リストボタン川となって流れる祈りの川    2006/9

聖書では、最初から祈りが流れている。
しかし、祈りの川というような表現は、一般には耳にすることはほとんどないように思われる。
祈りとは、静まってすることだというイメージがある。個人的な、一時的なものだとも考えている人は多い。困ったときに、あるいは形式的に一時的にするのが祈りだと思っている人々が多数を占めているのではないだろうか。
しかし、聖書には最初から祈りがこめられている。光あれ、と神が言われた。すると、ただちに光が生れた。徹底した闇と混乱のただなかに光を来たらせる、それはキリストの祈りである。
人間と動物との根本的な違いの一つは、祈りをすることができるということである。祈りとは目に見えないものへの語りかけであり、その見えざる存在からの語りかけを聞き取ろうとすることであるが、動物には目に見えず、嗅覚や聴覚に入らないものには、反応できないからである。(*

*)私が小学低学年のころ、ニワトリをたくさん飼育していたことがある。そのとき、ひよこを卵から育てることもしばしばあり、親鳥がひよこの鳴き声を聞くと、たちまちその声のする方にとんでいく、ということをよく目にした。しかし、ずっと後になって、ひよこを大きなガラス製の容器にいれて、片足を棒に結びつけて実験したところ、ひよこが目の前で口を大きく開けて鳴いているのに、親鳥は何事もないように、通りすぎて行くのを見て、親鳥はひよこの苦しそうな姿でなく、その鳴き声で反応するのだとわかったことがあった。ニワトリは視覚も優れていて小さな米粒を投げても目ざとく見付けて走り寄って拾うが、自分のひよこが、病気とか怪我で苦しそうにしていても何にもないように通りすぎていくのもしばしば見たことがある。

真実な「祈り」とは流れていくものである。大きな河の流れはどこまでも続いていき、その先々の所をうるおし、よき実りを与えていくが、その水の流れのようである。
「祈の友」という集まりがある。(**)これは数知れずあるキリスト教関係の団体や組織のなかで、ただ祈りだけを中心にすえるというもので、特異なものと言えよう。この「祈の友」は、今から七〇数年前に、一人の結核で苦しむ青年に示された祈りから始まった。次の文は、その青年が三十歳のころに書いたものである。

病苦を負わされ、貧苦に閉じ込められ、人には見捨てられ、おのれにもまた絶望するこうした涙と呻吟のなかにあるとき、私の身代わりに死にたもうたというキリスト、私が永遠の祝福を受け継ぎうる証拠によみがえりたもうたというキリストの福音はじつにおどろくべき歓喜のおとずれであった。
主は私のためにいのちを捨てられた、この私のために。私は初めて真実の愛というものを知った。露ほども報いを求めない愛というものを。
かつての私と同じように、いまなお、病床に身悶えする二〇〇万の結核病者(***)()のうめきが聞こえて、私がこの病苦によって神の福音に接し得たごとく、彼ら一人一人が神の子の生涯に新生させられるようにと祈らずにいられない。
 「祈の友」はこの祈りを使命とするものと考える。肉のことより、霊のこと、自分のことよりも友のこと、何より神のことを祈って、導きあらば、友のため、自分の命を捨てるを光栄とする者の群れである。どうして自分の病状、境遇または自分の信仰のことばかりを祈ることができようか。
 もとより、人間には神の愛を実行する力がなく、それは全く不可能なことである。しかし、心の方向を神に向けることだけはできる。実行はできなくとも、気持ちだけは、祈りだけは清き、高く、神の子の生涯を目標とすべきである。(内田 正規著「午後三時の祈り」15頁 創言社刊)

*)一九三五年~一九四五年ころは、結核で死亡する人達は、年間十二万人~十七万人にも及んでいた。そのため、結核はかつて国民病、亡国病と言われ、しかも死者、患者とも青年層が多く、国の基盤にも影響を与えかねない状況であった。
**)正確には、「午後三時祈の友会」という。かつて、結核患者が、キリストが十字架上で息を引き取った午後三時にときを合わせて祈ろうという会であった。現在は、結核患者以外の病者、健康な人も含まれ、職業を持つ人、あるいは何らかの事情のために午後三時に祈れない人も多いから、時間も午後三時でなくとも、各人が祈れる時間を自由に決めて祈るようになっている。


