モーセの召命―燃える火の中に現れた神 2006/3
エジプトの王の命令によって生れた男の子はナイル川に投げ込まれていったが、その内の一人の赤子が、エジプトの王女によって拾い上げられ、王子として育てられるという不思議な生い立ちをしたのがモーセであった。
成人した彼は、自分の力で同胞のイスラエルの人のためにしたことから、王に命をねらわれることになり、砂漠を越えてはるかな遠くへと逃げのびて行った。
そこで結婚し、荒野で、羊飼いとしての静かな生活を送っていた。そのようなある日、モーセは不思議な光景を目にした。乾燥した地帯では樹木は所々にしか生えていない。そのうちの一つの木が燃えているのにそれが燃え尽きないのに気付いた。
この大自然のただ中で生じた出来事が、神からモーセへの語りかけの最初の場面であった。
なぜ、神は、燃える木(柴)の中から話し掛けたのか、聖書の箇所でこのような状況から語りかけたというのは他にはない。
それでは、他の聖書で重要な人物はどのような状況で神からの呼び出しを受けたのであろうか。それを簡単に見てみたい。
アブラハムに最初、神が語りかけたのは、どんな状況であったかは全く記されていない。アブラハムが神からの語りかけを受ける前にどんな生活をしていたのかすら全く記されていない。ただ現在のイラク地方に住んでいたこと、そこから家族でユーフラテス川の上流地方へと旅立ったということだけが書かれている。そしてその直後に、突然、神がアブラハムに、「生れ故郷を出て、父の家を離れて私の示す地へ行け」という記事が続いている。(創世記十二章)
アブラハムの孫にあたるヤコブについては、兄に命をねらわれるという状況になったために、一人遠くの親族のところに逃げていく途中の夢の中に、天に至る階段が現れ、天の御使いが上り下りしているのが示され、神がヤコブに語りかけたのであった。(創世記二八・10~15)
また、王として特に重要であるダビデを選び出す使命を帯びていた預者者、サムエルは、子どものときに神からの呼びかけを、夜の眠りのときに受けた。(サムエル記上三・4)
ダビデは羊飼いをしていたが、サムエルを通して神に選ばれた。そのときから神の霊が注がれるようになったと記されている。(同右十六・12~13)
最も重要な預言者のうちの一人、イザヤはある時突然、神のすがたを啓示され、預言者として呼び出された。それが宗教的儀式のときであったのか、祈りの時なのか、あるいは旅の途中なのかは何も記されていない。(イザヤ書六章)
またイザヤと並ぶ偉大な預言者、エレミヤも若き日に神からの呼び出しがあったというのは分かるがそれが生活のどんな時であったかはやはり何も分からない。
新約聖書に入って、イエスの弟子たちのうちで、代表的なペテロ、ヨハネ、ヤコブたちは、いずれも漁師であって、漁師として漁をしているとき、ヨハネは、網の手入れをしているという仕事中に突然イエスからの呼びかけがあって、それに従って弟子になったことが記されている。
また、最大の弟子とも言えるパウロは、熱心なユダヤ教徒としてキリスト者を迫害している最中に復活のキリストからの呼びかけを受けた。
このように、聖書のなかには、神からのはっきりした呼びかけはいろいろな状況でなされているが、モーセの場合のように、砂漠地帯で時折みられる木が燃えているその中に神が現れて語りかけたというのは、異例のことである。
燃える木(柴)の中から、御使いが現れたとあるが、四節では、柴の中から声をかけたのは、神であるのが分かる。このように、御使いとあっても、神ご自身の一つの現れである場合がある。
まず、神はモーセに対して、エジプトにおいて人間の力の弱さと空しさを思い知らせ、次に静かな荒野での生活へと導き、そこでモーセは単独の長い時間を持つことによって神との対話を続けていった。そして、時至って神は直接的にそのお姿を現してモーセに個人的に呼びかけた。個人的に呼びかけられて始めて、私たちの信仰は確固たるものとなる。人間の呼びかけは力にならない。
アブラハムもその個人的呼びかけから全く新たな生涯が始まった。そしてそれが全世界に絶大な影響を及ぼすことになった。神が何事かを成そうとされるとき、特定の人間を呼び出す。そしてその人間に特に大きな力と、神の言葉を与える。
キリストの十二弟子たちも、弟子たちが志願したのではなかった。次のように、自分で希望した者はかえって退けられた。
…ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。
イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(イエス)には枕する所もない。」(マタイ福音書八・19~20)
律法学者のような、聖書を人に教えている人がイエスに従う、と言っているのだから、ふつうなら「それでは従って来なさい」とすぐに受け入れるように思われる。しかし、自分がどんなに決断しても、自分の意志は固いと考えていても、この世で生じることの前にはいとも簡単にそうした自分に頼る姿勢は砕かれてしまう。
キリストの十二人の弟子たちは、みんな自分の意志で従おうとして選ばれたのでなく、彼ら自身はイエスに従っていくなど、全く考えたこともない人たちばかりであった。そのような人たちをイエスご自身が呼び出したのであった。
同様に、パウロも彼自身の意志はキリスト教を撲滅することであってキリスト教徒を迫害する指導者であったが、キリストからの呼び出しによって使徒に変えられた。
