休憩室 2006/8
○先日、裏山の小さな谷川沿いの朝に歩く道で、ハンミョウという昆虫を、数十年ぶりに見ました。これは、タマムシと並んで、特に美しい昆虫として知られています。小学校のころ、私の家のある標高二〇〇メートルほどの日峰山で時々見かけたものですが、最近はどこにおいてももう長い間見たことがなく、私の住んでいる付近では絶滅したのかと思っていたほどです。しかし、どこでどのように生き延びてきたのか、ただ一匹だけがその美しい彩りをもって私の前にいたのです。子どものとき、とらえようと思っても、近づいたらすぐにごく身軽に2メートルほど前に飛んでしまうので、素手ではとてもつかまえることが難しかったものです。
背に橙赤色の十字状の区切り模様があり、その両側は濃い紺色、そこに白い斑点の模様があり、それらが光沢をもっているので、誰しも見た人は思わず目を留めるような昆虫です。
このような見事な色彩、模様をどのような目的があって創造主は造られたのか、と思うとともに、絶滅したように思われたものが、現れることの不思議さを思います。
このような不思議は、植物にはさらに多く見られます。この付近では全くないと思われていた植物が一つだけ芽ばえているとか、それが成長しているのに出会います。たくさんの種が生じてもほとんどは芽生えないけれども、近くにまったくそのような植物がないのに、意外なものを見付けることがあります。
私たちの心のなかにも、長い間、浮かんだこともないことが、ある時突然心に浮かんでくる、ということがあります。これは、神が私たちの心のなかに投げ入れるのだと言えます。
インスピレーション(inspiration) という言葉がありますが、まさに、スピリット spirit(霊)(*)が私たちの心に入り、動かすわけです。
もうだめだ、と思われるようなことが続いても、神に期待をかけることができます。神は無から有を生じさせことができるのだから。
何十年も希望の光がなくなっているような人の心の中にも、神の力によって、光がそこに突然現れるようになって欲しいと願います。
(*)spirit という言葉は、ラテン語の、spiro (スピーロー)から来ています。この言葉は、本来は「(風が)吹く」という意味を持つ言葉であり、人間も生きているときは、一種の風(息)が出入りしているので、「息」という意味にもなり、さらに、息がなくなると、死ぬので、「生きている」という意味もあります。そこから「霊感を受ける」というようにも使われます。その名詞形が、spiritus(スピーリトゥス)で、「風」「呼吸」「命」、「霊、魂」といった意味を持つ言葉です。
お知らせ
○「祈の友」四国グループ集会 九月十八日(月)休日(敬老の日)に、松山市のJR松山駅前の「スカイホテル」にて。午前十一時開会。会費千円。問い合わせは、松山市の二宮
千恵子氏。TEL 050-1288-6075
○九月二三日(土)~二四日(日) 吉村(孝)は、静岡市に出向きます。
二四日(日)の静岡での会場は、「清水テルサ」(勤労者福祉センター)の7階会議室 C です。 JR静岡駅東口から徒歩 7~8分。開会は、午前十時より。連絡先
清水聖書集会の西澤 正文氏 TEL 0543-63-0456
○貝出 久美子さんの詩文集
第八集「十字架からの風を受けて」59頁。残部がありますので、希望の方は申込あればお送りします。一部 一五〇円(切手でも可)。送料は当方負担します。
○聖書講話、礼拝の録音CD
今までには何度か紹介しましたが、最近も数人の方々から問い合わせ、申込がありましたので書いておきます。ヨハネ福音書CD(約58枚)をブック型ケース入りで、希望の方にお分けしています。この内容は、二〇〇〇年の六月十八日から二年半ほどの期間で、徳島聖書キリスト集会でなされた吉村
孝雄による聖書講話の記録です。 これは、テープに録音されていたものを、デジタル化してCDという形で聞けるようにしたものです。(なお、一部の録音テープが欠けていたりしたため、それらはこのCDに収められていないのもあります。)
このCDは、音楽を聞くための普通のCDラジカセで聞くことができます。価格は、CD、ケース、送料共で、一万円。申込は、メール、電話、はがきなど。