この著者である内田 正規(まさのり)は、この文章を書いて三年後に三十三歳で地上の生涯を終えた。彼のはじめた「祈の友」の祈りは現在も引き続いてなされている。祈りとは川のように流れていく、という証しでもある。そして川は周囲の植物をうるおし、芽生えさせ、育てて成長させ、花を咲かせて実を結ぶように、この「祈の友」の祈りは過去七十数年の間、何の力もないような病気の人達を主体としつつ、ずっと流れてきた。
これは、人間の意図したところでなく、神が流れさせてきたからである。「祈の友」を始めた、内田が召されたのは、敗戦の一年前であった。日本が無謀な侵略戦争の泥沼に入り込み、数知れない人達のいのちを奪い、生活を破壊していた暗黒の時代であった。しかしそのような光の見えない時代であってもなお、この祈りの川の流れを止めることはできなかった。
言論は弾圧され、平和を口にするだけでも非国民とされるような基本的人権も踏みにじられた時代、それでも祈りを弾圧することはできなかった。食物も十分にないほどに国民が貧しい状況になってもなお、そのような貧しさを貫いて祈りは流れて行った。
もとより、この祈りはキリスト者ならみんなが与えられているものである。キリスト者とはキリストに属する者、キリストにつく者、といった意味を持っている。(***


***)新約聖書が書かれた時代は、まだ、クリスチャン(キリスト者)という呼び方は、一般的でなかった。クリスチャン(Christian)とは、ギリシャ語の christianos(クリスティアノス) の英語の表現である。これは、「クリスト(キリスト)に属する者」という意味を持っている。この原語は、新約聖書ではわずか三回しか用いられていない。(使徒言行録十一・26、二六・28 、一ペテロ四・16
なお、クリスチャンという言葉は、英語の Christian をそのまま用いたものであるが、これは、「キリスト教徒」と訳されることもある。しかし、本来は、罪の赦しを実感することによって生きて今も働いておられるキリストに属するものであって、ヨハネ福音書で言われているように、ぶどうの幹なるキリストに結びついている者のことであり、霊的な神と同様な存在であるキリストの内にとどまり、またキリストが、人間の魂の内に住んでいる人のことをいう。だから、単に、「キリストの教え」を信じている人ではない。 そのために、「キリスト教徒」という語よりも、「キリスト者」(キリストに属する者)というのがより原語の意味に近いと言えよう。
それならば、パウロなど初期のキリスト伝道にて命がけで働いた人達は、キリスト者にあたるどのような言葉を使っていたのであろうか。
それは、パウロの手紙の冒頭によく見られる言葉がその名称を指し示している。それは、「聖徒」(hoi agioi)という言葉である。「信徒」、「使徒」 などに使われている「徒」は、この場合は「人」といった意味で用いられているから、聖徒というのも、聖人 と同じだと考える人がいる。しかし、聖人とは、「知徳が最もすぐれ、万人の仰いで師表とすべき人」(広辞苑)である。新約聖書でいう、聖徒はそういう聖人とは全く異なる。 信じてまだいろいろと欠点もあり、キリストの教えも十分に分からないような、ごく未熟な信徒であっても、そうしたとにかくキリストを信じるようになった人を聖徒と言っている。これは、神のために分けられた人 という意味を持っているからである。どんなに未熟であっても、キリストを信じて罪の赦しを与えられた者は、この世から分けられて神の国のために用いられるようになったという意味を持っているのである。罪深い者であっても、キリストを信じたことによって聖霊の導きと力を受けて変えられていくからである。

