すべてを知っておられる神 ― 詩編一三九編― 2006/6
日本人にとって、神という名は、何か遠い存在である。神社に行って自分ととても近いという実感を持った人はどれほどいるだろうか。戦前は、天皇が現人神とされたが、天皇が自分の心のすぐそばにいるように感じる経験を持った人はほとんど聞いたことがない。それも、ヒロヒトという名前すら言ってはいけない、近くに来訪しても最敬礼して、通りすぎるまで顔を上げてはいけないという状況であったから当然であろう。
最近よく問題になっている靖国神社にしても、そこに祭られているおよそ二五〇万人の人間はみんな神々だとされていて、拝む対象であるが、戦争でどんな残虐なことをした人でも一律にみんな神々なのである。
有名な北野天満宮で祭られている神は、菅原道真であるが、もともと、彼は学者であり、政治家であったが、政敵によって太宰府に流された。その頃京都で落雷など異変が続いて生じたため、道真の怨霊の祟りだと恐れ、それを鎮めるため九五九年に作られたのであった。
また、京都の八坂神社は、素盞鳴尊(すさのおのみこと)他の神々をまつり、伏見稲荷大社は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)が主祭神だという。こうした古い時代の人間や神話の神々に心で親近感を感じることも難しいだろう。
一般の神社には、鏡や玉、剣、あるいは石や人間のからだの一部まで御神体としているところがあるという。
だれでも、身近にある神社では何という神々をまつっているのか、ほとんどの人は知らないのではないか。知らないものに対して親近感を抱くことはできないことである。
そのような得体の知れない神々に親近感を感じるという人はごく例外的ではないだろうか。
こうした日本の神社の実体と非常に対照的なのが、聖書にあらわれる神である。
ここでは、今から数千年昔の旧約聖書にあらわれた詩のひとつを学んでみたい。なお、この詩は、旧約聖書の詩編のなかでも特に高く評価されているもののひとつである。
アメリカの有名な聖書注解シリーズのなかで、つぎのように言われている。
…この詩は、詩編のなかでも特に優れた詩のひとつであるだけでなく、その信仰にかかわる洞察と敬虔な熱心は、旧約聖書の偉大な箇所のなかでも顕著なものとなっている。」(*)
また、イギリスの十九世紀の大説教家であった、スパージョンも、この詩は、詩編のなかで最も注目すべき詩のひとつであるとしている。 (**)
(*) This poem is not only one of the chief glories of the Psalter, but in
its religious insight and devotional warmth it is conspicuous among the
great passages of the O.T. (「THE INTERPRETER'S BIBLE Vol.4 712P」)
(**)One of the most notable of the sacred hymns.(「THE TREASURY OF DAVID」Vol.3 258P)
…主よ、あなたはわたしを究め
わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り
遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け
わたしの道にことごとく通じておられる。
わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに
主よ、あなたはすべてを知っておられる。
前からも後ろからもわたしを囲み
御手をわたしの上に置いていてくださる。
その驚くべき知識はわたしを超え
あまりにも高くて到達できない。(詩編一三九・1~6)
この詩の作者はまず、神がとても身近に感じられるゆえに、神に向かって一貫して、親しく「あなた」と呼びかけ、私との関わりを述べている。神は宇宙を創造されたほどの無限に大きい存在であり、それは私たちにとって遠くの存在と感じる。しかしこの詩の作者はそのような遠い存在であるはずの神が土くれにすぎないような自分のすべてを見つめておられる。まだ言葉を出さない前からその思いを見抜いておられる、という実感を持っていた。
一般の人間にとって家族は最も身近な存在である。しかしその家族であってもまた特に親しい友人であっても、自分の思いをすべて見抜き、言わない前から自分の思いを知っているなどとどうして思うことができようか。
神の御手などどこにあるのか分からない、そんなものなどない、という気持ちを持つ人が多数を占めると考えられるが、この作者は、その見えざる御手が自分の上に置かれ、取り囲んでいるというのを実感していた。
…どこに行けば
あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。…
曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
あなたはそこにもいまし
御手をもってわたしを導き
右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち
闇も、光も、変わるところがない。(同・7~12)
ここには、いかなるところに隠れようとも神はすべてを見られているということから、罪を犯してそのことを隠して置こうとしても決してできないこと、裁きから逃れようとしても不可能であることが語られている。たしかに、これほどまでに神が至るところで自分を見つめ、そばにおられることを実感している者にとって、罪を隠すなどは思いもよらないし、それはまさに神への畏怖である。