○毎週日曜日の主日礼拝と火曜日夜の夕拝の内容をそのまま録音したCDも希望者にお分けしています。これは、聖書講話だけでなく、祈りや讃美、感話なども含んだもので、テープでは、八~十本になるのですが、MP3ファイルにしてあるので、CD一枚にこれらが収まっています。パソコンで使うと最も便利に使えます。これは、普通のCDラジカセでは聞けませんが、DVDプレーヤー(ただしMP3対応のもの)などでも聞くことができます。
○北田 康広さんの新しいCD
全盲の歌手、ピアノ奏者である北田 康広さんのCDが八月二日に発売されたことは前月号でお知らせしました。
北田さんは、私(吉村)が高校の理科教員から希望して盲学校(高等部)に転勤したとき、担任したクラスにいた生徒で、音楽に特別な才能があり、聖書にも関心を持っていたので、放課後など、しばしば音楽とキリスト教の関わりや、聖書の内容などについて話したり、集会にも連れてきたことがあります。
わが家にも来て、ベートーベンの熱情ソナタを引いてくれたこともありました。
その内容について、CD付録の記述をも引用して少し詳しく紹介しておきます。
曲目順に説明します。(1)「一つだけの命」・これは、二番目の曲目である「さとうきび畑」の作詩、作曲者として知られる、寺島尚彦の作詩作曲の作品。「空は星たちの遊び場だから、戦のための炎で焦がしてはならない、…海は命のふるさとだから戦いのための船を浮かべてはならない」といった歌詞で想像できるように、静かな反戦歌。
(2)次の「さとうきび畑」も同様に反戦歌であり、森山良子が歌ったのがよく知られているが、このCDではまた異なるアレンジがなされて印象的。
(3)「心の瞳」これは飛行機事故で亡くなった坂本九の遺作。
(4)「千の風」これはアメリカ・インディアンの死者から生者へのメッセージだという。悲しむな、私は、墓の中で眠っているのでなく、秋の雨となり、星となり、朝の光となり、千の風となっているのだから…といった内容の歌詞である。
(5)「平和の扉」これは、イラクのフセイン政権崩壊後に愛唱されてきたという平和の歌。
(6)「死んだ男の残したものは」これは、一九六五年に東京で開かれた「ベトナムの平和を願う市民集会」のために作られた。武満 徹作曲、谷川俊太郎作詩という、著名な人による作品。
こうした社会的な平和を願う歌とともに、(8)「安かれ わが心よ」のような、シベリウス作曲の霊的な平和を歌った讃美歌もある。これは、讃美歌21の五三二番。
(9)「鳥の歌」これはスペインのカタロニア民謡で、キリストの降誕を鳥たちが歌って祝う、というクリスマスの讃美。スペインの世界的なチェロ奏者、カザルスが、ケネディ大統領の招きで、国連でこの曲を演奏し、その時、私の国の鳥は「peace, peace, (平和、平和)」と鳴くと言って、平和を強く訴えた。この歌は、新聖歌九四番に収められています。(10)「勝利を望み」キング牧師の公民権運動のテーマソングとして歌われた。讃美歌21の四七一番。
北田演奏のピアノ曲としては、(14)バッハの「来れ、異教徒の救い主よ」、(11)メンデルスゾーンの「慰め」、(13)バッハ作曲の「シチリアーノ」。これは、バッハの作として知られるフルートソナタの数ある楽章の中でも、もっとも親しまれてきた名曲。なお、シチリアーノとは、地中海のシチリア島に起源を持つ民族舞曲の名称で、独特のリズムを持っているもの。(15)リストの「祈り」など。 全体として見ると、社会的平和と心の平和に関する曲、さらに「心の瞳」や、「千の風」のような叙情的と言える歌なども交え、また、イラク、ベトナム、インディアンの関係する歌といった、グローバルな内容で、曲の選択に苦心した後が伝わってきます。
このような、社会的な平和を求め、多方面の広がりをたたえつつも、信仰的平和の曲をも含め、大衆的な歌手であった坂本九の歌とともに、バッハの宗教音楽も同時に収めていて、しかも、一人が歌を歌うと共に、ピアノ演奏もしているCDというのは珍しく、得難い内容のCDと思います。
主がこのCDを、御国のため、平和のために用いられますようにと願います。
このCDの定価は三千円(送料当方負担)。近くに店がないとか、何らかの理由で購入するのが難しい方は、吉村(孝)まで連絡頂けば、お送りできます。
CDのタイトルは「心の瞳」 CDのNO.AECC-1008 ・
発売元(株)アットマーク
販売元(株)ユニバーサル・ミュージック
編集だより
