クリスマスはいつも    2007/12

クリスマスは十二月二十五日というのは、今日では広く知られていて、十二月になる前から大きなクリスマスツリーやサンタクロースの飾りものが見られるようになる。
そしてキリストの降誕を祝う日であるのに、サンタクロースやケーキの日になっている。しかし、キリストの降誕を祝うといっても、キリストご自身に「誕生おめでとう」などといっても何の意味もない。
そうでなくて、これは記念の日なのである。キリスト教にかかわることは常にこの「記念」ということが中心にある。それは覚えておくことであり、思いだすことである。(*

*)英語では、remember という語は、「思いだす」、「覚えておく(忘れない)」という二つの意味があるが、これは、他の外国語もほぼ同様である。ギリシャ語の mimnhskw(ミムネースコー)、ヘブル語の ザーカル(zakar)、ドイツ語の ゲデンケン gedenken、 フランス語の souvenir(スヴニール) なども同様である。

旧約聖書においても、まずこの「覚えておく、忘れない」ということできわめて重要な箇所がある。それは、安息日のことである。あらゆる人間にとって根本的に重要な神のご意志を十カ条にまとめたものとして、十戒がある。そのなかに、次のように記されている。

安息日を心に留め(覚え)、これを聖別せよ。
(出エジプト記二〇・8

原文では、「覚えよ、安息日を」という表現になっている。神が安息し、その日を祝福されて聖別された、ということをいつまでも覚え、忘れないで実行していく、ということが神のご意志なのである。
一日一日はまったく同じように過ぎていく。しかし、大切なことは押し流そうとする流れに抗して私たちが絶えず立ち止まり、安息日を神に聖別された日として思い起こし、私たちもそれによって神に立ち返る日として覚えていくのである。
また、イスラエルの民がエジプトから解放されたときに、神が数々の奇跡をもって人々を解放させ、救い出された。そのことを永遠に覚えておくようにと命じられた。

この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。
あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。
(出エジプト記十二・14

これは過越の祭として現代でもユダヤ教では行っている。キリスト教では、この過越とは、キリストが十字架で死んで血を流されたことによって、私たちは罪を赦される(裁きが過ぎ越す)こととして受け取ることができるようにして下さった。そしてそのゆえにに、十字架が記念のしるしとなって、世界で知られるようになっている。
また、ユダヤ教の安息日は土曜日であるが、キリスト教では、キリストが復活したのが日曜日であったから、復活を記念することと、週に一度の安息日を記念することを重ねて、日曜日をその二つのことを記念する日として守って今日に至っている。
以上のように、聖書、キリスト教においては、神がなされた愛のわざを記念する(覚えて、忘れない)こと、それは神の祝福を持続的に受けることと密接につながっているのである。
クリスマスもその延長上にあるのであって、馬小屋に生れたイエスに向かって、「誕生日おめでとう」などということでは全くない。そうではなく、キリストが私たちのために生れて下さったことを、感謝をもって記念し、その愛を思い起こす日なのである。
そしてそのキリストが誕生のときからすでに悪の力が襲いかかり、生れたばかりのイエスを殺そうとした、ということも覚えておかねばならない。それはこの世が真理そのものにつねに敵対してそれを排除しようとするはたらきを持っているからである。そのことをはじめから私たちも覚えてそのような状況が起こってもそれは必然なのだと受けいれて、そこに神の国が来ますようにとの祈りをもってしなければいけないということも覚えておかねばならないことなのである。
けれども、イエスが私たちのために生れて下さったことを記念するだけにとどまらない。それは一年に一度だけそのようなことを思いだしたら終りというのではない。

ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリスト・イエスの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。(ガラテヤ書四・19

使徒パウロは、このように言って、せっかくキリストを信じる信仰が与えられたのに別の偽りの信仰へと引き込まれていくのを見て、キリストが人々の心に生れて下さるようにとの切実な願いを持っていたのがうかがえる。それはキリストの真の形が人々の心のなかに生れるようにという願いである。
パウロの願いはそのまま私たちの願いでもある。私たち自身も日々キリストのかたちが新たに生れるようにと願い続けなければならないし、そのような願いがなかったらいつのまにかキリストとは異質なものが心の中に、また信徒たちの集まりの中に入り込んでくるであろう。

また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、
人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
(エペソ書三・1719より)

このように、パウロは、キリストが単にベツレヘムの家畜小屋で生れたということで終わるのでなく、常に私たちの心のうちに生れ、そこで住んで下さることを切実な願いとし、祈りとしていたのがうかがえる。
主イエスが地上で目に見える赤子として生れたのは、一度きりであったが、それは人間の心に生れ、その心に住むことの象徴的な出来事でもあったのである。
同様に、キリストの復活も実際に処刑されたイエスが復活したというのは、その一度きりの出来事であるが、死んでしまった人間が神の力によってよみがえって神の国で永遠に生きるというのは、信じるすべての人に与えられている祝福なのである。
安息日というのも、もともとは、歩く距離も短く制限され、台所仕事もしてはならないというように、一切の仕事をしてはならない、ということであった。
しかし、それはキリストの復活以後は復活の記念の日と重ねて覚えられるようになり、主が共にいて下さり、私たちの内に住んで下さることによって日々が安息日であり、復活の記念となすことができるようになった。
このように、キリストは、日や場所、儀式などに限定されていたものを次々と解き放つ役割を果たしてきた。クリスマスということも、十二月二五日という特定の日を記念することによって、キリストは、主を求める私たちの魂の内に、日々来て下さっている、心の中に生れて下さっているということを新たに覚え、キリストをまだ知らない方々の心のうちに、キリストが新しく来て下さる(生れて下さる)ようにと願い求める日なのである。


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