なくてならないもの 2006/5
先日、朝にホトトギスの鳴き声を聞いた。ただ一声であったが、私の心の中に漂っていた雲のようなものを吹き去るような働きをしてくれた。何かさわやかなものが心に入ってきたのである。
人間の心には、このようにしてごくわずかなものがそれまでのもやもやしたものを一掃してくれることがある。
友の一言、あるいは、聖書の短い言葉、またふと流れてきた音楽、風にそよぐ音、あるいは水の流れの音…そうした短いもので私たちの心の風景がさっと変ることがある。
聖書のなかに、キリストの弟子ペテロが、主イエスが逮捕されたときに、三度もそんな人は知らない、と強く否定した。そのときの主イエスのことが次のように記されている。
…主は、振り向いてペテロを見つめられた。
ペテロは「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と言われた主イエスの言葉を思いだして、外に出て激しく泣いた。(ルカ福音書二二・61~62)
主イエスのまなざしと少し前に聞いていた短い一言が、ペテロを深く悔い改めさせることにつながった。 私たちが道にはずれたこと、言ったりしてはいけないことをしたとき、何らかの誘惑に負けたようなとき、主は私たちの方を振り向いて見つめておられる、そのまなざしを、この福音書の著者であるルカ自身がはっきりと体験していたのであろう。
そしてそのようなまなざしの背後に、神のまなざしがある。
最大の働きをした使徒となったパウロ、かれはかつてはキリスト者に対して激しい迫害をしていた人物であった。しかし、突然の光と復活したキリストの直接の呼びかけの一言によって決定的に変えられた。
私たちが神から求められているのも、幼な子のようなまっすぐな心で神を仰ぐただひとつのことであり、私たちが必要なものも、私たちに語りかけられる上よりの一言であり、神のまなざしである。
…無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。(ルカ福音書十・42)