リストボタンアメイジング・グレイスー 驚くべき神の恵みー    2007/2

この有名な讃美歌の中心にあるのは、神の恵みということである。日本語では、恵みといっても、雨が降ると恵みの雨、恵まれた境遇とか、健康に恵まれた等々ごく普通に使われているために、特別に深い意味を感じることはない。
しかし、キリスト教における「恵み」ということを、近年において広く世界に知らせることに大きな役割を果たしてきたのは、論文や解説文などでなく、意外なことであるが、アメイジング・グレイスという一つの讃美歌であった。

恵みとは何か
聖書でいう「恵み」とは、英語ではgrace、聖書に現れる原語(ギリシャ語)では、カリス (ca,rij)である。
この言葉は、通常の日本語の恵み、とは大きく異なる深い意味をたたえている。それは、とくにこの恵みを最も深く体験したといえる使徒パウロが書いた手紙によって知ることができる。パウロは、キリスト教徒を迫害する中心人物であって国外にまで、キリスト者を迫害して追跡し、捕らえていたほどの人物であった。
しかし、突然その迫害に向かっているさなかで、復活のイエスにとらえられ、キリスト者たちを迫害してきた罪を赦され、キリストの福音を宣べ伝える最も重要な人物となった。文字通り一八〇度転換させられたその生涯は、まさに神の恵みによって変えられ、導かれたのであった。
彼が書いた手紙が、聖書すなわち神の言葉として二〇〇〇年の間、ほかのいかなる人間よりも世界に圧倒的な影響力を持ってきたのは、神の恵みがそのようになさしめたのである。
パウロは生まれつき家柄もよく、能力に恵まれ、特別な教師についてユダヤ人の宗教を学んでいた。そのような恵まれた状況にあったにもかかわらず、キリストのことには全く目が開かれず、キリスト者こそ、ユダヤ人の長く信じてきた信仰を覆すものだとしてキリスト教徒を迫害することを真剣に行なっていたのである。
このことを見ても、生まれつきの能力がどんなにすぐれていても、また家柄や育った環境がよくても、キリストの真理を受け入れるとは限らないのが分かる。
キリストの生きて働く真理を受け入れるためには、まさに人間の努力や能力でなく、神の一方的な恵みが不可欠なのである。
聖書、キリスト教で言われる「恵み」とは、このように、それを受ける値打ちがないのに、一方的に与えられる神からの賜物を指している。

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。(エペソ書二・8

このパウロの言葉は、キリスト教信仰において、「恵み」と「信仰」という二つのことが持っている深い意味とその関わりを簡潔に示している。キリスト(神)は、人間を救おうという愛のお心を持っておられ、一方的に罪の赦しや愛、いのちを注いでおられる。それは主イエスご自身が太陽にたとえられたように、人間の側で気付かずとも絶えず注がれている。私たちがそのような神のよき賜物を受ける値打ちもないのに注がれているのである。
その恵みを受けるには、人間の側からはただ「信仰」のみでよい、というのが、キリストの福音であり、キリスト教信仰の中心なのである。
キリスト者の信仰とは、自分はそのような神からのよきものを受ける資格など全くない、それどころか神の真実に背くような罪を犯してきた。それにもかかわらず、神がこの世のあらゆるものにまさる天の賜物を与えて下さった、という実感なのである。
これが使徒パウロという人間の根本にあったのは、彼の書いた手紙によってはっきりと知ることができる。
パウロは、その手紙のなかで、この恵み(xaris)という語を、およそ百回ほども用いている。ローマの信徒への手紙だけでも、二十回以上用いているほどに、彼にとってはその信仰の中心をなす用語であった。
それゆえ、その手紙のはじめにそのことをほとんど常に次のように祈って書き始めている。