しかし、どんな祈りでも流れていくのではない。自分だけのための祈り、自分の子供など家族だけの祈りは決して未来へと流れていくことはないし、周囲をうるおすものともならない。例えば、息子が希望の大学に入学しますように、というのは、もし希望の大学と学部に入れなくて、希望していないところに入ることになると、場合によっては生涯の方向が変るから家族にとっては切実な願いであるから、祈らずにいられないだろう。
しかし、もしその願いがきかれたらたちまちそのような祈りはそれで終りとなる。このような目先のことについての願い、祈りはそれがどんなに当事者にとって重要な問題であっても、他者にはほとんど関わりがないゆえに、ただそれだけで終わってしまう。
しかし、どこまでも流れていく祈りがある。この世には、さまざまの出来事があり、祈りの流れをせき止めようとする力が働く。戦争も貧困、天災も、科学技術の進展、あるいは、豊かさ等々次々といろいろな状況や出来事が祈りの川を止めようとする。
しかし、静かなこの流れは、何者も止めることはできない。主イエスはしばしば夜を徹して一人で祈られた。その祈りの静かにしてしかも力ある祈りの流れは、以後流れ続けている。 ゲツセマネで燃えるような祈りを捧げられたがその後とらえられ、十字架で処刑された。それはイエスの存在そのものを抹殺しようとするものであったし、イエスの死と共にその祈りなど消滅すると考えられたであろう。あるいはそんな祈りなど全くほとんど誰も心に留めもしなかったかも知れない。
しかし、主イエスは復活し、聖霊を送り、その聖霊にうながされた人達は自ずからイエスの深い祈りの心がよみがえったようになった。そしてその祈りとともに、力強い福音伝道を始めることができた。
主イエスは、祈りの中心を「主の祈り」として教えられた。イエスご自身は、罪なきお方であったゆえに、ご自身の罪を赦してください、という祈りはなく、人の罪の赦しをのみ祈られたのであるが、その他の祈りはイエスご自身の祈りでもあったと考えられる。
それは、「御心が天に行なわれるとおり、地でも行なわれますように。」という祈りは、最後の夕食の後でゲツセマネに行ってなされたつぎの祈りと共通した内容を持っている。

「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。
しかし、私の願いどおりでなく、御心のままに。」(マタイ福音書二六・39

この「御心がなされますように」、との祈りこそは、イエスが最も苦しい十字架の処刑の前夜になされた祈りであり、この祈りの心によって主は、神の道からイエスを引き離そうとするサタンに勝利することができた。
御心とは、原語は セレーマ qelhma であって、意志のことである。人間の意志、欲望でなく、神のご意志がなるように、との祈りである。
この祈りは、そのまま弟子たちに受け継がれ、その後無数のキリスト者たちによって祈られてきた。それはまさに、二千年を超えて流れ続けている祈りの川である。
この祈りはたしかにこの長い間のいかなる戦争や飢餓、ペストなどの恐るべき病気、科学技術の発達など、あらゆる激動にもかかわらず川のように流れてきた。
この祈りは、主イエスが人間関係のうちで最も高い段階の祈りとして言われた、「敵を愛し、敵のために祈る」ということも含んでいる。神の国がきますように、ということは、敵対する人には、その人の心に神の国がきますようにということであり、それは敵対する者への愛の心からの祈りである。
主の祈りをここでふりかえってみよう。

・ 御名があがめられますように。(御名が聖とされますように、神のご性質が、この世とは全く別のものとしてあがめられますように。)
・ 御国がきますように。(神の愛と真実のご支配が私たちの心に、社会に、そして世界にきますように)、
・御心が天に行なわれるとおり、地でも行なわれるように。(神の愛と正義に満ちたご意志がこの世でも行なわれますように)
・私たちの日毎の食物を与えてください。(私たち、ということは、これは日本だけでなく、世界の人々のことを思い浮かべて祈ることになり、また日本においても、病気の苦しみのために食べられない人もいる。そのような人に食物が与えられますように、また人はパンだけでは生きられない、神の口からでる一つ一つの言葉で生きるのであるから、そのような霊の食物を与えられますように。)
・私たちが他者の罪を赦したように、私たちの罪をも赦してください。(人間関係の根本は罪深い人間同士がいかに赦し合うかにかかっている。それは神の愛をいただいて初めてできていくことである。罪を赦し合うことがなければ、人間は互いに非難したり憎しみや無関心、あるいは見下すことになる。)
・私たちを誘惑に遭わせないで、悪から救い出してください。(これは、どのような人にとっても、生涯の最後まで祈るべき祈りである。)

