この世の闇と嵐のなかで 2005/6
この世は闇であり、また嵐が吹き荒れて私たちをまっすぐに歩けないようにしてしまうことが多い。新聞に出てくるような犯罪や、事件、社会問題などはみんなそうした嵐に吹きさらされ、よき心もどこかに吹き飛ばされてしまって考えるだけでも恐ろしいようなことをしてしまうのであろう。
この世はそのような闇と嵐、波の荒れ狂う海のような状況にたとえられることが満ちている。平穏な生活を送っていると思われる人もいるであろうが、いつ交通事故や事件、あるいはガンなどで突然にしてそのような吹き荒れる嵐、波風に呑み込まれるか分からない。電車の脱線衝突事故で多数の人が亡くなり、重い怪我をしたことなど、その直前まで平和な生活をしていた人も誰一人予測できないままにあのような事態となった。
この世の荒波に呑み込まれるということは、聖書の最初から見られる。アダムとエバという最初の人間が、せっかく神がこの上もないよい状態になされたエデンの園において、食べるものも、見るものもすべて美味で、美しいという何不自由ない生活を与えられていたのに、アダムとエバを呑み込もうとする波が襲ってきたとき、いとも簡単にそれに呑み込まれ、みずからその恵まれた生活から追い出される原因を作ってしまったと記されている。
それが、食べるなと、言われていた園の中央の木の実を食べることであった。
そのように一度闇の力に呑み込まれた人間の心の中にどんなに恐ろしい暴風が吹き荒れるか、それはやはり聖書においても、最初から記されている。
それは聖書で最初の家族の中で、カインとアベルという兄弟がいたが、その弟アベルが、恵まれているということのゆえに、カインが怒り、アベルを撃ち殺すといった恐ろしい出来事である。このような読みたくもないような出来事がなぜ聖書の最初から書いてあるのかと、初めて聖書に触れたときに思ったものである。
聖書における最初の人間関係である、アダムとエバが、愛と真実の神に従おうとせず、エバがまず闇の力に引き込まれ、アダムもそのエバによって同様に引き込まれてしまったこと、また最初の家庭の記述が、兄が弟の命を奪うというような内容であること、それはいかに人間がこの世の闇の力、荒波に呑み込まれていくかという現実をリアルに記していると言えよう。
こうしたこの世の嵐や波、あるいはさまざまの苦しい問題に対して、聖書はどのように言っているのであろうか。
それは聖書全体にわたって述べられている。
最初に現れるのは、「主の名を呼ぶ」ということである。
「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」(創世記四・26)という一言の記述が、そのことを表している。この世の闇の力に呑み込まれないようにするために、主の名を呼ぶということ、それはまず、主なる神を信じて、主を仰ぐということである。
そしてやはり創世記の初めの部分、その五章につぎの言葉がある。
「エノクは神とともに歩み、神がとられたのでいなくなった。」(創世記五・24)
このように、すでに創世記のはやい段階から短い言葉ながら、はっきりとこの世の荒波からの救いの道が暗示されている。主の名を呼び、主とともに歩むということこそ、あるべきすがたであり、そこにこそ人間の生きるべき道があるということなのである。
その後、創世記に記されているのは、ノアの洪水のことである。人間が増えていくにつれてさまざまの罪を犯し、真理に背く生き方をするために、神がそうした悪を滅ぼそうと大洪水を起こされた。しかしそのなかで、ノアだけは異なっていた。
「ノアは正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」(創世記六・9)
ここにノアの正しいというのは、神と共に歩んだことと結びつけられている。神と共に歩むことにより、悪から守られ、悪の攻撃を受けても神からの導きと力によってそれに引き込まれないようになる。
その後、旧約聖書でとくに重要な人物の一人である、アブラハムもこうしたこの世の闇に引き込まれないようにするために、神はとくにアブラハムを選んで、その歩むべき道を示した。神は、現在のイラク地方に住んでいたアブラハムを呼び出し、はるか遠くのカナンの地(現在パレスチナと言われている地方)に行くようにと命じた。アブラハムは、そのような驚くべき言葉に対してそれを拒絶するのでなく、それが神からの言葉だと信じて受け入れ、自分のすべてをかけて神の言葉に従って旅立った。
アブラハムのその姿勢は、つぎの言葉に表されている。(なおアブラハムは以前の名をアブラムと言っていた。)
「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。…アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。…主の御名を呼んだ。」
このように、神からの呼びかけに従って、未知の場所であり、途中が危険なことも予想される上に、目的地に着いてもどうなるか分からない、しかし神の導きを信じてそこに向かっていくこと、このことが、この世の荒波に打ち勝つことにつながる。
