リストボタン主はわが命、そして光   2006/10

この世には、光と命はどこにでもある。昼間は外は明るく太陽の光でいっぱいであるし、人間や動物など、そして植物のいのちは至るところにあふれている。目には見えないところでも、地中にも細菌という微生物たちのいのちが無数に活動している。
しかし、そうした目に見える世界から、心の世界に目を転じるとき、逆にいたるところに闇があり、生き生きした命、真実に生きている命は本当に少ないのに驚かされる。

光と命、それは目に見えるもの、また目には見えない霊的な意味においても、だれにとっても最も重要なものであるということはただちに分かる。そして光は、人間だけでなく、動物や植物にとっても、命と直結している重要なものである。
光なくば、植物は育たない。植物の緑の葉は、白色光の内、赤や青紫の光を吸収するから、緑色に見える。その光のエネルギーによってブドウ糖をつくり、それをもとにして、植物の細胞壁をつくり成長し、またさまざまの果実の甘さやデンプンなども造っている。
身近にあるコピー用紙や新聞紙などを見て、ここに太陽の光のエネルギーを感じる人は少ないだろう。しかし、紙の原料は木である。木は、その緑の葉のなかで、光合成によって水と二酸化炭素をもとにして、太陽光のエネルギーによって、水を分解し、そこでできた水素原子と二酸化炭素を構成する炭素と酸素を結合させて、ブドウ糖をつくり、そのブドウ糖分子を多数結合させて紙の本体であるセルロースが造られている。
私たちの食物はもとを正せば太陽の光のエネルギーによっている。
このように、目に見える世界において光はきわめて重要であることはすぐにわかる。光がなかったら植物の光合成は行なわれず、植物は成長することができない。人間の食物は相当部分が野菜、果物といった植物に由来するものである。牛や羊など動物の肉ですらも、さかのぼって考えると家畜が草やとうもろこしなどを食べて成長していくことによっている。植物に貯えられた光のエネルギーを私たちの体に取り入れて活動しているのであって、太陽のエネルギーで私たちは手足を動かし、考えたり行動したりしていると言えよう。
こうした太陽の光のエネルギーは絶大なものであることはすぐにわかる。それゆえに多くの国々では太陽を神として拝むことが行なわれてきた。日本も初日の出を見て、太陽を拝む人が多い。
しかし、聖書はそのような絶大なものである太陽の光が最初にあるのでなく、太陽や星の光よりも根源的な光があることを冒頭に示している。そしてその光こそが決定的に重要だと暗示している。
創世記では、太陽が第一に造られたのでなく、まず光が最初に創造されたとある。そしてその光こそがあらゆる存在の根源にあると言おうとしている。太陽や星、月なども、さきに創造された光を分け与えられて光っている、という。神は光を創造され、それを太陽や星など天体に与え、さらに霊的な光を人間にあたえようとされる。

聖書において、最初に混沌と闇、そして深淵があった。そこに第一の創造として光の創造が記されている。ここに神の本質がすでに表されている。神は闇と混沌のただなかに光を創造しようとするのが、その本性なのである。
この世はさまざまの悪がいたるところにある。私たちの心にすでに存在している。清い愛がないこと、正しいことを主張したり実行できないこと、自分中心に考えて行動してしまうこと、自分の感情に引っ張られて周囲の人に真実な愛をもって対処できないこと、そのようなだれの心にも生じる闇の部分が、膨らんでいくとき、それは大きな犯罪となったり、分裂、テロや戦争となっていく。
それがこの世なのだとあきらめる人が多数を占めているであろう。
しかし、そのような中で、聖書においては光を創造することが第一であったことの意味を考えたい。光は人間が努力して造り出すものでなく、闇のただなかに神ご自身が創造されるのである。
聖書全体がそうしたメッセージに満ちている。