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。(ローマの信徒への手紙一・7

自分が受けたのは、神とキリストによる一方的な招きであり、罪の赦しであった。そこから神とキリストとの深い霊的な結びつき(平和)が与えられたというのがパウロの生涯を貫く実感であったからである。
そしてこの恵みという原語は、カリス(xaris)であるが、これは、喜ぶ(カイロー xairw)と語源的に同じなので、この恵みという言葉に、主にある喜びをも込めて用いていると考えられる。
この世界には、健康の恵み、家庭の恵み、それどころか日常の食物の恵み、病気のときの治療の恵みすら受けられない人たちがたくさんいる。飢えのために死にかかっている人たちが何億もいる現状、あるいは、毎日寝たきりという困難な生活の中に置かれている人たちにとって、この世の普通の恵みというものからは見放されていると言えるだろう。
しかし、聖書にいう恵みは、そのような人たちに対しても与えられる恵みなのである。この世のどんな壁をも越えて、与えられ、注がれるといった性質のものなのである。
死んだも同然の者が生かされ、過去に深い罪を犯した者、日常的に罪を犯してきた者も赦しという恵みを与えられ、あらゆるよきものを失い、希望を失った人も生かされる、そして死という一切を呑み込んでしまう力にも打ち勝って永遠の命を与えられる、それがこの恵みの内容となっている。
人間にとって、神からの恵みがいかに大きいか、そのことを、使徒パウロは、次のように述べている。

あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた。
私たちも皆、以前は欲望の赴くままに生活し、行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者であった。
しかし、憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、
罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、あなたがたの救われたのは恵みによるキリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さった。
こうして、神は、キリスト・イエスにおいて私たちに示された慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされた。(エペソ信徒への手紙二・18より)

人間は力強く生きている者、活躍している人はたくさんいると思われるのに、なぜパウロはこのように、「あなた方はかつては死んでいた」というような表現をとっているのだろうか。このような箇所を読みたくない、あまりにも極端な表現だと思う人は多いだろう。
これは人間の心のすがたを、神の清い真実なあり方と比べるときに初めて分かることであり、人間だけを見ているのなら、いくらでもよい人、活発に活動していると思われる人はいるので、この箇所のように、「以前は罪のために死んでいた」などというのは全く的外れだと思うのである。
しかし、もし、神の徹底した真実や無差別的な愛と比べるとき、人間の一体だれが、そのような真実や愛を持っているだろうか。どこにそのようなことを日夜心においても、実際の行動においてもなし続けている人がいるだろうか。そもそも、私たちは本当の正しさや愛すらわからず、自分の利益や自分が認められるようなことをどうしても考えてしまうような存在でしかない。
使徒パウロすら、次のように告白している。

わたしは、自分のしていることが分からない。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをしているからだ。
わたしは、自分の内には、善が住んでいないことを知っている。善をなそうという意志はあるが、それを実行できないからである。
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
わたしはなんと惨めな人間なのか。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるだろうか。(ローマの信徒への手紙七・1524より)

このように、私たちの心のあり方を神のみ前に置くときに初めて、自分が本当によいことをできない、力のない者、そういう意味で死んだような者であることがはっきりわかる。
このような状況から何が、救い出してくれるのかということは、魂の最も奥深い出来事である。 それは、いかなる学校教育や経験、生れつきの性質や家柄、あるいは環境などによってもどうすることもできないことなのである。
この不可能を可能にしたのが、神の恵み、キリストの十字架による恵みであり、キリストの復活なのであった。
このような背景を考えるとき、パウロがなぜ、その手紙のなかで、百回ほどもこの「恵み」(カリス)という言葉を使っているかが、浮かびあがってくる。
このように、使徒パウロはみずからの命をかけて、彼の受けた「恵み」を伝えようとした。
その彼の祈りと行動は、彼の受けた啓示が聖書となって、世界に永遠に伝えられることとなった。
こうした恵みを受けた人が、キリスト者であり、この二千年間に、同様な経験を世界中の無数の人たちが与えられてきたのであった。私自身も人生の決定的な体験として、まさにこのキリストの恵みを若き日に与えられた一人なのである。
この恵みの経験は、多くの分野へと広がって行った。アウグスチヌスのようなキリスト教思想家、ダンテのような大詩人、アッシジのフランシスコのような特別に清められ神のしもべとされた人、ザビエルのように、宣教師となってすべてを捨ててこの福音の恵みを伝えようとした人、等々。

