イエスが来られた意味  2005/12

わが国の大多数の人にとって、イエスがこの世界に来られた意味、などに関心はないだろう。しかし、実は逆にほとんどの日本人が、実はイエスが来られたことに関する記念日を祝っているのである。それがクリスマスである。
クリスマスというと十二月だけのことだと思われている。しかし、キリストがこの世に来られたこと、その意味については、いつの季節にも、否千年、二千年経っても変わらぬ重要な意味がある。
しかし、最近では、とくに日本ではクリスマスはキリストよりはるかに、サンタクロースやクリスマスプレゼントのことが思いだされる状況である。
しかし、クリスマスの行事のもとになっている聖書の記述はどうであろうか。クリスマスという言葉がいかに日本で広く知られていても、肝心の聖書でどのように記されているのかを正しく知っている人はごく少ないであろう。
クリスマスとは、その言葉の意味からしても、クリスト(Christ)のマス(mas)であり、キリストのミサなのである。(*)言い換えれば、キリストへの礼拝であり、毎日曜日にしている礼拝の特別なものといえよう。

*)ミサは、ラテン語ではmissa スペイン語では misa(ミサ) ドイツ語で Messe(メッセ)、英語では、mass(マス)という言葉になる。なお、キリストというのは、 ギリシャ語のクリーストスの日本語の発音であるが、外国語では、クリストという音になるのが多く「キ」と発音するのは日本だけである。

それゆえ、人間の誕生日のように、単に日に生れた、おめでとう、といったお祝いの日ではない。クリスマスは、キリストの誕生を思い、キリストが私たちのために来て下さって、私たちに本当の幸いの道を開いて下さったことを感謝し、さらにこの世の至るところに広がる闇の世界に、主イエスよ、来てください、と祈り願う日なのである。
キリストが開いて下さった幸いの道とは何か、といえば、それは一言で言うと、人間をその罪から救い出す道を開いて下さったということである。そのことは、極めて重要なので、新約聖書の最初に置かれた福音書のはじめの部分に次のように記されている。

マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。(マタイ福音書一・21

罪というのは、人間の魂の一番深いところでの問題であり、からだの病気や政治体制、環境問題、飢餓やテロの問題等々より深いところにある。病気がなくても、民主主義の国にいても、憎しみや差別はなくならない。教育でもなくならない。飢餓のない豊かな国であっても、やはりこうした心の問題は解決されない。
また、環境問題が解決されようともこの心の問題は解決されない。 環境が破壊されていなかった古代からずっと、人間どうしの争いや憎しみはあったからである。
それは自分中心の考えが深く宿っているからである。 このように、いかなる社会問題が解決されてもなお厳然と存在するのが、心の奥深いところでの、真実を欠いていること、高ぶりや自分中心の考え、愛のなさ、心の汚れ、不正、等々である。
それらを罪というがそうした根本問題の解決の道を開くために来られたのがキリストであった。
政治や科学技術、あるいは習慣や制度、それらは時代とともに次々と変化していく。いまいくら大問題だと思っていても、数年先にはほとんど忘れ去られることが多い。
人間がどんなに経験を積んでも、いかに天才的な学者であっても、またいかに文字もない未開の国の人であっても、あるいは死を間近にした重い病人であっても、すべての人間にとっての根本問題は、すでに述べたような意味での罪の問題なのである。
経験を積んだから罪がなくなることもないし、学問ができる、ノーベル賞をもらったからといって罪は消えることはない。新たな高慢という罪が生じることもある。
キリストが来られたのは、内なる悪、霊的な悪である罪からの救いのために来られたのであるが、そのこととつながっているのが、この世に至るところにみられる目に見える悪の支配、死の支配に打ち勝つ神の力を与えるためであった。
それは、新約聖書の最初のマタイ福音書に記されている。
イエスは、ヘロデ王の時代に生れた、とイエスの誕生の記述の最初に記されている。なぜこのことが冒頭に記されているのだろうか。ヘロデ王とは、どのような王であったか。
ヘロデは、十人もの妻があり、十五人の子どもがいた。しかし、その家庭は混乱の極みとなっていた。自分の王位がねらわれると恐れて、義母や叔父を殺し、その子や、最愛の妻の二人の王子の命も奪い、別の妻から生れた長男をもいろいろないきさつの後に殺し、みずからの最愛の妻をも疑ってその命を断ってしまった。
このような王であったから、新しい王(イエス)が生れたことを知らされると、赤子のうちに殺そうとしたが、エジプトに逃げてしまったため見つからなかった。そこで、その付近に生れた二歳以下の男の子を皆殺しにしていった。(マタイ福音書二・16
このような暗黒に包まれたような王のもとにイエスが生れたと言おうとしているのである。
生れた時からすでにイエスは闇の力との戦いに置かれていたのである。
悪の力のただなかに、イエスは生れた。それはいつの時代にも見られる悪の力そのものに勝利するために来られたということを指し示している。
いずれにしても、イエスの誕生は、決して単に甘い楽しいものでなく、暗く重い人間の現実の状況のなかに、光をもたらし、悪との戦いに勝利する道を指し示すものであった。