私たちには神からの語りかけか、もしくは偽りやすい人間からの語りかけを信じてそれに従っていくか、いずれか二つなのである。人間からの語りかけは、どこに導いていくか、それは空しいところ、滅びの場である。
動揺して終わることがないところである。
人間はじっとしていたら、この世の波に呑み込まれないのではない。それは逆である。 人生の海には嵐があり、深淵があり、闇がある。そこを歩んでいくことができるのは、ただ神からの導きを受け、その導きの言葉を信じて前進する者だけである。
このように、闇の力である波が襲いかかろうとするとき、たいていは恐れる。そしてその恐怖こそが最も波に呑み込まれることにつながるのである。
聖書には、このような世の荒波にほんろうされた例も多く記されている。モーセによって導き出された人々は、長い荒野の旅路をしばしば悪の力にさらされ、引き込まれてしまうことが多くあった。そのような中でも神の憐れみによって襲いかかる波にも風にも動かされないで前進した人々も起こされていった。
また、滅びようとしたときに罪を悔い改め、ふたたび神の御手によって守られて歩む人たちもあった。こうして神を信じる人々は数千年を経ても滅びることなく今日に至っているのである。
しかし、聖書には最も重要な人物の一人であり、大いなる働きを神の力によってなしつづけた人であっても、闇の力にのみこまれ、重い罪を犯してしまった人の例も赤裸々に記されている。
それは今から三千年ほども昔のダビデの例である。神のしもべとして、神のみ言葉のままに生きて、王となった人でありながら、生活が安定したときにとりかえしのつかない罪を犯してしまった。
しかし、そのような者でも、悔い改めによって赦された。若いときから仕えた王にかえって迫害され、命をねらわれて放浪したときの苦しみ、その間は一貫して敵であっても憎しみを返さず、神の導きに従った。そして罪を犯し、悔い改めて以後は、その罪の罰として家族に大変な混乱と悲しみが生じ、その苦しみをになって生きなければならなかった。
ダビデの生涯はこの世の闇の力との戦いであり、それに危うくのみこまれ、滅びるかと思われるほどに深い淵に落ち込んだ者の歩みであり、そこから神の憐れみにより、引き上げられた記録である。
その後に、王国は分裂し、人々の信仰も不純となり、真実な神への信仰が忘れられ、偶像崇拝が起こり、その結果として多くの不正が行われるようになった。すなわち世の荒波につぎつぎとさらわれていったと言えよう。
このようなときに、闇の力に引き込まれた人々を救うため、遣わされた人たちが預言者であった。どこからまちがったのか、どうしたらその闇の中から救われるのかを命がけで伝え、警告したのである。彼等の働きによって滅びの波間から辛うじて救われる人たちもあったが、多くは預言者たちの警告と悔い改めの勧めにもかかわらず、そのままこの世の滅びの波に呑まれていった。
そして国も滅び、多くの民が遠い外国に捕虜として連れ去られていくことにもなった。
しかし、いかにこうした事態が繰り返されようとも、預言者たちが語った神の言葉は押し流されることはなかった。世の荒波にも呑まれず、国々の移り変わり、制度や国境の変化、天災、飢饉、戦争などありとあらゆる荒波にもかかわらず、生き続けてきた。
それはまさしく奇跡である。
こうした数々の歴史の果てに、キリストがこの世に遣わされた。キリストは、この世のあらゆる闇の力、荒波に打ち勝つ力を与える存在として来られた。私たちのうちに内在する、闇の力、すなわち罪の力を自らが十字架にかかることによって滅ぼし、私たちが罪の力という波に呑み込まれないようにして下さったのである。
こうした主イエスの姿は、福音書においてつぎのような記事にも表れている。
夕方になったとき、弟子たちは海(*)ベに下り、
舟に乗って海を渡り、向こう岸のカペナウムに行きかけた。すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかった。
その上、強い風が吹いてきて、海は荒れ出した。
四、五キロメートルほどこぎ出したとき、イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。
すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」。
そこで、彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、すぐ(**)、彼らが行こうとしていた地に着いた。(ヨハネ福音書六・16~21)
(*)海と訳されている原語は、サラッサ (thalassa)である。これは地中海など、一般の海を意味するが、海だけでなく、水の大きなひろがりをも指す言葉であって、この箇所では、ガリラヤ湖を意味しているので、新共同訳では「湖」と訳してある。 しかし、外国語訳では多くが、「海」(sea)を用いている。
なお、湖というギリシャ語は、別にあって、リムネー(limne)というのがあるが、この箇所ではこのサラッサが使われている。ルカ福音書では、リムネーという語が五回ほど用いられているが、ヨハネ福音書では用いられていない。
