ、主イエスが真珠にたとえたのであった。

高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。 (マタイ福音書十三・46

それほどに天の宝、神の聖霊は大いなるものであり、人間に深い満足を与えてくれるものなのである。そのようなものをこそ、求めるなら必ず与えられる。
「求めよ、そうすれば与えられる。」(マタイ七・7)という有名な言葉の意味するところはこの天の宝が与えられることを意味しているのである。


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