真理とは何か 2007/10
誰でもが意識しているかどうかにかかわらず、魂の奥深いところで求めているのものがある。それが真理ということである。誰でも、たとえ嘘をよくつく人であっても、自分に嘘が言われることは嫌う。真実なもの、本当のものを誰もが求めているということの現れである。
高校時代の初めころ、岩波文庫の最後の頁に書いてある言葉を不思議な思いをもって読んだのを思いだす。
「真理は万人によって求められることを自ら欲し…」
真理そのものが生きたもののように、真理それ自身が人間に求められることを欲している…一体どういうことだろうと、この言葉は私の若き日の心のどこかに留まり続けていた。 しかし、芽を出すことなく埋まって行った。その意味が実感できるようになったのは、大分後になってからであった。
真理とは、ある辞書には「その物事に関して、例外無くあてはまり、それ以外には考えられないとされる知識・判断。」とあり、広辞苑には「判断と実在との一致」あるいは、「本当のこと」とある。
真理とは、本当のこと、などと言ってもそのような説明の仕方は単に言い換えただけで、何も私たちに役に立たない。
例えば、今いる部屋のボールペンの重さは何グラム、長さは何センチ、机のサイズはいくら、高さはいくら、などということは、測定したらすぐに分かる。それは、「本当のこと」ではあり、「事実」ではあっても、真理とは言わない。窓の外に見える木の葉を一枚一枚の重さや長さを計ったらいくらでも「事実」は出てくる。しかし、そのようなことをもって、私は真理を知っているなどという人は誰もいない。
事実ではあっても真理ではないのである。
このような個々の事実は、無数にある。しかしそのような雑多な事実は何の役にも立たないから誰もそんなことを聴こうともしないし、調べようともしない。
このように、真理というものは、単に「本当のこと」ではない。真理を求めるといい、大学は真理の探求の場である、などと言うのは、真理とはそのようにどこにでも転がっている事実でないからである。そんな事実なら大学とか探求など関係なく、無数にあるからである。真理というとき、それは人間にとって、価値のあるものである。
一般的に、真理とは科学的な真理を連想することが多い。例えば、水は一気圧のもとでは、零度で氷になる、百度で沸騰するとか、太陽の光によって緑色植物はブドウ糖を作っている、炭素が燃える(酸素と化合する)と二酸化炭素になる等々、日常生活の中で生じていることの背後にそうした科学的な真理がある。また、数学においても、2×3=6といったことが真理であることは誰でも納得している。
しかし、聖書にはこうした科学的真理については触れていない。聖書にいう真理は、人間の本質である心、魂といったものにかかわる内容を持っているからである。
これは、聖書の巻頭から明確にされている。
世界の最初は闇と混沌であった。そこに神が「光あれ!」と言われたとき、そこに光があった。
この闇と混沌、そしてそこに投げかけられた光こそ、真理とはどういうものかを深く示すものとなっている。 闇と混沌とは人間の心、魂の状態である。そこに光が注がれてその闇が消えていくということ、真理とはそのような働きをするものなのである。
ここに地球のことを言っているようにみえながら、実は単に地球の科学的な形成を言っているのでなく、人間の精神にかかわることが隠されているのである。
真理とは、闇に輝く光であり、それは人間の心や人間社会に存在する悪、憎しみや怒り、欲望や妬み等々の闇と混沌に勝利するものなのである。
こうした観点からみれば、例えば科学的真理というものがそれらには関わりがないのが分かる。いくら科学的真理を知っていても、それは悪に打ち勝つ力とはなりがたい。どんなに物理学を知っていても、また数学の微積分の計算やその意味を理解していても、そうした科学的、数学的真理は、嘘を言わないようにさせる力を持っていないし、人を殺してはいけないという命令とは何も関係を持っていない。
それは、そのような科学的真理を何一つ知らない場合でも、人を殺してはいけないことを人間は知っているし、またそれを行わないようにブレーキをかけることも知っているからである。
今から百数十年前なら、日本人は科学的教育など全くといってよいほど受けていなかった。現在は、小学校から中学、高校、大学と比較にならないほどたくさんの時間をかけて教育を受けているが、だからといって、日本人が昔より、愛が深まったとか、心が真実になったとか憎しみをもたなくなった、などということは到底言えないことを見ても分かる。
もし、そうした科学的真理が愛や真実を増大させるのなら、昔の人よりはるかに現代の日本人は愛や真実が深くなっているだろう。
