すべてに打ち勝つもの 2007/1
この世ですべてに打ち勝つようなものが一体あるのだろうか。金の力は、長い年月を歩んできた会社をも買収したり、倒れさせることもできる。強大な国家権力は、その武力やエネルギーをもってすると、個人や人間の集団はもちろん、一つの国家すらも打ち倒すこともできる。
また、どんな人間も金属の小さな砲弾によって一瞬にして命は奪われるし、強健な人間も見えないウイルスによって簡単に倒れることもある。
このように、この世には数々の強力なものが常に私たちの前にニュースなどによって現れてくる。
こうした状況にあって、このような力あるすべてのものに打ち勝つものなど、到底あり得ないというのが、多くの人の実感であろうし、そもそもそんなものがあるなどと考えることもしないだろう。
しかし、こうした風潮のただ中にあって、「愛はすべてに勝つ」という言葉が知られている。
この言葉は、いろいろな意味に取られている。この世で流行するような歌謡でも、この類の言葉はよくある。しかし、それは何となく若い人の一時の感情を歌ったものにすぎないものがほとんどである。
大多数の人は、すべてに勝つような愛など経験したことがないからであるし、そんなことを歌などでだれかが歌っていても、そのようなありそうもないことを歌っているだけだと、聞き流すだろう。
私自身、このような言葉は口にしたこともなかったし、愛などについて議論する気持ちにもまったくならなかった。愛については、議論や話し合いなどなくとも、だれでも分かっていること、そんなことを口に出して言うことなど、気恥ずかしい感じであった。
しかし、後になってわかったことであるが、分かっていると思い込んでいたのは、実は本当の愛でなく、愛の影に過ぎないものであった。そのことを初めて知らされたのは、二十一歳のころであった。影というのは、実態があって、その実態から生じるものである。それならこの世にいう愛の本当の実態は何なのか、ということになる。
このような、何が本当に存在するものなのか、私たちが本当と思っているものは、実は影のような実体のないものではないのか、といったことは、すでに今から二四〇〇年ほども昔に深く考えられていた。
プラトンの主著である「国家論」の第七巻に洞窟のたとえというのがある。
それは次のようなものである。
人間は、子供の時からずっと洞窟のような、深いところに手足も首も縛られたままで囚人となっている。そこから動くこともできないし、洞窟の奥の方だけしか見ることができないようになっている。縛られているために、頭を後ろに向けて、洞窟の入口の方も見ることができない。
その洞窟の入口の方向、高くて遠いところには、火が燃えていて、彼らを照らしている。人々は、火の光と反対方向だけを見て過ごしている。彼らと光との間には一つの道があって、そこを通るものの影が、洞窟の奥に写っている。彼ら囚人たちは、その影を真実なものと思いこんでいる。
しかし、彼らのうちのある人がその束縛から解放されて、洞窟の上方に上がっていき、影でなく火の光そのものを見るに至ったとき、それまで真実だと思っていたのが実は影であったとわかる。そこで、そのことを知らせようと洞窟に降りて行く。そしてまわりの人々にあなた方が見ているのは実は影にすぎないのであって、真実の光は上方にあるといって誤りを正そうとすると、周りの人々はそれに怒り、何とかして殺そうとする。(「国家」下巻
プラトン著 岩波文庫版 九四頁~)
このように、人間とは、囚人のようなものであって、子供のときから影しか見えないようになっている。しかし少数の人がそこから解放されて真実の実態を見ることができるようになる。しかし、この世の人たち、影が本当のものだと思い込んでいる人たちにとっては、自分たちが大事だと思っているものが、影に過ぎないと言われるとそのように言う者を憎むようになって殺そうとまで考えるようになるという。
ここには、聖書で言われていることと共通点がある。聖書では、人間とは、罪の奴隷であること、罪の力に縛られていることが基本的なことである。
…イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(ヨハネ福音書八・34)
…しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。(ローマの信徒への手紙六・17~18)
このように、人間はどうしても、真実や正義、純粋な他者への愛には生きることができず、自分中心になる。それを罪というから、人は罪に縛られた奴隷なのである。
プラトンは、この世においては、影の動向に関して、何が先に行くのか、どれがその後に来るのか、何が同時に進むか、といったことを多く知って、それに基づいてこれから来ようとするものを推測する能力をもっているものに、特別な栄誉が与えられるようになっていると記している。
すなわち、この世の出来事、経済や政治、人間の趣味、好み、などこれらがどのようであるか、それを巧みに読み取って予見していく、テレビ、パソコンや各種ゲーム機器、その他や数知れない娯楽施設、会社の経営や政治家、このごろの株式などで収入を得るといったことは確かにそうした本質を持っていると言えよう。
