「永遠の神―その愛と導き―」 詩篇第90篇
秀村 弦一郎 2008/5
老境に入った詩人は死と向き合わざるを得ない。永遠の神、創造の前から存在しておられるお方に比べて、人間の何とはかないことか。死の問題は私たちにとって最大の問題と言えよう。
神を知っている詩人は死の原因は「罪」であるという。それはアダムの堕罪物語(創世記3章)にあるとおり、生まれながらの人間は神に背く(心が神にではなく自分に向かっている=的外れ=罪)存在であり、そのことは神の前に立たされなくては分からない(隠れている)ことなのである。
そんなはかない存在であるにも拘らず、人は永遠を求めてやまない。詩人も長年にわたって様々なことを試み、努力してきたのであろう。そして多くの苦難に会い、涙を流したと思われる。70~80年の人生の実りは「労苦と災い」という。それが私たちの現実であり、詩人はそのことを直視する「知恵」を与え給え、と祈っている。
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自分の罪を知り神の憤り(死)を感じるとき、そこからの救いを求めるに至るが、この詩人は驚くべきことに、自分で何ごとかをやって救われようというのではなく、神の恵みによる救いを求めるに至っている。「主よ、帰ってきてください」、「喜び、歌わせてください」と、徹底して神中心である。(「塵に帰れ」と命じられる神に「帰ってきてください」とも。)
そして、この詩人の祈り(帰ってきてください)は、約500年後、想像も出来ない仕方で私たちに示された。それがイエスの十字架である。私たちの真ん中に、否もっとも低いところに神ご自身が来てくださり、私たちを贖ってくださった。私たちの神は一方的に(一切の代価無しで)恩恵を与えて下さる方、究極の愛でいますお方である。与えてくださるものは「永遠」のいのち。冒頭にあるとおり「主よ、あなたは代々に私たちの隠れ家」である。
神さえあれば、イエスは要らない、と考える人もいる。若い頃私もそうであった。私の経験から申せば、それは自分の罪に泣くことが無いから。子供の頃から神のことも罪のことも聞き知ってはいたが、罪は頭で分かるものではない。罪は全人格が問われる深淵である。その前に立たされるとき十字架と復活の福音のみが救いとなる。イエス・キリスト無くして私の救いは無い。
「永遠」を求めて何と空しいエネルギーを消費したことか。この詩は私自身の歌でもある。
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詩人は更に神の導きを祈っている。神の御業(創造に、また歴史に現れた威光)を心に留め(仰ぎ)、私たちの営み(手の業)が御心から逸れることの無いように、と。救いの喜びに溢れるなら自ずとそれが可能になるであろう。自分の努力では出来なかったことが出来るものとされる(イエスが働いて下さる)のである。
ささやかながら私もイエスがして下さったとしか思えないようなことをさせていただくことがある。聖霊の働きとしか言いようがない。いつもイエスを心の中心にお迎えして歩んでいたいものと思う。
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最後に、個人の問題を超えて国家、社会の問題にも示唆を与えられる。日本の将来は解決を迫られる問題だらけ、国際情勢も激変のときである。どこに基盤を置いて(何を指針として)問題に取り組むかが鍵である。私たちは変化の波に飲まれることなく、愛をもって「永遠」に支配し給うお方にこそ揺るぎ無い基盤(導き)を求めたい。
(メモ― 新共同訳による)
1 「モーセの詩」とあるのは天地創造・堕罪物語という創世記(モーセ五書)の記事と関係することによる。また申命記33章のモーセの歌も連想される。この詩の成立時期は捕囚記以降、第二神殿以前(BC500頃?)と見られている。
1 「宿るところ」は隠れ家、住み家、支え。
3 「帰れ」は(シューブ)。
4 「夜の一時」・・夜回りは3交代したがその1交代の時間。最小の時間単位。
6 「朝が・・夕べには・・」は砂漠の花の厳しく枯れ行く様子。
12 「帰ってきてください」も (シューブ)。3節に呼応しているのが印象的。
15 「私たちを苦しめられた日々を思って喜びを返してください」は損得埋め合わ せを願うのではなく、怒りの神が怒りを止めて恵みの神として顧み給えと祈る。
17 「喜び」は慈愛とも訳せる。神の慈愛が私たちの営みを導く。