創世記に書いてある有名な話がある。アダムとエバがエデンという所に作られた園で、食べるのに美味で、見ても美しい各種の果樹の木々を神が用意して下さっていた。そして神は二人に命じた。「どの木からでも自由に食べてよいが、園の中央にある木の実だけは食べてはならない。その実を食べたら必ず死ぬからだ。」
このようにして、アダムとエバは、自分たちは何一つ働かなくても、神が一方的にすべてを用意して下さっているエデンの園にあって、心ゆくまで日々をゆたかに過ごして行けるはずであった。
その食べてはいけない木は、「善悪を知る木」(*)と訳されているが、原語では、単に道徳的な善悪だけを意味しているのでなく、いろいろな物事を(神抜きにして)知るというニュアンスになる。
(*)「善」と訳された原語は、トーブであり、これは幸い、よい、好ましい、健康等々数十種に訳されている。「悪」と訳された原語の「ラァ」も同様で、不幸、病気、災い、等々多くの意味を持つのでそのように多様な訳があてられている。
たしかに、いろいろなことを知るということは、とくにこの二百年ほどというものは目を見張るほどに発達してきた。化学上での大発見であった電池(バッテリー)が、千八百年にボルタによって希硫酸に銅と亜鉛を浸すという方法で発明されてから、今日に至るまで、電池は限りなく発達しつつある。
現在は、電池はかつて考えられたような明かりのためとか、簡単な器具を動かすためといった用途だけでなく、以前には予想もしなかったような数々の領域できわめて重要なものとなっている。パソコンや携帯電話といった身近なもの一つとってもそのことがうかがえる。全世界に急激な普及を続けている携帯電話も次々と改良されていく電池がその発展を支えてきたのであって、優秀な電池がなかったら今日のような発展はなかったのである。
また、世界の経済や個人の生活を支える自動車も、いくらガソリンがあっても電池がなかったらエンジンの点火ができないから動き出せないのである。個人の生活の便利を与えるだけでなく、自動車によってあらゆる産業は支えられている。鉄道がないところからのさまざまの資源や肥料、農作物などの運搬、そしてそれらから作られた衣食住にわたる製品は、ほとんどすべてそれらの運搬は自動車、電車あるいは航空機であるが、それらはいずれも電気の力がなくては動かないのである。航空機は一見電池と関係ないようであるが、それも動き出すためには、補助動力装置というエンジンがまず、バッテリーによって起動する必要がある。それによってメインエンジンが起動できるようになっている。
このように著しい発展を遂げている器械であるが、それらの発達の急激なことはだれも予測できなかったところである。
また、そのような電気の力によってさまざまの実験機器も発達し、原子核の分裂を用いて核爆弾を造るまでに至った。これはまさに、神抜きに知るということをどこまでも押し進めると、一発で何十万、何百万人もの人の命が奪われる状況になるということであった。
このような大規模の殺人でなくとも、ビデオとか映像、インターネット、印刷物、携帯電話などで、悪しきものを取り込むならそうしたものによって人はますます純真な心とか、真実さを失っていく。そうでなくとも、無限に増え続けていくこうした情報とか知識を追い求めていくときには魂に平安は失われ、心の奥深いところには漠然とした闇や空白が漂う定まらない精神となっていくであろう。
それこそ死に至る道である。
現代の世界的な問題は、環境問題、とくに地球温暖化問題が大きく取り上げられている。これはたしかに重要な問題であるが、こうした目に見える現象だけでなく、さらに奥深い問題がある。
それは、霊的な環境汚染ということである。あまりに闇の世界、悪の息を吹き込まれたような情報が世界にはんらんし、子どもたちにも襲いかかり、その純真な心を汚し、また迷っている人たちをさらに泥沼に引き込むような情報が洪水のように押し寄せている。
それらによってどれほどか霊的な環境が汚染されていることだろう。
こうしたすべては、創世記にある、神と無関係に知識を得ていくなら、それは死に至る、ということを思わせるのである。
知識の実だけを食べていくと、死んでしまう、という神の言葉は、恐ろしいほどの深い洞察を持っていたのである。
そして、その知識の実のかたわらに植えられていた、命の木の実こそは、はるか後になって、主イエスが現れ、十字架に死して人間の罪を赦し、清めて下さり、ご自身が復活して求める者には誰にでも、永遠の命を与えられることになる、ということを預言的に指し示すものとなっている。