アメイジング・グレイス
そして音楽の世界でも、この恵みをまざまざと体験した人がキリスト教音楽を次々と生み出して現在も無数の人々の魂をうるおし、キリストの恵みを霊的に実感させる助けとなっている。
そのなかで、現在広くキリスト教と関わりない人たちにまでこの恵みをテーマとした讃美歌が親しまれるようになっているのがある。それが、「驚くべき恵み」(讃美歌21・四五一番、新聖歌二三三番など)すなわち、アメイジング・グレイスである。
この讃美歌は、現在のアメリカの数多くの賛美集、ルター派、カトリック、改革派、長老派、バプテスト派、メノナイト・ブレズレン、聖公会、メソジスト派、無教派、モラヴィア派 等々、アメリカのさまざまな教派の讃美集二十二種類を調べた結果、それら教派のすべての讃美集に選ばれて取り上げられているのは、わずかに二つしかなく、アメイジング・グレイスはその一つであったという。(講座 日本のキリスト教芸術 第一巻「音楽」一〇六頁 日本キリスト教団出版局 二〇〇六年四月刊)
この讃美は、以前にNHKテレビの特別番組にも一時間近い時間をあてて放送されたことがあり、キリスト教の賛美のためにNHKがこのような特別番組を放送するということは、前例のないことであり、また今後も恐らくなされないであろう。
それほどにこの讃美が特にアメリカにおいて、プロテスタント、カトリックなどを問わず教派を越えて採用されているというのは、それだけ国民的に特別な支持がなされていることを示している。
それは、歌詞が信仰をよくあらわしており、そのうえ作詞者ジョン・ニュートンの生き方が神の恵みそのものを鮮やかにあらわしていること、それに加えてメロディーが魂に浸透する味わいと美しさを持っており、さらにその歌詞が教派的な色彩を持つことなく、年齢を越えて愛好され、不思議な力をもって広がっていったからであろう。
作詞者のジョン・ニュートンは、一七二五年、イギリスに生まれた。母はキリスト者であったが、ジョンが七歳のときに召されてしまう。その後彼は、黒人奴隷を輸送する奴隷貿易を仕事とするようになった。当時、奴隷としてアメリカに連行される黒人たちは悲惨なもので、暗い船室に丸太のように詰め込まれ、病気になったりすると海に捨てられるといった状況で、家畜以下のひどい扱いを受けて輸送されていた。ジョンはこのようなひどい扱いを彼自身も行なっていた。しかし、二二歳のとき、責任を任せられた船が嵐に出会い、浸水し食糧もなくなり、絶望的状況となったとき、必死に祈った。そして奇跡的に救われた。
こうした経験がもとになって彼は、のちに奴隷船の働きを辞め、キリスト教の伝道者(聖職者)となった。
自分がかつてやったことは、到底赦されない重い罪であったことを深く知ったが、そのような者に神は、罰を与えて滅ぼすことなく、一方的な罪の赦しを与えて下さり、生かして下さったのを深く知ったのである。それが、この有名な、「驚くべき恵み」という歌詞になった。それはいわば神が聖書の詩編のように、神ご自身がジョンをとらえて、彼を通して神の赦しの愛、恵みを体験させ、証しさせたものだと言えよう。
曲については、だれが作曲したかはわかっていないし、その起源も諸説あって確定されていない。こうしたところにも、みえざる御手が、ジョンの歌詞を支えるようにこの曲と結びつけられていったのを感じさせるものがある。
最近、アメイジング・グレイスの作詞者、ジョン・ニュートンの自伝が出版されたが、その編訳者は次のように書いている。

アメイジング・グレイスを聞いて、これほど美しい歌を一体だれが作ったのだろうと思ったことのある人は必ずいることだろう。私もその一人であった。
この歌の、大河がゆったりと流れるがごとき旋律を聞いていると、何か遠い昔に触れたことがあるような魂の原風景というべきものに回帰していくような気持ちになる。(「アメージング・グレース物語」四頁 彩流社 二〇〇六年刊)