とくに「海」という言葉がここでは、人間を滅びに引き入れようとする力を持ったものだということが暗示されている。日本でも、「うみ」という言葉は、水の広大なひろがりを指していう言葉であったのは、水のうみを「みずうみ」(湖)と言い、塩分を含んだ海を、しおうみ(潮海)
といっていたことからもうかがえる。
(**)「すぐに」と訳されている原語は、エウセオース eutheos であり、新共同訳では「まもなく」と訳しているが、ほとんどの英語訳では、immediately (直ちに)と訳している。岩隈直訳、岩波書店から発行の新約聖書でも同様に「直ちに、すぐに」と訳している。イエスを迎えようとしただけで、ただちに導かれることの不思議さが強調されていると考えられる。
これは、おそらく初めて読む人にとっては奇妙なおよそありそうもないことが書いてあると思って、気にもとめずに読み進むのではないかと思われる。実際私が初めて聖書を読み始めたとき、何ら説明もなく、註解書のようなものも参照せずに読んでいったがこのような箇所は、何か不思議な思いがしたが、ほとんど深く心には留めないで過ぎた。
しかし、ヨハネ福音書には、最後に書かれた福音書だということもあり、キリスト教が告げ知らされるようになって、五十年ほども経っていたこともあり、単に主イエスの言動を書き記したというのではないのが感じられる。
それは、半世紀にわたるキリスト者の信仰の体験、霊的な喜び、平安、忍耐、勇気などが背後にあるのがわかる。それらをこの福音書を書いた著者自身が深く体験してきたことであり、さらにそれについて神、聖霊からの霊感があったのが感じられる。
ここにあげた箇所も同様で、ここにはキリスト教が宣べ伝えられて五十年ほど経ったときの、当時の深いキリスト者の魂の経験が感じられる。
聖書で海という言葉を使うとき、現代の私たちのイメージとは全く異なるものが含まれている。 現代の私たちは、海というとどこまでも広がる青いひろがりであり、美しさの満ちた風景であり、またさまざまの種類の船が行き交う場であり、また泳ぎなど遊びの場でもある。
そのようなイメージのどれとも合わないのが、聖書における海である。海はどこまで続くか分からない広大さと無限の深みがあると古代では考えられていた。そしてひとたび荒れ狂うとき、船もその大波にのみこまれ、二度と帰って来ることはできない。そして海の中は少し深くなると暗くなる。深いところでは真っ暗な恐ろしい世界だと考えられていた。
それゆえに、旧約聖書ではサタン的な存在が、海にいると暗示する箇所がある。
その日、主は厳しく、大きく、強い剣をもって、逃げる蛇レビヤタン…海にいる竜を殺される。(イザヤ書二十七・1)
ここで言われているのは、神の定めたときには、神に敵対する勢力を大いなる力をもって滅ぼされるということである。「海にいる竜」とあるように、そのような闇の力を持ったものが、海にいるとされている。
さらに、旧約聖書のダニエル書にも、大海が波立ったときその海の中から、現れた獣がいくつかあった。それらは当時の世界を支配しようとした国々を表していたが、そのうち最後の獣から出た角で象徴されている、強い力を持った王は、サタン的な存在であった。その王について次のように言われている。
…彼は、いと高き方(神)に敵対して語り
いと高き方の聖者らを悩ます。…(ダニエル書七・25)
このように、神に敵対視、神を信じる真実な人たちを迫害する者もまた、海の中から出てきたと記されている。
こうしたことを受けて、新約聖書の黙示録でも、次のように記されている。
…わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。…(この獣の)頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた。(黙示録十三・1)
このように、神に敵対する闇の力をもった存在が、やはり海から上がってくるというように記されている。
これらの箇所からもうかがえるように、古代人には海というのはその無限の広さと深さ、一度荒れ狂うとき、何者もそれに抗することができず、のみこまれていくということを知っていたのである。
主イエスが、海の上を歩くといった記述は、そうした背景を知った上で受け止めるとき、これは闇の力、私たちをのみこもうとする力をも支配されているということを暗示しているのである。
たしかに、キリストの力はそのような驚くべきものであり、私自身、かつて二十歳を過ぎたころからますますさまざまの苦しい問題に悩まされ、どうしてもその闇の中から脱することができずに深い闇に落ち込んでいくという実感を持っていたが、それはまさに底知れないところに落ちていくとか、人間の力を超えた荒波にのみこまれていくということであった。
キリストはそこから私を引き出して下さった。それが現在までずっと私の原点となり続けている。私たちは自分を超えた得体の知れない力に引き込まれて沈んでいく。それは人間ではどうすることもできない。しかし、そこから、また人間を超えた力で引き出されるのである。