エデンの園、それは創世記の二章において水の豊かに流れるところとして描かれている。そして水とは、命のシンボルのように用いられることが多い。これらのことを考えると、創世記の一~二章ですでに、光と命が与えられているのが分かる。
また、創世記一章には、神が光を太陽や星々に分かち与えることが記されている。太陽の光が地球上において、生物のエネルギー源になっている。私たちがこうして動き、考え、物事を処理していくことができるのも、そのエネルギーは太陽から来ている。
旧約聖書のヨブ記には、深い嘆き、苦しみがある。彼は突然、まったくの闇の中に突き落とされた。そこから必死に光を求めようとあえぎ苦しむ姿が描かれている。聖書の中では、ヨブ記においてとくに「光」という言葉が最も多く用いられているのはその恐るべき闇のゆえに、そこから光を求める切なる心が全体にあるからであろう。(*
どうして光を下さらないのか、ヨブの深い嘆きは、そのまま現代に生きる人々の嘆きと重なる。

*) ヨブ記 35回(口語訳36回、新改訳29回。)、詩編 32回(口語訳 28回、新改訳25回)、イザヤ書2223回 創世記4回(一章のみ)、出エジプト記 4回、レビ記 3回、申命記 1回、ヨシュア記、士師記共に 0。サムエル記は上下合わせて1回、歴代史上下も合わせて1回。エレミヤ書 4回、エゼキエル書4回、アモス書~マラキの小預言書を合わせて14回程。

このように、旧約聖書において、「光」という語は、ヨブ記が特に多く、詩編、イザヤ書と合わせて三つの書が群を抜いて多く現れるのが分かる。
ヨブ記のテーマは、神を信じ、神への畏敬を持ちつつ日々を過ごしていたにもかかわらず襲ってきた苦難についてである。ヨブは、七人の息子、三人の娘という豊かな祝福にも関わらず、神を忘れることなく、また神に背くことの罪の重さに鈍感になることもなかった。
また、息子たちが心のなかで、万能の神、正義の神などいないと思ったかも知れないことを思い、息子たちの罪を赦してもらうため、家畜などを焼いて神に捧げるという当時の儀式をおりにふれて行なっていた。そしてそのような罪を犯していたらそれを清め、赦されるようにと願ったのである。
そのように、信仰深い生活をしていたヨブに、誰一人想像もしなかったような事件が突然生じて、ヨブには激しい苦難が襲いかかり、財産も失い、子供たちも失った。さらに自分は 耐えがたい病苦にさいなまれ、妻からも「神をのろって死んだらいいのだ」とののしられる事態となった。
すると彼の妻が彼に言った。
「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」
しかし、彼は彼女に言った。
「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」
ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。
(旧約聖書・ヨブ記二・910

そのような状況に追い詰められてヨブは、それまでどんな苦しみに遭遇しても神から来たこととして甘んじて受けていたが、いよいよ体の絶えがたい苦しみに日夜さいなまれるようになって次のような激しい言葉を出すに至った。

やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、言った。
わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。
その日は闇となれ。神が上から顧みることなく
光もこれを輝かすな。
暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい。
密雲がその上に立ちこめ
昼の暗い影に脅かされよ。
闇がその夜をとらえ
喜びの声もあがるな。
その日には、夕べの星も光を失い
待ち望んでも光は射さず
曙のまばたきを見ることもないように。
なぜ、わたしは母の胎にいるうちに
死んでしまわなかったのか。
せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。(ヨブ記三・211より)

このように、闇、夜、暗黒、死、暗い影、といった様々の言葉がこれほど連ねられているのは聖書全体のなかでも、この個所だけである。自分が生れてきたことをこれほどまでに嘆き、のろい、叫ぶほど、ヨブの信仰が根底から動揺し、自分が何のために生れてきたのか、生きる喜びも信仰による心の平安もみんな失ってしまった一人の信仰者の赤裸々な姿がここにある。
これほどまでにこの世の現実の苦しみは不可解であり、また耐えがたいことが生じるということがこのヨブの叫びに表されている。
このようなこの世の闇は、どうしてそのようなことが生じるのか全く見当もつかない。真実なもの、清いもの、そして宇宙の創造主たるお方をみつめて、そのために生きてきたのに、どうしてこのような理不尽なこと、恐ろしい苦しみが襲ってくるのか、愛と正義の神、真実な神がおられるなどというのは、幻想にすぎなかったのか等々とつぎつぎと疑問がもたげてくる。それゆえに一層光を求める祈りは切実になる。
このような闇にかかわるさまざまの言葉が連ねられているのは、この世の現実の状況を見ると、こうした恐ろしい闇に包まれてどうしようもない人は数限りなくいるという実態が背後にある。
ヨブ記と同様に、旧約聖書の詩編にもやはり闇のなか、苦しみのなかに置かれた魂の叫びはたくさん含まれており、そのためにこれらの書物で、「光」という語が最も多く用いられていると考えられる。