イエスの誕生については、もう一つ、ルカ福音書が記している。
マタイ福音書がヘロデ王の時代ということをまず書いているのに対して、ルカ福音書では次のように記されている。

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
ヨセフもユダヤのベツレヘムという町へ上って行った。 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。
宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカ福音書二・17より)

ルカ福音書においては、二つの王権が対照的に記されている。それは、ローマ皇帝の王権と、キリストの王権である。
ルカ福音書においても、当時の支配者の名前が記されている。それは地中海を取り巻く広大な帝国であったローマ帝国の皇帝、アウグストゥスである。
これは、最初の皇帝で、キリストの誕生と同時代なのである。アウグストゥスは皇帝として豪華な宮殿にいて、当時としては世界を支配していると思われていたであろう。
そのような最高権力者と、イエスが対比的に記されているのである。
イエスは家畜小屋で生れた。家畜小屋とは、まっ暗で不潔な、家畜の排泄物などの臭いのするところである。 人間が生れる場所としては最悪のところであろう。
それとローマ皇帝が住む豪華な建物とは際立った対照がある。
ローマ皇帝は弱い者を支配し、抑圧することによってその領域を拡大してきた。
他方イエスは、家畜小屋のような最も貧しい人のいるところ、文字通り闇のただなかで生れた。これは、主イエスはどんな暗いところにいる人、貧しい人、あるいは人間扱いされていないような人のところにも来て下さるということを指し示すものである。
イエスは、年若くして十字架で処刑されたが、三日後に復活し、聖霊として弟子たちを動かし世界にその福音を伝えるようになった。
ローマ帝国は三百年近い間、キリスト教迫害を続けたが、福音の力によって、ついにキリスト教を認め、受け入れるに至った。
この福音書が書かれたときにはそのような数百年後のことは分かっていなかった。しかし、啓示によって著者はイエスこそ、真の王であり、ローマ皇帝の強大な支配権すらもキリストの力の前には何の力もないことを知っていたのである。
そのことから、さらに私たちは現実の世界でどんなに大きいように見えても、武力や国家権力、あるいは経済力等々、それらはみんな移り変わり、時が来たら消えていく。
しかし、キリストの力や、その力に支えられた言葉は決して消えることがない。主イエスが言われたように、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ福音書二四・35)のである。
このように、イエスの誕生の記述は、マタイ福音書とルカ福音書の二つであるが、そのいずれにも、イエスは何のためにこの世に来られたのか、という意味が込められている。
マタイでは、悪の力のはびこるただ中に、悪との戦いに勝利するために、そして人間にそのような勝利の力を与えるために来られたことが記され、ルカでは、貧しさや弱さ、闇のただなかにて苦しむ人のために来られたということなのである。
このような意味があるからこそ、クリスマスはいつの時代にも、そして単に十二月だけのことでなく、つねに私たちにとって重要な意味を持ち続けていると言えよう。
悪に勝つ力が与えられること、主イエスが私たちの闇と貧しさ、そして弱さのなかに来て下さること、これだけあれば、だれもが満たされるのである。
それゆえに、聖書の最後にも記されている「主よ、来てください!」という願いはそのまま現代に生きる私たちの切実な願いなのである。


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