闇のただなか、海が荒れ狂い、風が吹きつのるなかに、何者かが現れたものだから、弟子たちは恐れた。彼等を滅ぼそうとする嵐や海の力と同様な霊的な何かではないかと恐れたのである。
しかし、そうした闇の力におびえる弟子たちに、主イエスは言われた。
「恐れるな、わたしである!」
この言葉は実際に、その時、弟子たちに言われたのであるが、後に続く無数のキリストの弟子たち、キリスト者たちに向けて言われたものであった。私たちはいつも何かに恐れている。子供のときから、夜が恐い、夢を見ておびえたり、悪いことをする同級生を恐れ、また今日では戸外で遊ぶこともままならない。誰かが誘拐するかも知れないなどと恐れなければならなくなってしまったからである。
そうした単純な恐れから、精神的な恐れ、人間から冷遇され、見下され、あるいは仲間外れにされることを恐れる。社会に出ても同様である。これは地位が低くても高くても同じで、いかなる場にあっても人間は何かをいつも恐れている。大会社の社長とか国の代表者、首相とかであっても同様で、地位が高くなるほど、一言言うにも、周囲がどういうか、といちいち恐れながら言わねばならなくなる。
地位が低いときも、周囲の冷たい仕打ちや将来のことを思って恐れがあり、職業生活がやっと終わっても老後の恐れ、健康不安やガンなどへの恐れ、死という得体の知れないものが近づくという恐れがある。
それらはすべて、この世の荒波、夜の闇、荒れ狂う嵐のなかにある人間の恐れだと言える。こうしたすべての人の、あらゆる種類の恐れに対して、この主イエスの言葉は発せられている。
「わたしである!」という言葉は、単に夜の闇に誰か分からないから、主イエスが私だ、と名乗ったというだけのものではない。この原語は、エゴー(わたし)・エイミ(~である、存在している)
(ego eimi)であり(*)、単に、ふつうの私たちの会話で、「私です」といった簡単な意味ではない。これは、すでに旧約聖書の出エジプト記に、モーセが神から召されたとき、神の名を「在りて在る者」だと言われたが、そのギリシャ語訳聖書では、このエゴー・エイミという表現が用いられている。(**)
(*)「エゴー」は、エゴイズムという言葉で知られているし、エイミ(eimi)は、英語の 「am」と語源的につながっている。
(**)「エゴー・エイミ・ホ・オーン (ego eimi ho on)」となり、英語訳では、I AM WHO I AM.と訳されている。
ここには神とは、永遠の存在者だという意味が込められている。ヨハネ福音書におけるこのエゴー・エイミという表現は、そのことを暗示するものである。
この特別な表現は、ヨハネ福音書に多く用いられている。マタイ、マルコ、ルカなどの福音書ではそれぞれ三~四回用いられているだけだが、ヨハネ福音書では、二十四回も現れる。それはこの福音書では、冒頭から、キリストが神と同一であることを宣言し、それから福音書が始まっていることと同じように、キリストの神性を強調する意味を持っている。
次の箇所もそうした一例である。
ユダヤ人たちが、主イエスを憎み攻撃してきたとき、主イエスは次のように答えた。
…イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(ヨハネ八・58)
ここで、特に「わたしはある」という特異な表現で訳されている原文が、この「エゴー・エイミ」なのである。この箇所はそれがはっきりとわかる。主イエスは、単に家畜小屋で生れてから存在し始めたのでなく、キリストより千五百年以上も昔の、アブラハムが生れる前、永遠の昔から存在し続けていたのであり、それは人間でなく神であるからである。
これはヨハネ福音書冒頭の、「はじめに言があった。言は神とともにあった。言は神であった。…言は肉体をとって私たちの間に宿った」という記述と、キリストの神性を強調しているという点で、相通じるものがある。
荒海にほんろうされ、夜の闇に嵐が吹きつけるといったどうすることもできない状況のなかに、キリストがそのただ中に現れ、「恐れるな、神である私がいる!」と語りかけて下さるというのである。
私たちは結局本当に苦しいときには難しい本とか議論は何一つ役に立たない。単なる腹痛や歯痛でもひどくなればじっとしておれないほどになる。そのような苦しみのときにだれが難しい研究や議論を読もうとするだろうか。
どうすることもできない苦しみや痛み、絶望のなかにおいては、私たちはただ、「主よ、助けて下さい、憐れんで下さい!」と叫ぶしかできないのである。そしてそのような人間の心を深くご存じである神は、またこの主イエスの言葉をもって語りかけて下さる。「恐れるな、神なるわたしが共にいる!」と。
そしてこの語りかけは、キリスト以前ずっと前から、しばしば神から人間に対してなされていた。
…恐れるな、わたしはあなたと共におる。(イザヤ書四十三・5)
…恐れるな!あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」(ヨシュア記一・9)
Do not be afraid, for the LORD your God is with you wherever you go.
