リストボタンst07_m2.gif祈りはどこにでも  2006/4

言葉は、しばしば正しく伝わらない。かえって誤解や行き違いが生じたりすることもよくある。遠くの人にも手紙やメールという手段で届けることはできるが、それも同様である。
手紙などであっても、本当の思いはしばしば書けない。
しかし、祈りには本当の思いを託することができる。
会うことは、遠い外国の人とは難しい。
自分を誤解し、また敵視する人には、言葉をかけても受け入れられない。何かを与えようととしても受けとられない。
しかし、神から受けた愛を送ることはできる。祈りは相手が受けとろうと受けとるまいと関わりなく相手に注ぐことができる。
重い病気の人、死に瀕した人に対するとき、もはやかける言葉もないことがしばしばである。しかし、心をこめて祈りを注ぐことはできる。
ふつうの言葉は目上とか目下など、社会的な上下関係や年齢のことなどによって言い方を変えなければいけない。しかし、祈りはそのようなことと関係なく、注ぐことができる。祈りにおいて私たちは対等の存在、兄弟姉妹となることができる。
主イエスは私たちのために祈りをもって見つめて下さっている。イエスが生きている、導いて下さるということは、言い換えると、絶えることなく祈って下さっているということである。本当の導きは祈りが伴うからである。
祈りこそは、人間を超えた神からの言葉や音楽、霊をも受けとるし、また人間以外の植物や山々、海、雲、水の流れなどからも、祈りによってそれらから心の養分、霊的な栄養を受けることができる。
そしていよいよ死の近づくときにも、苦しいさなかでも、その苦しみを神に訴えて叫ぶという祈りができるようになっている。
私たちは、年齢や健康や経済問題、地位など、さまざまの点で束縛されている。そうした人間に、あらゆる方面への見えざる翼を与えてくれるのが祈りである。


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