御手のはたらきの力 2008/7
美しい花だと見入っていてもそれが造花だとわかったとたんに心を引きつける力は失せてしまう。ある人の庭にきのこが生えていた。めずらしいキノコが庭先に生えるものだと思っていたが、それが作り物だと知って、関心は退いていった。
水音にしても、人工的な水流の音と自然の谷川の流れの音では全く引きつける力が違うし、心に働きかける力も異なる。
それは、自然のものはその背後に無限の神を感じるからである。
小さな谷川の流れは、単調な水音であるのに毎日のようにそこに行って聞いても飽きることがない。それはその水の流れから生じる単純な音は直接神のご意志、そのお心から流れ出てくるものだからである。
神は無限のいのちを持っているゆえに、神に近づきたいという願いを持っているだけで、私たちにもそのいのちを与えることができる。それゆえに、まったく同じ水音であっても耳を傾ける者に生きた何かを与えるのであってそれが飽きることのない源泉となっている。
単純な青い空、白い雲、夜の闇に輝く星なども同様である。神を思いつつ、それらの被造物を見つめるとき、そこから神のいのちが伝わってくるゆえに毎日見ても飽きることがない。
同様に、人間のさまざまの言動も自分中心のことが多く、さまざまの不真実なものがある。しかし、それでもそうした背後に神の御手が働いていることを思うときに、反発や対抗心といった人間的感情とは別のものが心に生まれる。
聖書の言葉、それも人間が書いたと思っていたら深い力は感じ取ることはできない。たしかに文字にして書いたのは人間である。しかし、それは神がとくに選んだ人間を用いて書かれたのだと信じ、背後におられる神のご意志、お心を思いつつ読むときには全くことなる力を持つものとなる。
盲人が見えるようになったとか具体的な出来事を書いてある内容であっても、また種まきのたとえなどわかりやすい話しであっても、その記述の背後の神のご意志を思うときには、神が直接に私たち一人一人に語りかけているように感じられてくる。自然も、み言葉も、またこの世の出来事も、神の御手の働きであることを知るときに、そこから神のご意志を受け取ることができる。