そしてこの詩の作者は、そのような万物を見抜く神の本質は裁いたり滅ぼすために見つめているのでなく、私たちを正しい道へと導き、救いを与えるためであることを知っていた。神の右の手は、その力によって滅びようとする私たちを捕らえ、引き上げて下さることを実感していたのである。
すべてを見ておられる神を実感するものは、このように、神への信頼と愛とともに、神への畏れをも同時に深く抱くものなのである。
自分がたとえ神から隠れようとして闇に入ったとしてもそこもすべて神は一瞬の光をもって照らしだし、すべての隠れたものを明らかにする。
この神の光の特質は、またこのように罪をも照らしだすとともに、闇にある者への光としても臨むのであって、ここにも厳しさのなかに愛をたたえた神の姿が記されている。
…あなたは、わたしの内臓を造り
母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
わたしはあなたに感謝をささげる。…
胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている
まだその一日も造られないうちから。(同・13~16)
次にこの詩の作者は、自分の原点に立ち戻る。自分の存在を創造して下さったのは神であり、胎児であるときからすでに見守って下さっていたという実感である。この広い天地のどこに行こうとも神は自分を愛と正義のまなざしをもって見つめ、さらに生れる前から見つめておられたのだと感じるのである。空間的にもまた時間的にも自分という存在を取り囲んで下さっているのが神なのである。
生れない前から、神はその書に自分のことを記して下さっている、つまり、自分を愛をもって神は心に留めて下さっているのを知っていた。それほどまでにこの詩の作者は、神のお心が手にとるように感じられたのである。
現代の多くの人は、どこにも神などいない、という。この詩の作者の心の経験といかに異なることであろうか。
人間は誰でも愛なくば、生きていかれない。誰かから愛されていると感じるからこそ、生きていく気力が生じる。全く愛されていないと本当に感じるとき、表面的には生きていても、内なる人間は死んでいくであろう。それゆえ、本当の愛がどこにあるか分からないときには、無理やりにでも愛のように見えるもの、愛の影にすぎないものをもぎ取ろうとする。それがこの世にいつの時代にも見られる男女間のさまざまの問題である。
…あなたの御計らいは
わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。
数えようとしても、砂の粒より多く
その果てを極めたと思っても
わたしはなお、あなたの中にいる。(同・17~18)
この詩の作者にとって、神の考え、神のお心は計り知れないものであった。たしかに歴史の動き、周囲の自然の動き、雲や大空、星、野草や樹木、海や川の一つ一つの姿、それらはみんな神の御計らいであり、神のご意志そのものの表れなのである。
そのような無数の神の御計らいは、私たちにおいても見られるのであって、偶然に見えることもみんな、神の御計らいのうちの出来事なのである。
私たち人間を日々導いて下さっていること、一つ一つの私たちのからだを支えて下さっていること等々すべての周囲の出来事はみな神の御計らいとして、この詩の作者には実感されているのである。
神はいるのかも知れないが、何も自分にしてくれるなどということはない、というのが多くの人の気持ちであろう。しかし、この詩の作者にとっては、自分になして下さっている神のわざを数えていくならそれは限りなくあることを知っていた。
どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。わたしを離れよ、流血を謀る者。
たくらみをもって御名を唱え
あなたの町々をむなしくしてしまう者。(同・19~20)
作者は、自分と神との間の深い交わりを破壊しようとする力があるのを知っていた。この世の悪の力、それはどんなところにも進入してくる。最も価値ある神との個人的な交わりという霊的なところにも悪の力は忍び込んできて、神が近くにいますという実感を壊そうとしてくる。そして神への疑いを持たせようとする。
それゆえこの作者は、そのような悪の力に対して強い調子で神に訴える。どうか主よ、悪の力を滅ぼして下さい!と。こうした激しい悪への憎しみは、新約の時代に入って、より霊的なものへと高められ、悪人そのものへの憎しみでなく、霊的な悪そのものへの憎しみとなった。それゆえ、悪人に対しては憎しみでなく、その人から悪が除かれるようにとの祈りをもってせよ、それが敵をも愛するという意味なのだ、迫害する者ののために祈れ、と主イエスは言われたのであった。
…神よ、わたしを探り
わたしの心を知ってください。わたしを調べ、私の悩みを知ってください。
見て下さい、わたしの内に迷いの道があるかどうかを。
どうか、わたしを
とこしえの道に導いてください。(同・23~24)
最後の段落で作者は、再び祈りをもって神に向かう。いかに深く神との交わりを実感している者といえども、人間はもろく揺さぶられる。どんなに意志を堅固に保とうとしても、悪からの攻撃や誘惑に倒れることがある。
それゆえこの詩の作者は、自分の内に間違った道がひかれていないかどうか、を見て、どうか自分を正して下さいと願うのである。ここには、自分はずっと神の国への道を正しく歩めるのだ、といった自信や誇りはない。前半で述べているように、著しく神の近いこと、神が自分のすべてを取り巻き、ともにいて下さるのを実感しつつ、なおこのようにそこから迷い出ることがあり得ることを自覚していたのである。
それゆえに、永遠の祝福である神の御手の内に置かれていること、そこから絶えず神の国のよきもの、神の平和を与えられることを願い続けるのである。