秋の山 2006/11
中国山地を車で南下していたとき、周囲の山全体に広がる鮮やかな黄葉、紅葉に心動かされた。前方の全体に巨大なキャンバスがあるかのようであって、そこに見えざる手によって創造され、描かれた一大芸術が次々と現れた。
夏には緑一色であったはずの樹木の葉は、茶褐色や黄色、赤色などさまざまの色合いとなっていた。神の御手に触れるとき、無数の木々の葉があのように変化ある色彩となる。人工的な杉の植林がないところでは、かくも美しい秋となるのかと驚かされる時となった。
人間も、ひとたび神の御手が触れるなら、その折々に多様な輝きと色合いを持つ存在となるのだろう。
生きている人のために
自らの命を断つ子供たち、亡くなった子供に手を合わせる姿がよく報道される。しかし、死んだ者に手を合わせ、祈るとももはや帰ってくることはない。
祈りの心、祈りの手は、生きている人間に向けられねばならないのである。
いじめを受けている人、いじめをしている人の双方に対して、彼らの心が支えられ、また悪しき心がなくなるようにとの、祈りの手と心が向けられることこそが、必要なのである。
今日の学校において、目先の成績をあげることばかりであって、祈りの心が全くない。祈りの重要性など教えられることは皆無なのである。
しかし、祈りなくば、人間の心は静まることがなく、人間を超えた存在からの力を受けることもできないのである。