このように、右の本の編訳者は、この讃美歌のメロディーが魂のふるさとに連れていくような力があると言っているのであるが、神の驚くべき恵みこそ、私たちを、最も深い意味で魂の原風景へと導いて下さるのであり、この讃美歌は歌詞と曲がともに相働いて私たちの魂のふるさとである愛の神へと導いて行く力を持っていると言えよう。
この讃美歌は世界的に有名であり、そのメロディーは広く知れ渡っているが、歌詞になると本来のこの讃美歌の歌詞をオリジナル版で知っている人は少ないと思われる。
そこで、以下に歌詞の全体を、原文とともに引用する。

驚くべき恵み ーその響きはなんとうるわしいことかー
その恵みは私のような哀れな人間を救って下さった。
私はかつて、失われた者だった。しかし、今は(主によって)見出されている。
私はかつて(何が大切なことなのか、何が悪いことなのか)見えなかった。
しかし、今は、見ることができるようになった。

(一)Amazing Grace! How sweet the sound
That saved a wretch like me!
I once was lost, but now I'm found,
Was blind, but now I see.

最初の、「その響きは、なんとうるわしいことか!」の原文、How sweet the sound は、挿入文となっていて、原文にはカッコが付いているが、カッコをはずして書いてあるテキストも多い。この sound(音、響き)とは、直前の「Amazing Grace」(驚くべき恵み)を指していると考えられる。「驚くべき神の恵み」というその言葉を思い浮かべるだけで sweet な感情、すなわち「心をやさしくし」、また「胸をときめかせる」(*)ものとして感じられるというのであろう。神の恵み、その言葉自体が、その恵みが何であるかを深く体験したものにとっては、うるわしい響きをもって魂に感じられるのである。
原文は、一行目の sound と、三行目の found 、二行目の me と、四行目の see が同じ響きの音(脚韻)が置かれている。そして、残りの歌詞も大体同様に脚韻が踏まれている。

*)元恵泉女学園大学教授 大塚野百合氏は、その著書で、この第一行を「驚くべきみ恵みー何と胸をときめかせる言葉かー」と訳している。(「讃美歌・聖歌ものがたり」九二頁 創元社)sweet を「胸をときめかせる」と訳したのは、著者の感情をこめた訳語である。この例を見てもわかるが、sweet という語は、多くの人が連想する「甘い」といった味覚に関する意味だけでなく、「心地よい、やさしい、心を惹く、香りのよい、新鮮な、美しい」、といったさまざまなニュアンスを持った言葉である。

(二)私のこころに畏れることを教えて下さったのは神の恵み
そして、その恵みが、私の恐れから救ってくれた
なんとその恵みは、貴くみえたことか、
私が初めて信じたその時に!

'Twas grace that taught my heart to fear,
And grace my fears relieved;
How precious did that grace appear,
The hour I first believed!

(三)多くの危険、労苦、誘惑を
私は通ってきた。
み恵みこそ、ここまで私を無事に導いてくれた。
そして恵みは私をわが家(天のふるさと)へと導いてくれる。

Through many dangers, toils and snares,
I have already come;
'Tis grace has brought me safe thus far,
And grace will lead me home.

(四)主は私によきものを約束された。
主のみことばが、私の希望を確かなものにする。
主こそわが盾、また分け前。
私が生きる限り。

The Lord has promised good to me,
His word my hope secures;
He will my Shield and Portion be,
As long as life endures

主が約束して下さるよきもの、それは信仰、希望、愛、そこから生れる喜びや忍耐、力、勇気、等々をすべて指している。二~三行が具体的なそのよきものを意味している。この世の希望はすぐに失せてしまうが、神に希望を置く者は決して壊されることがない。変ることのない神の言葉によって支えられているからである。
また、神こそは、あらゆる悪が攻撃してくることから守る盾となって下さる。それだけでなく、神ご自身を私たちの分け前として下さるというのである。神を分け前、といった表現で使うのは違和感があるであろう。これは、古代にイスラエルの人たちがカナンの地に住むようになったとき、神から分け前としてそれぞれの土地を受けたことが、背景にある。
人によっては、苦しみや病気、災害、あるいは貧困や家庭すらない孤独を「分け前」として受けて、その運命に悲しみ嘆く人も多い。どうして特定の人があのように重い苦しみを耐えなければならないのか、全く不可解にみえることが多くある。
しかし、そうした人たちにおいても、神を分け前として下さるとき、あらゆるそうした不満や悲しみに打ち勝って、霊的な喜びと平安を与えられると約束されている。それが、主イエスの言われた「ああ、幸いだ、悲しむ者は! なぜなら、その人たちは神からの慰め、励ましを受けるからである」(マタイ福音書五・4)という意味なのである。