この祈りのような、だれにでも及び、どんな状況の人にでも祈ることができ、またあらゆる人に及ぶというはてしない広さを持った祈りはない。それゆえにこのような祈りは、時間を超えて歴史のなかを流れ続けていく。そして学識ある人、貧しい人、権力ある人もない人も、能力のある人も乏しい人も、みんな同じ線に立って祈ることができる。
これは、自分の子供が健康であるように、という誰もが祈る願いとは全くことなる深さと広さ、そして高さを持っていると言えよう。
このような祈りは必然的に時間を超えて流れていく。そして周囲をうるおしていく。

これは、祈りだけではない。真理そのものが、どこまでも流れ続けていくという本質を持っている。聖書にある神の愛、真実は、数千年も昔のアブラハムやモーセの時代から、ずっと今日まで続いている。歴史のなかを流れ続けているのである。そしてその流れを何者も妨げることはできない。
神の本質は、すでにモーセの時代にはっきりと啓示されていた。

主は彼(モーセ)の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、 幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。」(出エジプト記三四・67より)

この個所で言われている神の本質は、何よりも罪の赦しの神ということである。憐れみ深いとか、忍耐強いといったことも、罪の赦しと結びついている。忍耐強いのでなければ、人間が罪を犯せばただちに罰する、ということになる。それでは人間はだれもみんな裁きを受けて滅ぼされてしまうであろう。それから千数百年を経たキリストの時代になっても変ることはなかった。
日毎の食物が与えられること、体が健康であること、家庭が恵まれていること、作物などを作る仕事がうまくいくこと等々どれもみんな恵みである。しかし、そうしたことが与えられていてもなお、それらを当然と考えてしまったりする心ができてしまう。そのような心こそ罪であるから、人間の心からそうした不純なものを取り去って頂かないかぎり、私たちの心は深いところで満たされることがない。 そして、そのような罪を赦されるのでなければ、私たちは滅ぼされてしまう。
罪を赦す神、その本質はこのように、旧約聖書によれば、すでにモーセの時代から啓示されていた。これは、一般的に思われていること、旧約聖書の神は裁きの神だ、といった理解はかたよったものであることを示している。
そしてこの罪を赦す神が人間のかたちをもって現れたのがキリストであり、それゆえにキリストも罪を赦すということをその基本的な本質としている。
これは、福音書の最初に置かれているマタイ福音書がその第一章でこのことをイエスという名前と関連させて記している。

マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。(マタイ一・21

このように、人間にはすべて正しい道からはずれている、という罪があること、そしてその罪があるかぎり人間には本当の幸いはなく、平安もない、それゆえにその罪の赦しを受ける必要があり、神はそのための赦しを与える方である、ということ、この真理はどこまでも続いているのが分かる。
それゆえ、真理のうちに含まれる「平和(平安)」もまた、周囲を満たしつつ流れていく。

わたしの戒めに耳を傾けるなら
あなたの平和は大河のように
恵みは海の波のようになる。(イザヤ書四八・18

ここで言われていることは、平和(神からの祝福で満たされた状態)は、大いなる川のように流れ続ける。そして神からの恵み(*)も、流れ続け、押し寄せ続けるものとなる。

*)ここで恵みと訳されている言葉は、従来の訳語では、「正義、義」と訳される言葉である。(原語は、ツェダーカー)