その詩編のなかから、光を求め、神が光であることを確信する詩をあげてみよう。

主はわたしの光、わたしの救い
わたしは誰を恐れよう。
主はわたしの命の砦
わたしは誰の前におののくことがあろう。 (詩編二七・1

この世は恐れで満ちている。何が生じるかだれもわからない。病気や事故、家族その他における人間同士の争い、憎しみ、事件、戦争や自然災害などなど、どんな人でも、またいつの時代でもこうした予期しないことによっておびやかされている。
旧約聖書の詩編はそうしたさまざまの恐れのただ中から、神への切実な祈りが集められている。
ここにあげた、詩においても、恐れが取り巻いていることは、上の言葉のすぐあとに続くこの詩の作者の置かれている現状によってわかる。

悪をなそうとする者が迫り、私を食いつくそうとする。陥れようとする者、貪欲な敵対者、群がる敵、偽りのことを、私に関して言い広める者等々がいる(詩編二七の212節より)

このように、悪意をもって迫ってきて苦しめようとする闇の力に囲まれるなら、ふつうなら、そのような敵対する者たちに対して、人間的な敵意や復讐あるいは、恐怖の心で圧迫されるという状態になるだろう。
しかし、この詩の作者は、そのような人間的な袋小路に陥らなかった。もし自分が相手を憎しみや敵意をもって対するなら、自分はまさにそのゆえに闇に引き込まれ、敗北していくこと、滅びに至ることを知っていた。
そのようにこの詩の作者を支えたのが、神の光であった。
この詩の冒頭に、「主はわが光、わが救い、私はだれを恐れようか」という確信からはじまっているのは作者の心の内での激しい戦いを通しての確信なのである。憎しみや敵意という闇を受けて、自分も憎しみをもって返すなら、新たな闇を自分の内にまねき入れることになる。それこそが悪の力への敗北に他ならない。
そうした状況においての真の勝利の道は、ただ一つである。それこそは、神の光を受けることである。神の命を頂くことである。そのような光を受けることによって、恐れは消えていき、敵意や憎しみという闇のなかにひとすじの道があることを示される。そして神のいのちを受けることによって、そのような道を歩いていく力が与えられる
この道は、はるか後になって、主イエスが明確に指し示すことになった。

イエスは再び言われた。
「わたしは世の光である。
わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ福音書八・12