(五)まことに、この体と心が衰え
この世の命が終わるとき
私は手にいれるだろう。
隠されていた喜びと平和のいのちを。

Yea, when this heart and flesh shall fail
And mortal life shall cease,
I shall possess within the veil
A life of joy and peace.

私たちは遠からず必ずこの世から去っていかねばならない。そのときは、一日一日と近づいている。著しい苦しみや悲しみ、困難の人生であった人も、ただ信じるだけで、神の驚くべき恵みを受けることができる。それはもはや何者によっても壊されない永遠の平和と喜びである。ここに私たちの最終的な希望がある。

(六)大地はまもなく雪のように溶けていく。
太陽も輝きを失うだろう。
しかし、私をこの世から呼び出す神は
永遠にわたしのもの。

The earth shall soon dissolve like snow,
The sun forbear to shine;
But God, who called me here below,
Will be for ever mine.

この世界、宇宙も仮のものである。科学的な結論からいっても五〇億年もすれば、太陽も地球も失せていくといわれている。しかし、神はそうしたみえる世界がいかになろうとも、永遠の存在であり、そのような無限の神ご自身をわがもの(分け前)と言えるような計り知れない恵みが約束されている。

(七)私たちは、天の国にて一万年を経ても
太陽のように輝きながら、
日々、神への賛美を歌うだろう。
最初に(賛美を)始めたときと同じように。

When we've been here ten thousand years,
Bright shining as the sun,
We've no less days to sing God's praise
Than when we'd first begun.

天の国は永遠であり、そこでは、神への感謝と神ご自身を喜ぶことのみがあって、それゆえに神への讃美は尽きることがない。なお、この最後の節は、ニュートン自身が作詩したのでなく、少し後になって、ジョン・リース(一八二八~一九〇〇年)によって追加されたものである。
こうした永遠の讃美は、聖書の詩編一四五編~一五〇編にみられる、神への讃美の詩篇が源流にある。

ハレルヤ。聖所で神を賛美せよ。大空の砦で神を賛美せよ。
力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。
角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。
息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。(詩編一五〇より)

「アンクル・トムス・ケビン」におけるアメイジング・グレイス
このアメイジング・グレイスという讃美歌が、とくにアメリカの人たちの心に深く浸透していたと思われるのは、一八五二年に刊行されたストー夫人が書いた「アンクル・トムス・ケビン」にすでに引用されているからである。
悪魔のような人間、レグリーのところでトムはひどい取り扱いを受ける。それは最終的には死に至る激しい暴力を受けるのであるが、そのためにトムは心身ともに痛めつけられ、祈りもできないほどになっていく。
以下に、どのような文脈で用いられているかを明らかにするために、この讃美歌をトムが歌うという箇所の手前の部分から次に引用する。
----------------------------
非常な重荷が耐えられないくらい魂を圧迫するとき、その重みを払い落とそうとしてただちに肉体と精神は必死の力を出すものである。そして最もひどい苦しみはそれゆえに、再び喜びと勇気の波が上げ潮のごとくに打ち寄せてくるのである。
この場合のトムがちょうどそれだった。彼の残酷な主人レグリーの侮辱は、前から打ちしおれていた魂を引き潮の底まで沈めてしまっていた。そして信仰の手はなおも、永遠の岩にしがみついていたけれども、その手はしびれ、絶望的になっていた。トムは火のそばに、ぼうぜんとして座っていた。
その時、周囲のものがことごとく消えていくように思われた。そこに茨の冠をかぶり、打たれて血を流している人(キリスト)の幻が彼の前に現れた。
トムは恐れおののいてその顔に現れた崇高な忍耐をじっと見た。
その澄みきった、悲愴なまなざしは彼の心の底までさし貫いた。
彼の魂は感激の潮に打ち寄せられたかのごとく目覚めた。そして両手を差しのばしてひざまずいた。幻は次第に変化していった。茨の冠は栄光の冠となった。
そして想像もできないほどの輝きと光のなかに、トムは憐れみ深いまなざしを彼のほうに向けている顔を見た。そして一つの声がこう言った。
「 勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。」(黙示録三・21
どんなに長い間そこにいたか分からなかった。我に返ったとき、彼の着物は冷たい露にぬれていた。
しかし、恐ろしい魂の危機は過ぎ去って、喜びに満たされ、もう彼は飢えも寒さも失望も不幸も感じなかった。彼はその時、自分の意志を永遠の神に捧げたのであった。
トムは、静かな無数の星を見上げた。永遠に人間を見下ろしている天使の群れ。夜の静けさは、勝利をたたえるトムの讃美歌の歌声で高らかに鳴り響いた。その歌は彼がもっと幸いであったときによく歌ったものであったが、これほどの感激をもって歌ったことはかつてなかった。