この世は恐れで満ちている。だからこそその恐れを取り除く御方が必要なのである。それはいくら学校、大学で学んでもそのような恐れを除く力は与えられない。それは、万能の神、天地創造の神であって、しかも私たちのその弱さをすべてご存じであり、さらに私たちを愛をもって導いて下さる御方にして初めてその恐れが除かれる。
主イエスも、こうした恐れを除くために、しばしば恐れるな、と諭された。
…体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(マタイ十・28)
真っ暗な夜の海、そこでの嵐と荒波にもまれるということは、比喩的にみれば、今も無数の人々が、病気や飢餓、人間関係、職業上の問題などで、日々経験していることである。
そこから脱する道を見出すことができないとき、私たちは生きる力を失う。
しかし、そこから脱する道は驚くほど単純なのであった。それは、次の表現に表されている。
…彼らは、イエスを舟に迎え入れようとした。するとすぐに彼らが行こうとしていた地に着いた。(ヨハネ 六・21)
弟子たちは、荒海にあって近づいて下さったのが主イエスであると分かって、舟に迎えようとしたら直ちに目的地に着いたという。このとき舟は、まだ闇のなかを、湖の中程であり、まだ数キロは目的地までにあったと考えられる。それでも、すぐに着いた、と記されている。しかもそれは嵐のような風、荒れる海、暗闇のただなかである。いかに、主イエスの力が大きいものか、そして弟子たちとしては、ただ迎え入れようとしただけ、キリストを仰ぎ、心から信頼して仰ぐだけで、そのような闇と荒波を越えて導かれていくということなのである。
目的地、すなわち神の国であるが、日々の困難や悲しみをも越えて主イエスは私たちを導いて下さる。それはなんと感謝すべきことであろう。苦しみを耐える力を与えて下さること、それを次のように主イエスは言われた。
…小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。(ルカ十二・32)
神の国とは、神の御手にあるもの、神の愛による御支配のうちにある、あらゆるよきものを意味している。そこには忍耐する力もあれば、希望もある、神の愛もあり、心に吹き込むさわやかな風もある。いのちの水の流れもある。
それらすべては神の国であるが、私たちが恐れのうずまくこの世にあっても、ただ幼な子のように神を仰ぎ、キリストに信頼していくとき、滅びるほかはなかったこの身が導かれていくのである。
このような、神による平安がこの世の嵐のただなかで与えられるという経験はキリスト者が共通して与えられてきたものである。それゆえに、つぎの讃美歌はそのふさわしいメロディーとともに、愛唱されてきた。
しずけき河の きしべを
すぎゆく ときにも
憂き悩みの 荒海を
わたりゆく おりにも、
こころ安し、神によりて安し(讃美歌五二〇番より)
神によりて安し、という。それは主イエスが、「私の平安を与える」と最後の夕食のときに約束されたものである。この世のいかなるものによっても与えられない、神のもとにある平安、それをこの讃美は歌っている。
もう一つ次の讃美も聖歌のうちでも特に広く親しまれてきたものの一つである。
人生の海の嵐に もまれ来しこの身も
不思議なる神の手により 命拾いしぬ
悲しみと罪の中より 救われしこの身に
誘いの声も魂 揺すぶること得じ
いと静けき港に着き われは今安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し(新聖歌二四八番より)
主イエスこそは荒波と嵐を越えて私たちを守り、導き、魂の港へと伴って下さるのである。