○七月二九日(土)~三〇日(日)に、京都市の洛西にある、桂坂にて、第六回 近畿地区 無教会 キリスト教集会が開催されました。参加者は、大阪、京都、兵庫、広島、徳島などから、約四六名ほど。今回は、「道」というテーマでした。
開会礼拝では、「キリストの道」を主題として、大学四年の那須 容平兄が、プロジェクターを用いて、イエスの歩んだ道を、視覚的に分かりやすく解説、ガリラヤの道と題して、宮田
博司兄、十字架の道と題して那須 佳子姉、共に歩む道と題して宮田 咲子姉たちが語りました。
そのあと、坂岡 隆司兄が、「からしだね館」開設に関してみ言葉を引用しながら語り、夜はグループ別に読書会と夕拝とに分かれての集会となりました。
翌日の主日礼拝では、「神の道」と題して吉村(孝)が聖書講話を担当。 全体として、主の御手のはたらきを実感するよき集会となりました。
○高知の森下 貞猪姉が天に帰られました。八十一歳でした。
結婚後、小児麻痺の子供をなんとかよい治療をとあちこちの病院に連れていっているうち、ご自身が結核になり、徳島県の結核療養所に入院、そのゆえに離婚も経験され、さまざまの苦しみや悲しみを通って来られた方のようです。
しかし、その苦しみのさなかの闇のなかに、徳島の伝道者 杣友豊市や時々東京から来訪される政池 仁らによってキリストの光に触れるようになり、その後もずっとキリストの力により、歩んで来られたお方でした。
東京から高知に帰られてから、四国集会でお会いすることもあり、主にある交流がなされるようになりました。
また、折りにふれて葉書での通信もあり、きちんと毎年協力費とともに、そこに信仰に関わるコメントもいつも添えて下さり、そうした交流を通して離れていても、信仰によって固く立っておられる方、主をみつめて歩んでおられる方だと感じていました。
若いときから、晩年に至るまでの様々の苦しみや悲しみをも信仰によって乗り越えて来られた方であり、老年に至るまで、主に導かれ、主に担って頂いていると感じておりました。
・読者の方からの来信です。
○何年か前の住み慣れたところからの移住の際に、示されました、ヨシュア記の「…これまで通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道はわかる」 との約束のみ言葉は、この間、いつも私の心の中にとどまっていました。
今、改めて、ヨハネ福音書のCDで十三章36節~十四章(*)にかけて学び、「行くべき道」を確かに、そしてこれから将来も、いかなることに出逢おうとも、それは揺るぎなき道であるとの、聖書講話に慰められました。示されたみ言葉を思い起こしつつ、今日も感謝に満たされております。
(*)シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」…「 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
・私たちの人生の歩みの中で、何かに導かれ、支えられていきます。その際、神の言葉によってそのような導きと支えを与えられる人は多くいます。神の言葉はその奥に、神ご自身がおられ、神の言葉を胸に覚えて歩むことは、神ご自身の御手に引かれて歩むことになるからです。
○高槻での集会のこと
八月二〇日(日)の午後から行なわれた、高槻市の集会(那須さん宅)で、思いがけない人が参加していました。大学時代の同じ理学部、化学科の同窓生、しかも私は生化学の専攻でしたが、彼はそれと近い関係のあった、放射線化学の専攻でした。
卒業以来、何十年も経っていたために、すぐには思いだせなかったのですが、そのうちに記憶が部分的ですがよみがえってきました。
那須 容平さんが、最近はじめたホームページで、自宅での高槻集会を紹介していたのですが、それを見て、高槻市に在住であったため、電話で問い合わせがあったということです。彼は、キリスト教の集会や教会には参加したことはなかったので、今回が始めての参加ということでした。
しかも、彼は岡山県の高校卒業で、そこで、香西 民雄氏(岡山聖書集会)に、高校時代に教わったとのことでした。
主は必要なときには、予想もしてなかった人や書物、あるいは出来事に出逢わせて下さるのを実感しました。
また、ホームページが用いられていることをも感謝。私どもの徳島聖書キリスト集会のホームページも、東京や沖縄のそれまで全く知らなかった人との出会いにも用いられたことを思います。