旧約聖書においては、千五百頁にもなる大冊であるのに、「真理」という訳語は意外なほど少ない。わずかに十回ほどである。聖書は真理の書であるはずなのに、どうしてこんなに少ないのだろうか、聖書は真理について書いてないのだろうか、と考える人もいるかも知れない。
しかし、そうでない。聖書においては、人間のあり方に関する真理が全巻にわたって記されている。真理というより、「真実、まこと」 という内容を持っている。これに相当する原語(ヘブル語)は、エメス
とか、エムーナーという語がある。エメスは、旧約聖書では一二七回ほど使われているし、エムーナーは、四九回ほど使われている。これらは、いずれも、アーマンというヘブル語から由来している。アーマンという語は、固くする、堅固にするといった意味を持っている。それゆえ、エメスとかエムーナーも堅固のもの、揺るがないものといった意味が元にある。神こそは最も揺るがない存在であり、その本質である愛や真実というものは変ることがないことをこれらの言葉は意味している。
エメスという語は、口語訳聖書では、「真実、真理、誠実、まこと、忠実、忠信、確か」など、さまざまに訳されている。これらは、みな「変ることがない」という共通した意味を持っている。
またエムーナーという語も、「真実、まこと、信仰、忠実、忠信、固く立つ」などと訳されており、エメスとほぼよく似た意味を持っている。
これらの言葉は、神の本質を表す言葉として、しばしば用いられている。
すでに述べたように、真理と真実、これらはよく似ているが、前者の典型的な例である科学的真理と聖書に記されている真実とは、大きな違いがある。現在も科学的真理は、日夜探求されており、日々新たな真理が世界の至る所で見出されている。そしてその真理が、技術に用いられていくからコンピュータとか携帯電話など誰でもがよく知っているものから、あらゆる器械や技術の革新となって、世界中で絶えずより進んだ機能が増え続けていくのである。
この点はほかの学問的真理でも同様に多くの人たちの研究によって絶えずより普遍性のある真理、今まで知られていなかった真理が見出されているであろう。聖書に関する分野でも、この点ではより進んだ聖書の内容の研究や、預言者たちの活動の背景、ヘブル語と周辺の原語との関連性、正典以外の書物の研究等々、絶えず研究は進んでいくだろう。
しかし、「真実」はどうか。右のような数々の科学的真理やほかの学問的真理がどんなに進んでも、人間の真実という点では何等押し進めることができないのは明らかである。
旧約聖書での真理すなわち真実とかまことと訳される、エメスという言葉が初めて現れるのは、次の箇所である。
「主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」と祈った。(創世記二四・26)
これは、アブラハムの僕が遠くの一族のいるところに出向いてアブラハムの息子の嫁を探しに行ったとき、不思議な導きによって適切な女性にめぐり合うことができた。そのときの感謝の祈りである。
アブラハムは、旧約聖書から新約聖書に一貫している神への信仰の大きな流れの源流にある人物であり、彼がそのような大いなる人物として後世に絶大な影響を与えたのは、彼がもともと偉大であったのでなく、ここにあるように、神の「慈しみとまこと(真実)」が常にアブラハムを離れることなく与えられていたからであった。
また、旧約聖書で特に重要なもう一人の人物ヤコブについても、彼が長い間自分を殺そうとした兄エサウを逃れて遠い伯父のもとに行った。そこで働き、妻をも与えられ、二〇年を過ぎてようやく故郷に帰ることになった。しかし、その帰途、かつて自分を殺そうとした兄が会いに来るというので、ヤコブは、自分を攻撃してくるのではないかと恐れた。兄と会うその前夜、ヤコブが必死に祈ったのは次のようなことであった。
… わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。
どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。…(創世記三二・13)
ヤコブがこのように真剣に祈ったことはかつてなかった。彼としては場合によっては殺されるかも知れないという恐れのただなかにあったが、その中からこのように神にすがったのである。そのときにヤコブが深く実感していたのが、神の「慈しみとまこと(真実)」であった。
ヤコブは兄を欺き、今までの生活も必ずしも正しいことばかりでなかったことを知っていたがそれでもなお、神は慈しみと真実を尽くして下さったという実感があった。