大地はまもなく雪のように溶けていく。
太陽も輝きを失うだろう。
しかし、私をこの世から呼び出す神は
永遠にわたしのもの。

まことに、この体と心が衰え
この世の命が終わるとき
私は手にいれるだろう。
隠されていた喜びと平和のいのちを。

私たちは、天の国にて一万年を経ても
太陽のように輝きながら、
日々、神への賛美を歌うだろう。
最初に(賛美を)始めたときと同じように。

ほの暗い夜明けが、眠っていた奴隷たちを起こして、畑へと駆り立てていった。震えながら歩いていく哀れな日々のなかに、ただ一人、喜びの足どりで歩いていく者があった。
全能の神、永遠の愛を信じるトムの強固な心は、踏みしめる大地よりもなお固かったからである。
---------------------------------
このように、暗黒の力に打ちのめされて絶望的になろうとしていた奴隷トムの心が、キリストの生ける姿の啓示に触れて再び立ち上がり、あらゆる苦しみをも受けていこうと、主イエスに似た決意を与えられたのであった。
そのとき、「アメイジング・グレイス」の最後の部分がトムの心に浮かんできた讃美歌として取り上げられているのである。
この著作の著者、ストー夫人の生きていたとき、すでにこのアメイジング・グレイスが、苦しむ黒人奴隷たちの魂の歌になっていたのがうかがえる。
こうして、世界の文学史上、特に歴史的な影響力をもった「アンクル・トムス・ケビン」(*)の著作のなかで、すでにこのアメイジング・グレイスが生きているのに驚かされる。
ここにも、使徒パウロがキリストによって示された、「驚くべき恵み」が流れ込んでいるのを知らされるのである。

*)ロシアを代表する大作家トルストイが、その芸術論で、「神と隣人に対する愛から流れ出る、高い、宗教的、かつ積極的な芸術の模範」として、この「アンクル・トムス・ケビン」を、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」、ドストエフスキーの「死の家の記録」などとともにあげている。(「芸術とは何か」第十六章)
 また、ストー夫人やトルストイとも同時代であった、スイスのキリスト教思想家ヒルティも、この作品については、こう言っている。
「あなたはどんな本を一番書いてもらいたいと思うか。この場合、聖書の各篇は問題外としよう、同じくダンテも競争外におこう。わたしの答えは、ストー夫人の「アンクル・トムズ・ケビン」、デ・アミチスの「クオレ」、テニソンの「国王牧歌」である。 (「眠れぬ夜のために下」七月十六日の項より」)

このアメイジング・グレイスという曲は、アメリカの黒人たちの深い悲しみや絶望のなかにある魂の内に鳴り響き、それ以外の無数の人たちの心に反響しつつ、歴史を流れてきたと言える。
そして今日では、アメリカ第二の国歌とまで言われるほどに定着し、アメリカのキリスト教世界の最も広く採用されている讃美歌となっている。
これは、世界の背後におられる神が、そのようにキリストの恵みを世界に知らせようとなさったその神のわざなのだと知らされるのである。


音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。