この主イエスの言葉も、すでに引用した詩編二七編の最初の言葉と同様に、光と命とが深くかかわっていることが示されている。
暗闇、すなわち敵意や憎しみ、ねたみ、疑いあるいは不安や恐れ、さらにいろいろの欲望に引っ張られて歩むという光なき道でなく、神の命と愛を頂いて、闇の力に縛られている他者のために祈り、いのちが注がれるようにと祈ること、それこそは闇のなかに輝く光に導かれて歩む道。
それが命の光であると言われていること、これにもさまざまの意味がこめられている。
私たちが真実と愛の神を信じないなら、この世の中には本当の真実や愛はない、結局は、悪の力が強いのだと信じることにつながる。そのような考えであれば、行き着く先は当然、善よりも強い悪に呑み込まれ、死に至り、滅びることになる。
しかし、いのちの光を信じることによって、私たちは、神からの愛を受けて、その愛を働かせることによって悪のなかを通り抜けて歩む道を開かれる。そして導かれていく。それは、最終的には神の命を受けることであり、復活の命が与えられることになる。
主イエスはそのような命の光を与えられる道を私たちに指し示して下さっているのである。
聖書の詩編には、光に満ちた詩が多くある。その中に書かれている詩の内容は、単に人間の個人的な悲しみや苦しみを歌ったのではない。それだけなら、私たちにはその悲しみや苦しみに共感して、ともに悲しみや苦しみに浸るだけで、そこから立ち上がる力を与えられることはない。日本の万葉集や古今集その他の歌集は古い時代から流れている日本人の心の世界を知るために不可欠の詩集である。それらによって、私たちは古代人の心にある繊細な感情やゆたかな表現を知り、私たち自身の心の感性を養う一助にすることができる。
しかし、それらによって深い悩みや絶望から救われた、といった人がどれほどいただろうか。それらの歌自体がそうした救いや光を知らない人達の作品なのであるから、それを読む人達が絶望から救われるというようなことが起こりそうもないのは予想できる。
しかし、聖書の詩は、全くそれらと異なる本質を持っている。それは個人の心の苦しみや悲しみ、叫びあるいは神への讃美などでありながら、それがその背後に神の愛や真実、力を感じさせ、神がその背後で語らせているのを実感し、神がそれらの詩の作者を通して語りかけているのがわかる。すなわち、旧約聖書の詩(詩編やイザヤ書、その他の預言書などに多く含まれる詩をも含めて)は、神からの永遠の真理のメッセージなのである。
こうして見るとき、次の詩編は最も有名なものであるとともに、神の光と命をたたえたものであると気付く。

主はわが牧者、私には欠けることがない。
主は私を緑の牧場に伏させ
憩いの水際に伴われる。
そして魂を生きかえらせて下さる。
主は御名にふさわしく、
私を正しい道に導かれる。
死の陰の谷を歩むとも、
私は災いを恐れない。(詩編二三・14より)

冒頭の短い言葉がこの詩のすべてを凝縮したものである。主は私の牧者である。それゆえに私は欠けることがない、という。これは、すでにあげた詩編二七編の最初の言葉と共通するものを持っている。
「主はわが光である」ということは、この第二三編の「主がわが牧者である」ということと同じような意味になる。光であるからこそ、人間的な憎しみや絶望、敵意などという闇の道に迷い込むことなく、神の国への道をその光に導かれて歩むことができる。それは、「主はわが牧者」であるということである。
「私の命の砦である」ということは、主が、憩いの水際に伴って、緑の牧場にて食べさせて下さるということに対応している。そして、このあとに続く、「死の陰の谷を歩む」という状況は、詩編二七の著者が敵意のただなかを歩むということに通じる内容となっている。

神からの光こそは、私たちが正しい道を歩むときの導きとなることは、キリスト教の古典として有名な、バンヤンの「天路歴程」にもみられる。この本の最初のところで、自分の魂にどうすることもできない重荷を感じて、そのままでは滅びてしまうことを強く感じていた一人の人間が現れる。彼は、救われるためにはどうしたらいいのだろう、と真剣に求める。そのとき、一人の伝道者と出会い、助言を与えられる。

伝道者「向こうのくぐり門が見えますか。」(*
男は言った、「いいえ」。
それから相手が言った、「向こうの輝く光が見えますか。」(**
「見えるように思います」と彼は言った。
そこで伝道者は言った、「あの光から目を離さないで、まっすぐにそこへ登っていきなさい。そうすればその門が見えるでしょう。そこで門をたたけば、どうすればよいか聞けるでしょう。」(「天路歴程」42頁 新教出版社刊)

Do you see yonder wicket-gate? The man said,No. Then said the other, Do you see yonder shining light ? He said , I think I do. Then said Evangelist, Keep that light in your eye, and go up directly thereto:so shalt thou see the gate; at which when thou knockest,it shall be told thee what thou shalt do.

