リストボタン煉獄の門を入る  ダンテ・神曲煉獄篇 第十歌    2008/7

煉獄の山をのぼり始めたダンテは、ローマの大詩人に導かれて行くが、切り立った崖のようなところがあってそこからは上れないほどの険しい道があった。しかしそこを上っていかなければ煉獄の門に入ることはできない。
ダンテは、夢のなかに天使のルチアが突然現れて自分を捕らえて、本来ならば達することの困難な煉獄の門に達することができた。この神曲の特質の一つはこのように、「導かれる」ということが奥を流れていることである。
予想していなかった天よりの助けによってダンテは前進していけるのであって、そのような助けがなかったら進めないのである。このことは、現在の私たちの御国へと目指す歩みを象徴している。
私たちもまた、どんなに努力してもまた年齢を重ねても自分の本質は変わらないことをしばしば痛感させられる。しかし、主を仰ぎ、主に引き上げられるようにして歩むときようやく私たちはより高いところへと、また御国への道を進んでいくことができる。
キリストの最大の弟子とされた使徒パウロ、彼は当時としては最高の教育を受け、家柄もよく、ユダヤ人の宗教においても熱心な者であった。しかし、そうしたあらゆる恵まれたものをもってしても、キリストの真理はまったく分からなかった。そうした地位、家柄、学問もキリストに近づく翼とはなり得なかったのである。かえってキリストの真理を打ち壊そうとするほどの大いなる暗黒にあった。パウロをその真理に連れていったのは、学問や努力、修行でなく、天よりの光であり、復活のキリストであった。その光に打たれ、聖なる霊の力によって立ち上がらせてもらって初めてかれは魂の目がひらけたのであった。
ダンテがようやく達した煉獄の門、それは特別な意味深い岩石でできた階段を上ったところにあった。
第一の段は、真っ白の大理石でできていた。それは、その白さによって自分の罪のみにくさをはっきりと映し出されて知り、悔い改めへと向かわせるためなのであった。煉獄の門への階段の第一はこのように、みずからの罪を深く知ることからはじまる。それは現代の私たちにもそのままあてはまる。罪を明確に知ろうとせず、分からないときには悔い改めもなく、従って御国への前進がなされないのである。
第二の石段は、黒ずんだ石であって縦横にひび割れていた。それはみずからの黒い罪を知って、深く砕かれ、悔い改める心を象徴するものとなっていた。砕かれた心を神は最も受けいれられると詩編にもある。自分は正しいという思いをつづける者はひび割れていないのであり、魂が砕かれておらず、固くとざされている。それはまた真理に対しても固く戸をしめたままになると言えよう。
第三の石段は、重みのある岩石で、それは血管から血がほとばしるような赤い色、燃えるような色であった。それは、悔い改めにより、赦しを与えられたことに対して、燃えるような喜びと愛を現実の生活にあらわしている様をあらわすものであった。
このようにして一つ一つの石段を上って煉獄の門へとたどりついたのである。
そしてその最上段のところに土色をした衣を着た天使が門の番をしていた。
天使といえば、聖書の一部の記事や有名な画家たちが書いたように、例外なく真っ白とか、うるわしい色をした服を来ているように思いがちであるが、ここでは意外にも地味な土色なのである。それは、神のみまえに低いへりくだったものだということを示す色であった。煉獄を歩むということは、いたるところでこのように、神の前で低く砕かれたものになるということが示されているのである。
この天使によって、煉獄の門のとびらが開かれるのだが、それは非常に大きい音であった。閉まるときにも同様な耳にとどろく鳴り響きがあった。
なぜこのように煉獄の門がすごい音をたてて開くようになっているのか、それは、それほどに煉獄に入るということは重々しい出来事であるということが暗示されているし、入る人がごく少ないからこのように、大きなきしむ音をたてて開くのである。
煉獄の門を入る、それは悔い改めということと不可分である。一人の魂が悔い改めるとき、天において大いなる喜びがある、と主イエスが言われた。悔い改めは天の国では大いなる出来事であり、この煉獄の門もそのような大きい音をたてることでその重要性をも暗示しているといえよう。