科学技術も同様で、事物の相互の力やエネルギーの関係を鋭く見抜いて、そこから法則を見出し、それを巧みに用いて、それから何が生じるか、どんな便利なものが造れるかを洞察していく、そして実際に創り出すことであるから、これらもプラトンが言っていることに含まれる。そしてそうすることに秀でた者が、政治、経済や文化的方面で業績をあげることになり、この世の栄誉を受けるようになる。
しかし、ひとたびこの世の現象が、影に過ぎないものであって、その背後に変ることのない実体、光そのものを知ったものは、この世のそうした栄誉や権力をほしがったり、妬んだりすることはなくなる。そして昔の影を相手の生活に逆戻りするくらいなら、洞窟から出て光を受けつつ、他人の農奴となって貧しい人のもとで仕えることでも、あるいは、その他、どんなひどい目にあうことでも、その方を切に求めるようになる、と述べている。
このように、真理そのものを見出すときには、自ずからこの世のものが自然に不要となっていく、というのは、聖書にも次のよく知られたたとえがある。
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。
見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。(マタイ福音書十三・44)
主イエスが、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ福音書二四・35)と言われたこと、この永久的と思われる天地も滅びる、と言われた。確かに太陽ですら五十億年もすれば、寿命を終えると言われ、地球の寿命はもっと短いと考えられている。
きわめて長いと言えるが、結局は消えていく。そういう意味では、たしかに目に見えるどんなものも影のようにいつかは消えてしまうものである。
この、最終的には消えていく「影」だけしか知らないなら、私たちの生きる意味もわからなくなってしまう。みんな消えていくのであるから、当然の帰結となる。しかし、いかなる状況においても影ではあり得ず、滅びないものがある。それこそ、天地創造された神であり、その神のご意志の現れである神(キリスト)の言葉なのである。
最も重要な、「愛」についても、罪に縛られたままであるから、プラトンのいうように「影」でしかないものを、本当のものだと思い込んでしまう。
愛にかぎらず、正義や真実、美しいものなど、この世界で見聞きするものはいずれも、もろさ、はかなさを持っている。何かあるとすぐに壊れ、消えていく。そうした意味で確かに「影」のようなものである。
どんな人でも、幼な子、また死の間際の苦しむ人、高齢の人、また貧しい人や裕福な人を問わず愛に敏感であって、たとえそれが影のような、この世の愛であっても敏感である。
この世にある、空や草木、山川などの自然は、それらも最終的には消えていくものである。しかし、神はそうしたものを用いて、消えないもの、滅びないものを常に指し示している。人間が自然に与えられている、親子、友人や男女などの愛もそこにとどまることなく、そこからその背後にある神の愛へとまなざしを向けるようにとの神の配慮なのである。
そしてそうした人間の愛がほとんど与えられないような孤独や貧困にある人たち、親から棄てられたよう人でも、神の愛だけは知ることができるようになっている。
そのことからすれば、その影の本体である、本当の愛は、どれほど力を持っているかと思わされる。
ヒルティは、神からの愛こそは、あらゆるものに打ち勝つ力を持っていることを、確信をこめて次のように述べている。
…愛をもってすれば、あらゆるものにうち勝つことができる。愛がなければ、一生の間、自己とも他人とも戦いの状態にあり、その結果は疲れ果ててしまい、ついにはべシミズムか人間嫌いにさえ行きつくほかはない。
しかしながら、愛の実行はつねに、初めそれを決心するのはむずかしく、やがて神のみ手に導かれてそれを行いうるまで長い間たえず習得すべきものであって、愛は決してわれわれにとって自然に、生まれながらに備わっているものではない。
ついに愛をわがものとした人には、他のいかなるものにもまして、より多くの力ばかりか、より多くの知恵と忍耐力をも与えられる。なぜなら、愛は永遠の実在と生命の一部分であって、これは、すべての地上のものとちがって、老朽することがないからである。(「眠られぬ夜のために」第二部
一月九日)
(次の原文は、始めと最後の部分)
Mit Liebe ist alles zu uberwinden,ohne dieselbe befindet man sich lebenslang in einem Kriegszustand mit sich und andern,…
Denn Liebe ist ein Stuck ewigen Wesens und Lebens,das nicht altelt,wie alles Erdische.
ここで彼が強調しているように、彼が言う愛は、人間が自然に持っている親子愛、友情、異性への愛などを指しているのではない。それは神のものであり、神ご自身の一部であるゆえに、私たちが神を信じて受けなければ与えられないものなのである。
この神の愛を受けることによって、私たちは過去の罪の重荷、そして現在のさまざまの悩みや苦しみ、そして将来に必ず来る死に対しても打ち勝つことができる。キリスト教の中心である、キリストの十字架による罪のあがない、赦し、復活、そして再臨といったことはすべて神の私たちへの愛からなされることなのである。