このようにして聖書の最初の書である創世記から、神の本質としての慈しみと真実ということが記されているが、それがさらに明確に書かれているのが、主自らがモーセと共にあって宣言された次の言葉である。
…主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、
幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」(出エジプト記三四・6~7より)
旧約聖書のなかで、神の御性質が初めてはっきりと記されているのは、この箇所である。ここでは、神は、まず、憐れみ深く恵みに富むことが言われ、慈しみと真実に満ちていること、それは一言で言えば愛ということになる。日本語では、慈しみとは「愛する、大切にする」といった意味であるが、旧約聖書で「慈しみ」と訳されている原語(ヘブル語)は、ヘセドという言葉で、このヘブル語は、口語訳では慈しみという訳語以外にも、「愛、憐れみ、真実、忠誠」などと訳されている。
「慈しみとまことに満ち、…」という箇所は、外国語訳では次のようにいろいろに訳されている。
…rich in faithful love and constancy,(NJB 新エルサレム聖書)
この訳は、「真実な愛と、不変性に満ちている」ということで、慈しみもまことも、いずれも、真実で変わらないということが強調されている。
… abounding in steadfast love and faithfulness,
(NRS 新改訂標準訳)
これも、「堅固な愛(変ることなき愛)と、真実に満ちている」と訳している。
…plein de fidelite et de loyaute(TOB フランス語 エキュメニカル訳聖書)
さらにこの現代フランス語訳で用いられている、 fidelite とは、英語のfidelity と同語源の言葉で、「忠実、 誠実」という意味であり、loyaute も 英語の loyalty という語と同語源で、英語のように「忠誠、誠実, 正直」といった意味を持っている。すなわち、この仏語訳では、慈しみと真実という神の本質をいずれも、真実、忠実といった意味で訳しているのである。
こうしたことからもうかがえるように、この重要な言葉は、日本語の「慈しみ」という言葉がやさしさを連想させるのに対して、ヘブル語ではそのようなやさしさと共に、不変性、永続性が中心にあり、意味がより深く広いと言えよう。
この訳によれば、神は、一度約束したことは決して変えることがなく、どこまでも忠実に真実に守って下さるというお方である。 この不変性、永遠性こそは、神の重要な特質なのである。
しかもこの不変性は、人間には決してないもので、私たちが神に心惹かれるところもそこにある。
変ることがないのは真理であり、真実である。人間の愛でなく、神の愛は変ることがないゆえに、そのような真理そのものである。
使徒パウロの言葉は、愛こそはそのような真理であることを示すものである。
…いつまでも変わらないのは、信仰、希望、愛、この三つである。そのうち最も大いなるものは愛である。(Ⅰコリント十三・13)
これらにはすべて、真実ということが内にある。「信じる」という言葉自体、ヘブル語では、アーマンという、「堅固にする」という意味の言葉からきているし、このアーマンから、「真実」と訳される
エメスや、アーメン(真実に)という語が派生している。
また、ギリシャ語でも、信仰という言葉は、ピスティスであるが、これは、「真実な」という意味のピストスの名詞形である。何かの教義を単に信じているというのでなく、もともと、信じるとか信仰という言葉自体が、「真実」という意味を持っているのである。神を信じるということは、神に対して真実な気持ちを持つということなのである。
また、希望ということも、いつまでも変わらない希望は、神が変わらずに真実なお方であるからこそ、変ることなき希望を持つことができる。
さらに愛ということも、人間同士の気まぐれな好きという感情はすぐに変る。ちょっとした一言でも嫌いになったりする。人間同士の愛はかんたんに変質する感情といった側面がある。
しかし、いつまでも変わらない愛とは神の愛で、それは心を変えることがないという真実が背後にある。
このように、信仰、希望、愛というキリスト教で永遠のものとされていることの奥には、常に真実があるのが分かる。
人間はどんなに真実であろうとしていても、その洞察が及ばないこと、狭い範囲しか分からないこと、愛をもたないことなどのために、つい不信実な態度を他者に示してしまうことは誰にでもある。使徒ペテロは、主イエスの究極的な状況は捨てられ、あざけられ十字架で処刑されることだ、と言われたとき、そんなことが決してあってはいけないと、こともあろうに師であるイエスに対して叱るということをしてしまった。