現在も、もし、私たちが霊の目と耳とをすましているならば、人知れず心から悔い改めた魂を目ざとく見出した天の使いたちによって、喜びの声が響き、その人を迎え入れる扉が大きな音をたてて開いていくのを聞き、そして見ることができるであろう。
そしてその大きな扉からなかに入ったダンテは、奥から聖なる歌声が響いてくるのを聞き取った。「神さま、私はあなたをたたえます!」(Te Deum Laudamus)(*

*)この讃美は古代から有名なもので、アンブロシウス(四世紀の人)がつくったと伝えられてきた。 te (あなたを)人称代名詞の対格。Deum Deus(神)の対格。laudamus laudo(讃美する)の一人称複数形(我らは讃美する) 直訳は、「汝、神を 私たちは讃美する

悔い改め、神によって立ち上がらせていただき、導かれていく者は、彼方からの聖なる響きを聞くようになる。それは神を讃美する歌声である。神への讃美こそは、人間の究極的なすがたであり、その響きと歌声に接することによって私たちの魂も清めを受けるのにふさわしくされていく。
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人間のあらゆる言動は何らかの「愛」によって動かされている。たいていは間違った愛である。利得や自分自身を愛すること、特定の人間を差別的に大事にすること、飲食物への愛からさまざまの浪費にまでいたること、さらに地位や権力への愛ゆえに、多くの人たちは煉獄の門でなく、地獄の門へと入り込んでいく。
それゆえに、この煉獄篇第十歌において、ダンテは、冒頭にそのことを記している。
「曲がった道も真っ直ぐに見えさせる間違った愛のゆえに、多くの人たちはそれに惑わされ、この煉獄の門にいたることがごく少ない。」
主イエスも命にいたる道は「狭き門」であり、その門を見出すものは少ないと言われた。
ダンテは、その門を守る者に、へりくだって門を開いて煉獄のなかに入れてくれるようにと乞うた。その門番は、つぎのように言った。
「入れ、だが決して忘れてはならぬことがある。それは後ろをふりかえるものは、再び門の外に出てしまうのだ。」
この門番の言葉は、聖書を知る人にはとくに忘れられない言葉である。それは、旧約聖書の創世記に、あまりの大きな罪のゆえに、死海の南部にあったとされるソドムとゴモラの町が滅ぼされるときである。 アブラハムのゆえに、かれの親族であったロトとその家族は救い出されることになった。そのとき、天使が、つぎのように命じたことはよく知られている。
「決して後ろを振り返ってはならぬ。もしふりかえるならば、塩の柱になってしまう。」
しかし、それにもかかわらず、ロトの妻はふりかえったために、塩の柱となってしまったと記されている。塩の柱、それは現在の私たちにはまったく非現実なことのようにみえる。しかし、ダンテがこの険しい崖を天使によって運ばれ、やっとたどりついた煉獄の門の番人に、同様の言葉を語らせていることは、このことがとくにきよめられる道を歩む者として決して忘れてはならないということを示している。
後ろを振り向くと塩の柱となる。それは、塩の柱など見たことのない日本人にとっては、非現実のようでありながら、霊的な意味は深く私たちとかかわっている。ロトの妻の場合も、天使によって導かれ、逃げる先まで指示され、そのとおりに従えばよかったのであった。ロトの妻はその導きを振り切って裁きを受けている町々の有り様を見ようと後ろを振り返ったのである。
後ろを振り返ることくらい何でもないのではないか、誰でもどこでもなされていることだ、と思う人がほとんどではないだろうか。日常生活において私たちはたしかに何かあると後ろを振り返っている。それは過去の出来事を懐かしむとか、過去に生じた楽しい喜ばしい思い出にふけるとか、また逆に過去に犯した罪を心の痛みをもって、あるいは後悔の情をもって振り返る。そしてどうしてあんなことをしたのか、なぜこんな状態になってしまったのか、といったことを思いだすのである。