私たちもまた、自分の意志や希望でなったのでなく、神の御計画からキリスト者とされたのである。すべての本当のキリスト者はみなこのように神がはるかな昔から予定し、計画して選び、個人的に呼び出したのである。
このように、人間の運動とか社会状況によるのでなく、神ご自身がその御計画によって呼び出すのであるから、私たちはただ祈ることである。神は、当時のエジプトにおけるイスラエルの人たちの苦しみ、叫びの祈りを聞いた、と記されている。
…イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。 神はその嘆きを聞き、…神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。(出エジプト記二・23~25より)
モーセは、命が助かって以後も、絶えずエジプトのユダヤ人の過酷な取り扱いを思いだしていただろう。
神は全く思いがけないときに現れた。モーセ自身、また他のすべての人たちも神がいつモーセに現れたのか、分からないような遠隔地であった。 どんなに遠くにいても、神は見出される。
燃える火の中に現れた神、それはすでに述べたように、数ある預言者や信仰の人のなかで、モーセにだけそのようにして現れた。これは何を意味しているだろうか。
それは神の御性質を表している。神が火の性質を持っていることは、旧約聖書でもあちこちにみられるが、特にエゼキエル書ではその四十八章にわたる長編の内容の冒頭に記されている。
… 主の言葉が祭司エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。
わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。さらにその中には四つの生き物の姿があった…
それらはそれぞれの顔の向いている方向に進み、霊の行かせる所へ進んで、移動するときに向きを変えることはなかった。…
彼らの有様は燃える炭火の輝くようであり、松明の輝くように生き物の間を行き巡っていた。火は光り輝き、火から稲妻が出ていた。(エゼキエル書一・3~14より)
エゼキエル書とは、ユダヤ人が遠くバビロニア帝国に連れ去られたとき、その地でエゼキエルが神の召命を受けて、神の言葉を語った預言書である。ここにあげた描写は現代の我々にはとても実感しにくいが、これは、神の本質をこのようなかたちで示されたのであった。それは、神は火のような力、焼き尽くす力を持ったもの、火はまた明かりでもあり、闇を照らしだす光でもあるが、それはじっと光っているのでなく、物事の根本を造り替え、悪や不純なものを根底から滅ぼす力をもったお方として現れたのである。さらに四つの生き物のような姿というのも、神を象徴的に表しているが、そこでも、「燃える炭火が輝くようだ」と記されている。
炭火というと、現代の私たちにはせいぜいごく弱いものとしか考えられない。戦前の人であっても、小さな火鉢に入れる炭火、あるいはたき火などの残りに炭火ができるが、そのようなものと考えたら大きな間違いになる。
古代においては、現代のように石油や石炭、電気などを大規模に用いるなどは全くなかったのであり、一般的には、木材から木炭を作り、空気を送って千数百度にし、化学反応を起こして鉄を溶かし出していた。
そうした状況で使うような強力な火がここでは言われているのであって、この「炭火」とは、「岩石(鉱石)をも鉄をも溶かすような、激しい力」をもったものという意味を持っている。
それゆえ、家庭で見るような火鉢の炭火などをイメージすると全くここで言われている神の姿を間違ってしまう。
現代の人々は、(キリスト者以外の人が抱いている神に対するイメージも含め)神を思い起こすとき、「火」を連想する人はごく少ないと思われる。火というのは、古代からずっと比較的最近まで、きわめて重要であって、毎日の食事のために調理にも不可欠であり、夜の明かりとして、また寒さから防ぐためなど、火がなければ生きていけなかった。しかし、最近では、電気での炊飯、電磁調理器、電子レンジなどのため燃える火というのはますます遠ざかりつつある。さらにこのごろは、たき火もしてはいけないとかで一層、火というものに触れることがなくなっている。
それゆえ、神が燃える火のなかに現れたといっても、当時の人たちが受けた強いメッセージ性が失われているので、私たちは少しでも当時の人たちが持っていた火というイメージを思い浮かべて読む必要がある。
神とは、火のような存在だ、ということは、エゼキエル書と共に、さまざまの霊的かつ、視覚的なイメージによって神の啓示を記しているダニエル書にも見られる。次の記述は、ダニエルが、眠っている間に神からの特別な啓示を受け、神ご自身を見るという特別な恵みが与えられたときの内容の一部である。
…なお見ていると、
王座が据えられ
「日の老いたる者」がそこに座した。その衣は雪のように白く
その白髪は清らかな羊の毛のようであった。その王座は燃える炎
その車輪は燃える火
その前から火の川が流れ出ていた。(ダニエル書七・9~10より)
これは、ダニエルがイザヤやエゼキエルと同様に、霊的に引き上げられて神を見るという特別な恵みを受けたときの経験を伝えている。ダニエルが示された神の本質とは、すべてを支配する王であること、永遠性、そして雪のように白いという表現によって完全に清められた存在であることが示され、自由自在にどこにでも動くことが車輪を持っているということで表され、しかもそれは火であり、火の川が流れ出ているというのである。
