見えないものを見る 2006/3
「天路歴程」の中に、神の国を目指して進む巡礼者たちはいろいろの苦しみや誘惑、また危険に出会いつつ導かれていくが、その途中で羊飼いたちに出会う場面がある。その羊飼いたちは、巡礼者たちに、天の国の門や、天の国の栄光を見ることができるようにと、望遠鏡(眼鏡)を巡礼者たちに、与える。そして巡礼者たちは、本来見えなかったものを見させていただけたのであった。
「天路歴程」にはこうしたごく分かりやすい言葉で、霊的な深いことに関わりあることが記されている。この「望遠鏡」あるいは「眼鏡」を与えられることは、単なる物語でなく、どの時代のどんな人にもあてはまることなのである。
聖書も自然もまた先人も望遠鏡として働く。
自然科学や経済学、法学といった学問も、死後の世界については何ら教えるところがない。 私たちが死んだらその後に何があるのか、そのようなことを見る望遠鏡というべきものは与えられないのである。それゆえ、この世の終りとか、最終的にこの世はどうなるのか、そういったことについても、何ら確たる希望は与えられない。
しかし、信仰によって、私たちはいわばさまざまのことを見る望遠鏡や顕微鏡を手にしたようなものである。私たちの内部を見る顕微鏡とも言うべきものも与えられ、私たち自身にいかに不十分なところ(罪)があるか、をも初めて知らされていく。
植物を肉眼で見ているだけでは、細かな花や葉のつくりは決して見えない。しかし、ルーペで見ると、ごく小さな目立たない花が驚くべき美しさを持っていることがしばしばある。さらに顕微鏡で見ると、肉眼では全く見えなかった細胞まで見えてくる。
私が四十年ほど昔、初めて千倍ほどの顕微鏡で一滴のスライドグラスにおいた汚水の中に見た、大量の細菌、じつに多様な形をし、さまざまの運動をしているすがたに接したときの驚きは今も新鮮によみがえってくる。
遠くの物体を見る場合も、倍率の低い望遠鏡であっても、月もたくさんのクレーターがあるのが容易に分かる。
光学望遠鏡は、レンズやプリズム、あるいは反射鏡を巧みに使うことによって、遠くの物を近くに引き寄せて見ることができる。
心や霊的な世界にも、本来は決して見えないものが見えるようになる道がある。キリスト信仰こそは、そのような顕微鏡とか望遠鏡の働きを持っていると言えよう。
性能のよいレンズを使うほどゆがみや色がついたりしないで、正しく見えるように、私たちの信仰も、正しい信仰であるほど、見えない霊的な世界のことが、正しく見える。
この世にはさまざまの目には見えない力、悪霊とか汚れた霊といわれているものがある。それによってふつうなら到底考えられないような悪事がなされたり、不可解な行動をすることがある。
そうした人たちが持っているレンズは、ゆがんだものであるから正しく見えないのである。
聖書で言われている聖霊は、その果実として愛や平和、喜び、忍耐を生み出すような働きである。そしてその聖霊こそは、私たちの魂にとっての最大の望遠鏡であり、顕微鏡なのである。はるかな遠い先のことと思われている神の国のことも、聖霊によるならば実感することができる。
また、小さなことの中に他の人が決して見えないものを見ることもできる。マザー・テレサが路傍で死にかけているような貧しい人の中にキリストを見る、と言っていることもそうである。
聖書そのものが一種の望遠鏡であり、顕微鏡なのである。それがあれば、世の終りというはるかに遠いように思われていることも、見えてくるし、人間の心の隠れた深いところに潜む微細なもの、小さな不信実な心の動き、罪も見出すことができるようになる。そして、人間の心に点火された神の霊の働きも見えるようになる。
さらに自然のさまざまの世界もまた一種の望遠鏡である。それを通して神の国のことが部分的にせよ見えるようになるからである。
しかし、逆にふつうに色眼鏡で見るという言葉もあるように、わざわざ曇った眼鏡で見ることもよくある。私たちが、特定の人間だけを大切に思ってひいきしたりするとか恋愛で夢中になったりすると、それは一種の色眼鏡をもって見ることで、正しいものが見えなくなる。そのあげくに、他人の家庭を破壊したり、差別を引き起こしたりして人間関係の分裂が生じたりする。
だれにでも本来持てる神の国を見るための眼鏡、それこそは主イエスが言われた、神を仰ぐ幼な子らしい心である。聖霊によって新たに生まれ変わるのでなかったら、神の国は決して見ることはできない、という主イエスの言葉を思い出す。新しく聖霊によって生れるということは、神の国を見る眼鏡を与えられるということなのである。