ことば 2006/12
(249)神の愛の種から
この世に、真実にまさって確実なものがあろうか。 救世軍はただ、世の中の貧しく、あわれな人々を助けたいとの一念から、生れたものである。救世軍は造り出したものではなく、進化してできたものであり、また成長したものである。
救世軍(*)は、ただその初めは、私の小さい胸の中に置かれた、神の愛と名付ける種子が成長し大きくなったものに過ぎない。(「ウィリアム・ブース」36P 山室武甫著 玉川大学出版部)
・主イエスが、種まきのたとえで言われたことが、実現している例の一つであるが、このように広く知られるようになったことだけでなく、あらゆる真によきことは、そのたとえで言われていて、ここでもブースが述べているように、一人の小さな胸の中に蒔かれた神の愛という種から始まる。
そのことは、私たちを励ます真理となっている。 能力とかお金、あるいは人間などから出発するのでなく、どんな状況であれ、神の愛の種はいかなる人の胸にも蒔かれ得るのであり、そこからたえずよきものが成長していくと約束されているからである。
(*)救世軍は、一八六五年にイギリスのメソジスト派の牧師、ウィリアム・ブースと妻キャサリンによって、ロンドン東部の貧しい労働者階級に伝道するために設立された。当初は「キリスト教伝道会」と称したが、キリスト者とは目に見えない悪との霊的な戦いに召された兵士であるという聖書の教えによって、一八七八年に「救世軍」と改称した。
現在では、救世軍はイギリスで政府に次ぐ規模の社会福祉団体であり、伝道事業とともに、百十一の国と地域で一万二千ヵ所近くの社会福祉施設、教育機関、医療施設を運営する、キリスト教(プロテスタント)団体となっている。)
ヒルティも彼と同時代に生れたこの救世軍をいち早くその真価を認めて、その著書でもしばしば触れている。
なお、創始者のウィリアム・ブースは、救いについて 「我々は主張する、主イエス・キリストにより、信仰、希望および愛は、何らかの決まりや洗礼などの儀式などの有無にかかわらず、人を天国に送る。」と述べている。これは、ローマ書、ガラテヤ書などに強調されている、「人が義とされるのは、信仰による」や、「尊いのは愛によって働く信仰である。」(ガラテヤ書五・6)、「割礼の有無は問題でない。ただ新しく造られることこそ、重要なのである」(同六・15)、「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなた方はまもなく聖霊による洗礼を受ける」(使徒一・5)などに根拠をもった主張であり、この聖書的根拠と、禁酒をとくに強調してアルコール中毒から立ち直ろうとする人への誘惑とならないために、そして形式主義に流れることを排するために、救世軍では、水の洗礼、ぶどう酒を使う聖餐などの儀式は行なわない。
ブースは、「救世軍に属する人は、あらゆる点で宗教的でなければならない。彼がとるすべての食事は一つの礼典であるべきである。そしてすべての思想も行いも、神に対してなされる働きであるべきである。」と述べている。(同書一三〇頁)
(250)主イエスが祈って下さる
時間になっても祈りに集中できないとき、簡単な解決方法があります。
私の心の中におられるイエス様に、どうか、私のために祈って下さい、私の心の静けさの中で、どうか天のお父様にお話しください、とお願いすればよいのです。
(あなたが神に)話すことができないときは、イエス様が私のために話して下さいます。祈れないときには、イエス様が祈って下さいます。ですから、私たちはこう言うのです。
「私の心におられるイエス様、私はあなたの真実な愛を信じています。」(「マザー・テレサ 日々のことば」五四頁)
When the time comes and we can't pray, it is very simple : if Jesus is
in my heart let him pray,let me alow him to pray in me,to talk to his Father in the silence of my heart. if I cannot speak,he will speak for me; if I cannot pray, he will pray. That's why we say :
"Jesus in my heart , I believe in your faithful love for me."(「THE JOY IN LOVING」98P)
・私たちが祈れないときがある。心が重く、あるいは魂の疲れや動揺のために祈る心すら失いそうになることがある。そのような時に、私たちの意志や気持ちに頼るのでなく、主イエスに頼ることができる。主イエスご自身、弟子たちのために祈った、と記されている。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」
(ルカ二二・32)
キリストは完全な愛のお方であるゆえに、私たちが霊的に立ち上がれないような時にこそ顧みて下さる。キリスト者同士でも、祈られ、祈る関係であるなら、主イエスも私たちのために祈って下さることを信じることができる。
日常のいろいろの心にかかることも主イエスに委ねるように、祈れない私のために祈って下さい、と委ねることができるのも大きな恵みである。
(251)奇跡
驚くべきこと、救いへと召されたことは。
心が揺るがないのは、ただ奇跡による。
夜から光にいたる道は
すべての段階が奇跡に満ちている。
(ヒルティ著 「眠られぬ夜のために」第一部 12月20日の項より」)
Wunderbar zum Heil berufen,
Nur durch Wunder wankst du nicht;
Wunderbar sind alle Stufen
Auf dem Weg von Nacht zum Licht.
・この短い詩において、原文では「驚くべき、奇跡のような」という意味の wunderbar や、その名詞 Wunder(英語の wonder に相当するドイツ語) が三回も用いられている。それは私たちが個人的に神から呼ばれ、救いへと導かれたことは、奇跡としか言いようのないことと実感するからである。
いろいろこの世には、次々と心を暗くするような意味での驚くようなことが生じる。しかし、一度、魂の深いところで、ここに言われているような「驚くべきこと、奇跡」を体験した者は、周囲でのどのようなことが生じても、動かされなくなる。それは、人間の意志の力とか学識や経験などから来るのでなく、この詩が言っているように、やはり神の力による支えであり、「奇跡」なのである。
さらに、私たちがかつての闇の生活から、こうした光ある世界へと導かれたこと、そしてその歩みの一つ一つに、神の御手が働いていることを実感するゆえに、奇跡だと感じる。