ダニエル書が書かれた時代状況は、激しい迫害の時代であったが、それは悪の力がそれまでのどの時代にも増して激しく襲いかかると思われたほどであった。しかし、そのような悪の力も、すべてを焼き尽くす火のような神の力によって滅ぼされるという確信が啓示されたのであった。
神の前から流れ出ているのは、「いのちの水の川」である。
…天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。(黙示録二二・1)
聖書の最後の書物ではこのように、神と小羊といわれるキリストはいのちの水であふれているゆえに、そこからは永遠のいのちの水の流れが湧き出ていると記されている。悪の力に苦しめられてきた人間も最終的にはこうしたいのちの水の豊かな流れの中に置かれて、十分にうるおされ、満たされるのがこうした表現で表されている。
主イエスご自身もいわれた。
…私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。(ヨハネ福音書四・14)
神御自身がいのちの水の源であるゆえ、それを頂いた者もまた一つの小さな泉となる。
それにもかかわらず、このように、ダニエルは神の御座から、火の川が流れ出ているのが見えたという。火と、水、全く相反すると思われるものが共に神の御座から流れ出ているのである。
火の川が流れていくところ、どこであっても焼かれていく。ただしそれは神の真実や正義に意図的に反し続け悔い改めない者に対してである。悪そのものの力は、この神の御座から流れる火の川によって焼かれていくのである。
このように、神が「岩であり、砦」である、というイメージ(詩編にしばしば見られる)と同様に、神に対する私たちの日常的なイメージを打ち破るものを聖書はつねに私たちに対して指し示している。
主イエスご自身も、また神の力は火を連想する力を持っていることを話された。
…すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。
良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。(マタイ七・17~19)
…だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ福音書十三・40~43)
ここで、火で焼かれるとか燃え盛る火の中に投げ込まれる、というのは、神の裁きの力によって滅ぼされるということであり、ダニエルの見た、神の御座からの火の川の流れで燃やされるということになる。
神は愛であると言われる。そして愛とは柔和なやさしいイメージで受けとられる場合が多い。しかし、その愛は万能かつ正義なる神の愛であるゆえ、悪そのものを裁き、滅ぼす力を持っている愛である。弱い人を踏みつけ、理由なく苦しめるのが悪の本体であるとすれば、そのような悪をそのままにしておいてどうして愛と言えようか。
それゆえ、聖書では先に述べたように主イエスも最終的には悪は火で焼かれると予告しているのである。さらに、聖書の最後の黙示録でもその終りに近い部分で、悪の最終的な結末がつぎのように言われている。
…サタンは地上の四方にいる諸国の民を惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。彼らは、聖なる者たちの陣営と愛された都を囲んだ。すると、天から火が降ってきて彼らを焼き尽くした。そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。…死も陰府も火の池に投げ込まれた。(黙示録20章7~14より)
このようにして、悪の力の根源は火の池に投げ込まれて滅ぼされ、死の力そのものも同様に滅ぼされる。
聖書の全体から、「火」というものがいかに神の力の象徴として表されているかが分かる。そうした観点から見るとき、モーセに対して、火の中に神がなぜ現れたのか、という最初に提起したことの意味が明らかになってくる。
長い人類の歴史を通じて特別に神に選ばれた人であったモーセはその困難な生涯の出発点にあたって、愛の神、導きの神と同時に、火の力を持った神をはっきりと悟らされたのであった。
そして実際に、荒野にあってモーセが民を導くとき、「火」が伴った。
…主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。(出エジプト 十三・21)
これは、夜の闇を照らす明かりとしての火であったが、それだけでなく、目的の地への旅路に現れる悪の力から守ろうとする神の力をも表すものであったであろう。
柴が燃えている火の中に現れた神、そして火の柱、雲の柱ということによって神が共にいる象徴も示されているが、これは単に古代のモーセにだけ生じたことでなく、現代の私たちにも迫ってくる事実である。
私たちの周囲には古代には分からなかった遠くの国々の状況が毎日新聞やテレビ、インターネットなどを通して洪水のように入ってくる。それらの多数の部分は悪の支配によっていかに混乱や苦しみが生じているかを報道するものである。そうした事実に接して、私たちが確固たる足場を持っているためには、それらの根源にある悪の力に勝利する存在を確信している必要があるし、そうした力によって日々守られ、歩みを続けているという実感が必要である。
その実感を与えるものこそ、この火の中に現れる神であり、火の柱、雲の柱をもって導く神なのである。