(原著者のバンヤンによる引用聖句)
*)「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ七・1314
**)あなたの御言葉は、わたしの道の光、 わたしの歩みを照らす灯。(詩編一一九・105


この助言を受けた男は、落胆の沼に落ち込んだり、さまざまの不安や誘惑にさらされ、道をはずれたりしつつも、かろうじてその門のところに達することになる。そしてそこで新たな導きを受けて狭いがまっすぐな道を歩んでいく。そうして様々の困難を乗り越えて、キリストの十字架へと導かれていく。そしてその十字架をみつめることによって長く苦しんできた重荷が落ちてなくなってしまうのを経験したのであった。
このように、人間が正しく道を歩んでいくには、前方の光をみつめていくことが出発点にある。十字架によって重荷を除かれた後も、やはり前方には光がある。いろいろな疑いや困難、弱さなどが打ち倒そうとすることがある。しかし、そのような闇のなかにも、一度神とキリストを信じて歩み始めたものには、どこか魂の奥に一つの光るものを感じることができる。
著者のバンヤンは、前方に輝く光の関連個所として、「あなたのみ言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯」という詩編一一九編の105節を引用している。この聖句は、讃美にも取り入れられ、多くの人に愛されてきた言葉である。天の国を目指して歩むものにおいては、キリストを信じたときから魂の奥の一点で光り続けているその光をどんなに苦しくとも、見つめ続けていくことが求められている。

聖書の巻頭に、神の光が射してくると、混沌が変えられ、闇が失せていくことが記されている。
たしかに天よりの光は、私たちの心にある汚れたものを、吹き去らせる力を持っている。使徒パウロの劇的な回心は、まさにそうであった。律法とユダヤ人としての誇り、伝統、みずからの人間的な思いなどなどが混沌として混じり合っていた。そしてキリスト者をどこまでも迫害していくという闇があった。しかし、キリストの光が突然射してきたときから、そのような混沌がみるみるうちに整然とした世界へと変えられていった。そして彼の前途には、キリストという命の道がまっすぐに神の国に向かって続いているようになった。
パウロにあっては、神からの光は、そのまま新たな永遠の命を与えられることと結びついていたのである。 そしてこのことは、主イエスが、「私に従ってくる者は、命の光を持つ」(ヨハネ八・12)と言われたように、パウロだけに限ったことでなく、イエスを信じ、従っていこうとするものすべてに約束されたことなのである。
そして、神を信じ、キリストが私たちの罪を赦し、永遠の命を与えて下さるお方であると信じることによって最終的にこの世の闇から私たちは解放されることが約束されている。
新約聖書に最も深いつながりのある旧約聖書・イザヤ書の後半の部分に次のような個所がある。

太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず
月の輝きがあなたを照らすこともない。
主があなたのとこしえの光となり
あなたの神があなたの輝きとなられる。(イザヤ書六〇・19

このような深い意味をたたえた言葉が、今から二五〇〇年ほども昔に語られていたことに驚嘆させられる。神ご自身が、あの絶大な光を持った太陽すら及ばないような光となられるという。それほど神の光はまぎれもないもの、決して消えることのない永遠の輝きをもったものとなるというのである。
歴史や科学、政治経済や教育などのあらゆる方面において、世の中の考えで突き詰めていけば何か薄暗いもの、闇の力が働いているようなものを感じざるを得ないのであるが、それとはいかに大きく異なっているかを知らされる。宮沢 賢治の「銀河鉄道の夜」という作品は有名であるが、そこには何か悲しい雰囲気と暗いものが立ち込めている。主人公のジョバンニとカンパネルラの二人が乗った銀河鉄道の旅の終りのところで、次のような個所がある。

「あ、あすこ石炭袋だよ。空の孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。
ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川の一(ひと)とこに大きなまっくらな孔(あな)がどほんとあいているのです。
その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云いました。
「僕もうあんな大きな暗(やみ)の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。
ジョバンニはまるで鉄砲丸のように立ちあがりました。そして誰にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。 もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。