神によって罪赦され、神の言葉に聞き従う者は、神との結びつきが生きたものとされる、それはまさに最大の恵みである。そのような意味での恵みが海の波のように押し寄せてくる。
耳を澄ませば、今もなお私たちに与えられる平和が川のように流れ続けているのが感じられ、また恵みも押し寄せているのを実感する。じっさいに、そのような流れがあり、海の波のように押し寄せてくるからこそ、過去数千年の間、どのようなことが生じてもこの流れはとどまることなく、信じる者、神の言葉に聴こうとする者には流れ続けてきた。そして罪赦されて神との霊的結びつきもたえず押し寄せてきた。
私たちは、これだけは今後いかに時代が変化しようとも変ることがないと信じることができる。
こうしたすべてのことを来たらせる祈りの川、それは流れ続ける。

十字架の道は
くるしいけれども
行き着くところは
安らかな園だ
祈りの川は
いつも流れ
賛美の泉 たえずあふれる(「友よ歌おう」31番より)

神は愛であると聖書にある。そして愛とは祈りと深く結びついている。それゆえ、主イエスが弟子たちに、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ福音書二二・32)と言われたが、その祈りは今も続いている。
すでにイエスより五百年ほども昔の詩篇とされている、次の詩にあるように、神は昼も夜も眠ることも休むこともせずに私たちを見守って下さっている。愛をもって見守るとはすなわち祈りの心をもって見るということである。

見よ、イスラエルを見守る方は
まどろむことなく、眠ることもない。(旧約聖書 詩編一二一・4

新約聖書でキリストの最大の弟子、パウロが、「どのようなときにも 霊に助けられて祈り、すべての聖徒たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けよ」(エペソ書六・18)と言っている。
聖霊なるキリストが私たちの不十分な祈りを支え、導いて下さるのである。祈りも聖霊の導きがなければ、自分中心の人間的なものになって祝福の流れとはならないのである。
また、次のようにも言われている。

同様に、霊も弱いわたしたちを助けて下さる。
わたしたちはどう祈るべきかを知らないが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成して下さる。(ローマ人への手紙八・26

ここでの「霊」とは、聖霊のことであり、やはり右と同様に生きて働くキリストと同じであり、私たちは行動においても、また考えたり祈ったりすることにおいても常に誤りやすいゆえに、聖霊なるキリストが助け、とりなしをして導いて下さることが記されている。

この世には仕事や毎日の生活のなかで、私たちに敵対したり、理由なく憎んだりする人に出逢ったり、日本や世界の中で不正なことがなされる状況に直面することはしばしばである。
そのようなときに、私たちのとるべき態度はいろいろに分かれる。
一つはそんなことは考えても無駄だから、放っておくという無関心という道。
あるいは、言葉や印刷物でやりかえす、ときには武力、暴力という手段で報復する。
つぎは、それらの問題を困ったことだ、間違いだと思い、それに暴力以外の手段で抗議する。
そうした問題の困難さと人間の弱さを知るゆえに、神の力を待ち望む

このようにいろいろに対応は分かれるであろう。
キリスト者とは、みずからの罪を知った人であり、その赦しという最大の賜物を受けた人である。そして神がすべてをこの世の背後で御支配なさっていると信じる人のことである。それゆえに、私たちの取るべき基本的なあり方は、そのような神の力が働くことをつねに祈って待つ、ということである。
それは「静かなる抵抗」である。祈りの川を常に流させることである。

どのような悪に対しても、静かなる抵抗が最もよく勝利をおさめる。
Allem Bosen gegenuber ist ruhiger Wiederstand das Siegreichste.
(ヒルティ著「眠られぬ夜のために」上 九月二一日より)

ヒルティの言う、「静かなる抵抗」、それが最も強力に働くのは、聖霊によって導かれる祈りである。
過去のあらゆる偉大なキリスト者たちはすべてこの聖霊による祈りによって、この世の悪の力と戦い、勝利してきた。こうした最もおどろくべき例が、十字架にくぎづけられてまで、この静かなる抵抗に生きられたキリストである。
祈りによる抵抗、それは静かであり、むざむざと悪の力に踏みにじられていくように見える。しかし、そうした祈りの道こそは、ヒルティの言うように、確実な勝利への道なのである。
これらはすべて、私たちの祈りが正しく流れていくよう、そしていつまでも祝福の流れとなり、周囲にもよきものをもたらすようにとの神のご配慮に他ならない。

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