リストボタンことば    2006/6

236)雑用

東京神学大学の学生たちが、卒業しようとするときに、よく言います。雑用を軽んじる伝道者になるな、と。うっかりするとそういう人が出てくるのです。 私は少しも説教させてもらえない。雑用ばかりさせられると。
私は教会に雑用などないと言います。皆、神様の役に立ち、主イエスの役にたち、人々の役に立つものに雑用というものはない。 その雑用といわれるもの、一つ一つを大切にしない人に、説教はできはしないと教えるのてす。(加藤常昭説教全集第十四巻 248頁(*))

*)加藤 常昭は、一九二九生れ。東京大学文学部哲学科や東京神学大学で学び、後に東京神学大学教授。一九九七年まで、日本キリスト教団鎌倉雪の下教会牧師。

・このことは、主イエスが、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」(ルカ福音書十六・10)と言われたことである。神は、種まきのたとえにあるように、ごく小さなことを用いられる。大きなことは、この小さきことにいかに忠実に真実な心をもってなすか、ということによって任されるようになる。神の国のためには、小さなことはというのはなく、どれも大きなことなのである。また、逆に、次の主イエスの言葉にあるように、人の目に大きなことのように見えることは、神の目には小さなことになる。

イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」(ルカ福音書十六・15

237)「真実にして最大の喜びは、被造物から受けるのではなく、造物主から授けられるものである。あなたが一旦この喜びを所有すれば、だれからも奪われることはない。これに比べると、どんなこの世の快楽や喜びも苦痛であり、苦いものであり、どんな栄華もつまらないものとなる。」(クレルヴォーの聖ベルナルドの言葉)
「神がある人に神みずからを愛するという恵みを与えたならば、その人は十分な幸いを授けられたのである。」
この聖ボナヴェントゥラの言葉は、宗教もしくは神学と呼ばれるものの最も簡潔な要約である。この領域での最もすぐれた学識も、要するにこれ以上のもの、あるいはこれ以外のものを含まない。これ以外にふくんでいるすべては、真の幸いにいたるために必要なものではない。
 神への愛だけが、われわれを徹底的にエゴイズムから解放することができ、またすべての本当の自己改善の始まりである。この神への愛がとりわけ強くならないかぎり、人間愛、人道、倫理などといっても、そのうしろになんらの力も持たない空しい言葉にすぎない。(「眠られぬ夜のために上・ 六月十三日より」)
・ヒルティは、本当の幸いに関する真理を、ベルナルドやボナヴェントゥラという中世の有名なキリスト者の言葉を引用して述べている。人間の究極的な幸いは、人間や目に見える物などからでなく、神から与えられるということは、聖書が一貫して述べていることであり、また約束でもある。心に何も誇ったり頼るものを持たず、幼な子のような心をもてまっすぐに神に向かう心、そこにこそ、神の国が与えられると主イエスは言われたが、このヒルティの文はそのことを言い換えたものである。


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