憐れみの神(その二) 2008/7
キリスト教の二千年の歴史のなかで、キリストを宣べ伝えたという点で、最大のはたらきをしたのは使徒パウロである。それは、彼の書いたたくさんの書簡が聖書となって世界に宣べ伝えられ、それが無数の人たちをキリストへ心を向けることにつながったからである。私自身もパウロの書いた手紙の一部によってその解説を読んでキリスト者とされた者である。
そのパウロは何によってそのような大いなる働きをすることになったのであろうか。
それは、復活のキリストに出会い、自分の罪が赦された喜びのゆえあった。彼はキリスト者を迫害し、滅ぼそうとしていたのに、突然の光によってそれまでの誤りが太陽に照らされるように明らかにされ、自分の重い罪を知ると共に、その罪が赦されたのを知ったのであった。
自分は限りない神の憐れみを受けている、というのが彼の深い実感となり、それは大きな喜びとなった。
とくにイスラエルの人々が唯一の神を知るという恵みを与えられたのも、とくに彼らがすぐれているということのゆえでなく、神がかれらを憐れみのゆえに選んだのだと言われている。
…神は、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられる。 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによる。
(ローマ信徒への手紙九・15~16)
パウロは自分自身についても、信仰によって救われるということを力説しているが、その信仰を与えられたのも、神の憐れみによると実感していた。
ローマのキリスト者の人々が信仰を持つに至ったこと、それは彼らが自分の力や卓越性で信仰を持ったのでなく、「あなたがたは、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けている。」(ローマ十一・30)と言われている。
主イエスは神の深い憐れみの心を持っておられた。前回にも記したように、主イエスの憐れみを表す言葉に、とくに「内臓」を表す言葉が用いられている。それはからだ全体で人々の苦しさや悲しみ、孤独、赦されない罪からの心の闇などをともに実感されていたからである。そのような深い共感こそ、憐れみであった。
パウロは、自分自身の経験から、人間の救いは、そうした神の憐れみのゆえに、その愛が注がれ、その愛に触れて信仰を持つに至るのだと知っていた。
この宇宙の何の愛も真実もないような、ただの偶然としか思えないような時間の流れのなかに、パウロは深い憐れみが流れているのを感じていたのである。
何かを主張する場合でも、神の憐れみのゆえに言うことができるという思いが自然に出てきた。
ローマの信徒への手紙において、大きな区切りとなっている箇所がある。救われた人たちの新しい生活とはどのようなものなのか、どのように生きることができるようになるのかが十二章から十五章にわたって詳しく説かれ始める箇所である。(*)
(*)ローマの信徒への手紙は、パウロの手紙のなかで最も整然とした構成をもった書簡である。はじめ一~二章は、人類の罪を述べ、すべての人間が心の深いところで自分中心という罪を持っていてそこから逃れることができないゆえに、滅びゆくものとなっていることが示されている。それゆえに、三章から八章まで、そこから救われるため、人間の根本問題である罪からの救いはどうしたら達成できるのか、が詳しく記されている。救いの道が確固として存在することが言われたあと、九章から一一章においては、イスラエル民族がイエスを固く拒み迫害している現実をどう考えるべきなのかについて述べる。彼らがイエスへの信仰を拒んでいるのも、実はそれによって福音が異邦人に広がり、世界に宣べ伝えられるようにとの神の御計画によるものであり、その後時が至ればイスラエル民族もイエスを受けいれるようになる、という世界全体の救いのことが述べられている。こうして救いが全世界的であることを述べたあと、そうした大いなる神の救いの計画に入れていただいた私たちはどのような日々の生活となるのか、具体的な新しい生き方が記されているのが、十二章からの内容なのである。
そのような大きい区切りの冒頭でパウロは、
「神の憐れみによってあなた方に勧める。」(ローマ十二・1)
と書いている。大きな構想をもって、しかも神からの深い聖霊のうながしによって書きすすめている書、世界で最も大いなる影響を及ぼしたとも言われるローマの信徒への手紙、そこで重要な最後の段落に入るときにまず彼の胸中にあったのは、自分は神の憐れみによって今日を得ているという実感であった。
新約聖書に掲載されている書簡は、単なる個人的な手紙でなく、聖霊の働きがそこにあるゆえに、聖書におさめられている。パウロの手紙も聖霊によってうながされて書き記したものであるが、その聖霊はパウロに自分のいまあるのは、自分の努力とか能力のゆえでなく、神の深い憐れみによる、それがなかったら滅んでいたのだという意識をたえずよみがえらせていたのであった。
こうしたパウロの気持は、つぎのようにほかの手紙にもみられる。
… 未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいないが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べる。(Ⅰコリント七・25)
…こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのであるから、落胆しない。 神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねる。(Ⅱコリント・四・1~2より)
私たちが目的も分からず、死の意味も知らずにただ無になってしまうことのように思い込んでいた滅びゆく世界から救い出されたのは、何によるのか、それは主イエスの真実による。また神の恵みによる。そしてそれらの奥にあるのは、神の私たちへの深い愛であり憐れみなのであった。
この世界は人間以外をみると、動物相互の関係では、そうした憐れみなどは全く感じられない。ライオンが小動物を襲って食べてしまうように、強いものが、弱いものを食べる、これがごく自然なことになっている。
そのかわり、弱いものは数多く繁殖するようになっていて全体として釣り合いはとれている。
人間の世界でも、食べるということはなくとも、強い者が弱い者を使って労役を課したり、苦しめたりすることはよくみられる。しかし、そうした動物的状況のただなかに、そのような弱く苦しむ人間の痛みを深く知って下さるお方があり、その憐れみがあるということを知らされている。
主イエスの直前に現れた預言者、イエスの前に道を備える役割を与えられた洗礼のヨハネが生まれるとき、彼の使命は聖書の中でつぎのように言われている。
…幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、
主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。
これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(ルカ福音書一・76~79)
ここにも、救いの手が差し伸べられたのは、人間の努力とか卓越性によるのでなく、神の憐れみによるということが強調されている。
この神の憐れみの重要性のゆえに、主イエスはつぎのように言われた。
あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。(ルカ六・36)
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。 (マタイ五・7)
さきにあげたローマの信徒への手紙の最後の部分において、パウロは、最終的にユダヤ人もそれ以外の民族もすべての人々が神をたたえることができるようになることを指し示しているが、それは神の憐れみを実感するゆえにそのようになるのを示している。
…異邦人が、神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。
また、「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、
更に、「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。
(ローマ十五・9~11より)
パウロ自身、すでに述べたように自分の大きな罪を知っていた。そしてそこから救われたのは、ひとえに神の憐れみによるという実感を持っていた。
…以前、私は神をけがす者、迫害する者、暴力を振るう者であった。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けた。(Ⅰテモテ一・13)
このように、キリスト者とは神の憐れみを確かに受けている者だということは、ほかの新約聖書の書簡にもしばしば見られる。
…あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。(Ⅰペテロ二・10)
主イエスが言われたように、神の愛は太陽のようにいつも万人の上に注がれている。しかし私たちの魂の感受性というのが閉ざされていてそれが感じられないのである。そうした状況から救い出され、神からの愛、とくにどうすることもできない自分に深い憐れみが注がれていることを実感できるようになったのがキリスト者である。
それゆえに、最終的に私たちが祈り、待ち望むのも主の憐れみなのである。
…愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。
神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。
(ユダの手紙20~21)