主イエスに対しての真実を、と願っていてもどうしても人間的感情が出てしまうのである。ここに不信実がある。自分中心に考えること、それは本能的にそうなる。自分の命を守りたい、自分が苦しいことを避けて楽をしたい、といったことは苦しむことの延長上に病気や死ということがあるから当然それらを避けようとする。しかし、それは自分中心ということで、さまざまの悪の共通の根にもなっている。
乳児は、まず生きることができるように、まず自分を第一にして母親が眠っているから泣かないでいようなどと考えずに真夜中でも大声で泣く。そのようにしなくては生きていけないからである。
このように自分中心という傾向は生れたときから刻み込まれている。 成長してもこの魂に刻まれた本質は変ることがないから、何をするにしても自分中心に考えていく。自分に利益があるから、嘘を言ってでも得ようとする、自分がおもしろいからする、自分がしたいからする、自分が嫌いだから排除する、自分が損するからしない…。さまざまの犯罪も同様で、こうした自分中心が行き着くところまで行くと他者の物を盗んだり、相手の命すら奪うということまで生じる。 決して人を殺さないと思われるような人でも、一度戦争になると、敵国の人間の命を奪うことは当然となってしまう。戦争とは自分中心が肥大化したものである。
このように自分中心という本性こそが、不真実の根であり、さまざまの悪の根となり、人間の苦しみや悩み、悲しみの根源にある。 そのような状況から脱することは、ふつうにはできないと誰でも感じるだろう。その根源的な問題の解決のため、人間に真理(真実)を与えるためにこそ、神は人を呼びだしてその道を伝えたのであり、それが文書となったのが聖書である。
さらに、聖書は読めない人が多い。そこで神はどんなに文字が読めず、文書も持てないような人であっても、真理が分かる道を拓かれた。それが聖なる霊をこの世に送るということであった。
主イエスは、「真理はあなた方を自由にする」と言われた。 科学的真理は、例えばヒガンバナは触るだけでもいけない、などといった言い伝えが誤りであることを示すことによって、そのような禁止から自由になる、といった側面があるから、何らかの自由を与えることに役だつことがある。
しかし、昔にくらべると比較にならないほど科学的真理は理科教育で人々に教えられているが、だからといって現在の人々がより自由を感じるということにはなっていない。科学技術の産物も同様である。車ができて自由にどこにでも行ける時代であるが、そうなると交通事故の恐れから道路を自由に歩くこともできなくなり、また空気は汚れ、騒音から自由になることもできず、それらに縛られた生活が広がっていくことになった。印刷物も自由に読めるようになった。しかしそのために人間を堕落させるようなビデオや印刷物も急激に増大し、それらによって心が縛られて人間のこしらえた狭い仮想の世界に閉じ込められるということも生じている。
このように、目に見える自由は、必ず別のところでの不自由を生んでいくのである。
こうした点から、いかなる状況のもとでも自由をもたらすものとして、思いもよらない道が与えられた。それがキリストであった。人間を縛っているのは、自分中心という本能と結びついた強力なものであり、それを罪といっている。その罪を除くのがキリストであり、それによって初めてほかのどんな手段によっても与えられなかった魂の深い自由が与えられる道が開かれた。
主イエスが、「私は道であり、真理であり、命である」と言われたのは、そのような真理と自由の関係を指している。
真理とは単に頭で考えて本当かどうか、というようなものをはるかに越えて、それは命を与えるものなのである。科学的真理は、それが高度のものであるほど、一般の人にはまったく分からないものになる。命を与えるなどとは逆に人々を追い返すものとなる。例えば、量子力学などの物理学が分子や原子の運動に関する真理を明らかにしたといっても、それを一般の人に示しても全く理解できない。そうした真理は受け付けることもできないのである。
主イエスは、真理とはキリストである。そしてその真理はまた道であり、命でもあるという、誰も予想したことのないような表現であった。このようなことは普通の判断では理解できない。イエスが十字架刑にかけられる前の裁判で、ローマ総督ピラトが、「真理とは何か」と問うた。