ここでジョバンニは目を覚ます。(そしてその後、カンパネルラは友を助けようとして自ら溺れて行方不明になったことが続いている。)
この銀河鉄道の旅の終りにこのような、前方に果てしないまっ暗な深い闇があるのが示されている。その闇を見つめようとしたら目がしんしんと痛む、という。これはこの世の闇のことを考えていたら、胸をさすような痛みがあるということを暗示するものである。
そしてジョバンニがそんな闇はこわくない、どこまでも一緒に行こうと友達のカンパネルラに語りかけたが、そのカンパネルラは突然消えてしまい、ジョバンニは一人ぼっちになる。その孤独に激しく泣き始めた、そこらがまっ暗になったような気がしたというので、銀河鉄道の旅が終わっているのは、象徴的である。
どんなによいことを考えてもどこか前途には暗いものがあり、どこまでも一緒にいて共に進みたいと思っていてもそれが引き裂かれ一人になってしまう、といった淋しさ、この世の悲しさがこの物語には漂っている。
ここにははっきりした光がないのである。日本の文学には夏目漱石とか森鴎外、芥川龍之介といった人達の作品においても、やはり闇に輝く光というのがない。私自身中学から高校時代に漱石とか森鴎外などの作品を次々と読んでいったがまったく光は与えられず、かえって漱石の晩年の作品になるにつれて重苦しい雰囲気がたちこめていて、何等力も光も与えられなかったのを覚えている。

それに対して、聖書にはさきほどあげたイザヤ書の個所など、なんと聖なる光に満ちていることであろう。そこには永遠の光がしずかに射しているのを実感させるものがある。こうした光を受けているからこそ、ダンテの名作の神曲では、地獄篇、煉獄篇、天国篇の三つの大きな内容の最後にすべて、永遠の光を象徴する「星」という言葉で終えられているのである。(*
私たちがたとえ地獄のような苦しみや闇の中に置かれることがあっても、なお、そこから出てくるときには前方の高みには永遠の光が輝いていることを指し示すものとなっている。
それはまた、すでに述べたように、「天路歴程」の著者のバンヤンがその著のはじめのほうで、前方に輝く光を見よ、との勧めを書いているのとも共通している。
創世記の最初に、そのような闇に勝利する光の創造がこの世への宣言のように記されているし、新約聖書で最後に書かれたヨハネ福音書にも、その創世記の記事と並ぶように、闇に打ち勝つ光が存在することが、冒頭に記されている。
聖書全体の基本的メッセージが、ここにある。
これこそ、ますます闇の力が押し迫るように思われる現代への福音なのである。

*)日本語訳では、「星」が最後にならないが、原文では次のように、星 stelle が最後に来る。 参考のために、イタリア語の原文と英語訳(J.D.Sincleir訳)、原文の逐語訳などを付けておく。なお、イタリア語の星(stelle)は、ラテン語のstella が語源になっている。ギリシャ語では、星のことを asterとか、 astron という。これらは英語の star という語の語源にもなっている。

・(地獄篇の最後の行)そして私たちは外に出て、ふたたび星を見た。
(原文)E quindi uscimmo a riveder le stelle.(逐語的な訳そして、出た、ふたたび見る、星)
・(英語訳)and thence we came forth to see again the stars.

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・(煉獄篇の最後の行)清められ、星々をさして昇ろうとしていた。
(原文)puro e disposto a salire a le stelle.(清い、準備できている、上る、星)
(英語訳)pure and ready to mount to the stars.

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・(天国篇の最後の行)愛、それは太陽と他の星々を動かす
(原文)l'amore che move il sole e l'altre stelle. (愛、動かす、太陽、他の、星)
(英語訳)the Love that moves the son and other stars.


次の言葉は、聖書の最後の巻である黙示録の終りに近いところに現れる言葉である。

もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。
神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。(黙示録二二・ 5

これは、すでに述べたようにこの黙示録が書かれるより五〇〇年以上前からすでにイザヤ書によって記されており、神の啓示が一貫してこのことを人間に告げようとしているのがうかがえる。
ここに、「主はわが光、そして命」ということが完全に実現された状況が啓示として記されている。目に見えるところをみていたら、どこに光があるのか、朽ちることのない命などどこにあるかと思われるであろう。しかし、私たちが信仰の目をもってこれらの聖書の言葉を読むときには、たしかに、すでに現在においても、万能の神とキリストこそが永遠の光で私たちを照らしているのを感じることができるし、世の終わりにおいてこのことが完全なかたちで実現されるのを信じることができる。


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