中国の詩から (山中の月) 2005/10
山中月
わたしは 山中の月が、
明るく葉の落ちた林の上を照らすのを愛する。
月は、一人住む人の心を憐れむかのように
流れる光は、襟のあたりを照らす。
我が心の本来の姿は月のごとく、
月もまた、わが心のようだ。
心と月が二つながら相照らし、
清い夜をいつまでも相語らう。
我は愛す 山中の月
炯然(けいぜん)(*)として疎林にかかるを
幽独の人を憐れむが為に
流光 衣襟(いきん)に散ず
我が心 本(もと) 月の如く
月もまた 我が心の如し
心と月と二つながら相照らし
清夜 長(とこ)しえに相尋ぬ
(*)光輝くさま。
この詩を作った人は、中国の南宋の時代(一一二七年~一二七九年)の人で、姓名も分かっておらず、真山民と言われるが、その姓とされる「真」も推定される姓で、自分で「山民」を名乗っていたという。この詩には、自然のただ中で、木々や月の光との清められた交わりが歌われている。
月や樹木を創造された神を心に信じる者にとっては、この詩人のいう、心と月が相照らし、語り合うということがさらに深められ、そうした自然を創造した神からの光を受け、逆に自分の心を神に注ぎ、こうして神との霊的な交わりの世界を思い起こさせるものである。
罪深い私たちの心も、そうした汚れのまったくない自然のすがたに深く接するとき、それは神のお心の一端に触れることであり、それによって私たちは神との清い交流がはじまる。
私たちが星をじっと見つめるほど、星もまた私たちをじっと見つめるように感じられてくる。同様に、神を心を尽くして見つめるとき、神もまた私たちを見つめてくださっているように感じられてくる。
創世記において、兄から命を奪われそうになって、親たちのいるところを離れて遠く未知の土地へと旅立ったヤコブが、荒れ野のただなかで、驚くべき啓示が与えられた。それは天にかかる階段であり、そこを天使が上り下りしているのであった。
これは、ここで述べたようなことを指し示すものである。神からのよきものが天から下り、また私たちの思いが天へと運ばれていく、両者の交流というほかには代えがたい経験が与えられるということなのである。