これは、人間全体が、つねに真理とは何なのか、という根源的な問いかけを持っていることを指し示している。永遠に変わらないもの、人間を支えるもの、しかも誰にでも受けることができるもの、そのような真理こそが人間の魂が一番奥深いところで求めているものだからである。
キリストが真理である、といえば、そこからさまざまのことが導き出される。
キリストはまず人間の気分や感情でなく、人間を恐れず、いかなるときにも、まず神の国と神の義を求められた。そしてまず強い人、美しい人、あるいはやさしい人に近づくのでなく、弱い人、苦しむ人、みんなから捨てられたような人々のところへと行かれた。そして正しいことをしているのに、神を冒とくするものという最大の罪を着せられた。それでも、ただ黙してその重荷を担い、万人の罪を担って死なれた。
そして死に打ち勝って復活された。
このような具体的な生き方によって、歴史の中に具体的に記され、人々の魂に刻み込まれ、そのまま伝えられてきた。単に、神といっても、民族によってさまざまの神のイメージがあり、殺人を認める宗教すらあることから神ということだけでは、おぼろげな印象しか与えないことが多い。しかし、主イエスはそうでない。すでに述べたように、だれもが分かる明確な行動と教えをなされたからである。それによって人間は真理とは何かを知らされたのである。
主イエスの生きて歩まれた姿を見れば、神は愛であることがはっきり分かる。敵対する者、弱い人たち、滅びようとする人間に近づかれるような愛の方である。主イエスは生れる前から神とともに存在しておられたのであり、次のように万物の創造にかかわっていると聖書は記している。
…万物は言(キリスト)によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(*)(ヨハネ一・3)
これは分かりにくい表現であるが、万物はキリストによって生じたという驚くべき内容を持っている。多くの人はキリストは偉大な人間あるいは、教師、さらにキリスト者においては、罪からの救い主、愛のお方といった意味をもっていると受け止められているが、万物の創造者でもあるというのは、あまり受け取られてはいないようである。
(*)言(ロゴス)とは、人間の姿をしてこの世に生れる以前のキリストを指す。ギリシャ語のロゴスは、「言葉」という意味の他に、理性、とくに宇宙を支配する理性といった意味も持っているので、人間として生れる前の神と同じ本質を持っておられたキリストのことを、ヨハネによる福音書だけが、ロゴスという言葉で表している。
しかし、これはヨハネによる福音書だけでなく、ヘブル書にもそのはじめに書かれていることである。
…御子(キリスト)によって 世界を創造されました。
御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。(ヘブル書一・2~3より)
ここにも、神の御子キリストが世界を創造し、万物を今も支えているという記述があり、神と同等なお方であるということが示されている。
それゆえ、私たちは周囲のさまざまの自然を見ても、それらは真理なるキリストを通して創造され、今もキリストによって支えられているということであるなら、雲のさまざまの色合いや姿、また大空の青い広がりを見ても、それはキリストのお心が反映されていると受け取ることができる。野草の素朴な花にも、大木の堂々としたすがたにも、野の花に集まる蜂や蝶などにおいてもそこに神の真実をくみ取ることができるようになる。
はじめにも触れたように、この石ころの重さが何グラム、この葉の長さは何センチなどといった「事実」は無数にある。それらは私たちにとって何の意味もなく、力も与えることができない。
しかし、真理は力を与える。私たちが苦しんでいるとき、励まし、また孤独に悩むとき暖かい息を魂に吹きかけて下さる。そうした真理は、心から求めるものに与えられるし、それは個人的でありながら、他のどんな人でももしその人が同様に心の真実を込めて求めるときには与えられる。
神こそは、そうした真理の究極的なお方であり、その神が創造された日々の雲や夕焼け、雨の様子、植物の数知れない変化の様子、花の色、形等々。それらは真理の一端であるゆえに、そこからも私たちは真理をくみ取ることができる。
そればかりでなく、この世のさまざまの出来事、それはよいものもあれば、決して起こってほしくないような苦しいこと、悲しむべきこともある。そうしたすべての背後にキリストがおられるのであれば、それらからも私たちは真理をくみ取ることができるということになる。
「すべてのことが共に働いて、よきことにつながる」(ローマの信徒への手紙八・28)とは、すべての出来事から真理をくみ取ることができるように導かれて行った人の言葉なのである。