そうした過去の罪深い言動、大きな失敗、他人を傷つけ、自分の運命を狂わせたと思う人間へのうらみとか怒り等々、過去のことを振り返っているときには、たしかに私たちは「塩の柱」となってしまう。
魂の大切な部分が固まってしまい、前進できなくなる。枯れたようになってしまうということである。
ダンテも煉獄の門を入り、そこから前進して魂の清めの歩みをしていくものにとって、こうした過去のさまざまのことを振り返ることがいかにふさわしくないか、そのようなことをしていたら、再び前進のできない門外に出されてしまうということを強調したかったのである。
過去の罪や失敗を思いだすたびに、私たちはただちにそうした過ちをすべて赦し、帳消しにしてくださる、主イエスの十字架を仰ぎ、神の憐れみに満ちたみ顔を仰ぎ見るようにしなければならない。
まさに私たちが「塩の柱」と化してしまわないために、主イエスは十字架で死なれたのであった。その十字架を仰ぐだけで、私たちは固まってしまうことから逃れることができる。
十字架で流されたイエスの血がいわば私たちの魂の硬化を防ぎ、固まってしまったものをも、溶かしてしまうからである。
このような厳しい戒めを言い渡されたダンテは、前進していく。しかし、そこは決して広いなめらかな道ではなかった。
「あたかも、引き退いてはまたも寄せてくる波のように、その道は彼方へ、また此方へうねっていた。」ダンテはそのような岩の裂け目をのぼっていったのである。
この描写、これは魂の清めの道、御国への道を歩んでいこうとするものの状況をあらわすものである。じっさい、私たちがキリストを信じ、神を信じて生きていこうとしても、じつにさまざまの方向からその歩みを難しくするような困難、なやみ、思いがけないことが寄せてくる。右からも左からも波のように私たちをのみ込もうとするかのように。
しかし、そこを通っていかねば前進はできない。またそのような狭く困難な道であっても、導きがあるゆえに進んでいくことができる。
主イエスも、次のように言われた。
「滅びにいたる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか!」(マタイ福音書七・1314
ダンテのこの煉獄篇十歌の描写はまさにこの主イエスの言葉を、ダンテ自身の実感をまじえて書き記されたものだと言えよう。
そのようにして長い時間をかけて苦しみつつ歩んだダンテと導きをするウェルギリウスの二人はようやく、煉獄の清めを受けている台地へとたどりついた。
そこでまずダンテが驚いたのは、いかにも静かで、誰一人いない、荒野の道よりもなお寂しい平地であった。狭く細い道、そしてそのあとにあるのがこのように寂しい台地であったということ、ここにもこの道を歩む人がきわめて少ないということを象徴的に意味している。
これはまた私たちの実感でもある。時折大阪、東京などの都会に出ることがある。そこではぎっしりとビルが立ち並び、そこにはすべてたくさんの人たちが仕事をしている。電車は次々と驚くばかりの多数の人たちを乗せて走っている。しかし、そうした数知れない人々のいったいどれほどが、この神の国への道、主イエスの十字架の血により、また聖なる霊による導きの歩みを知っているだろうか。 目には見えない世界のありさまを思い浮かべるとき、たしかにダンテが言っているように、砂漠の道のように、閑散としている。この世の道路には車があふれている。人間は無数にいる。しかし御国への道は、歩いている人が見当たらないほどに霊的な砂漠なのである。
そうした平地は煉獄の山を環状に取り囲む台地なのである。そこでダンテがつぎに気付いたことは、山側の崖には、魂を引きつける彫刻がなされていたのである。まずダンテが気付いたのは、マリアの姿であった。そして彼女に、御子イエスの誕生を告げた天使の姿がそこにあった。それは生きているように彫られていたために、マリアに語りかけている言葉が聞こえてくると感じられたほどであった。そして、マリアの言葉としては、「私は、主のはしためです。」(*)というひと言が明瞭に彫られてあった。

*)原文のギリシャ語は イドゥー・ ヘー・ ドゥーレー ・キュリウー idou h doulh kuriou であり、直訳すれば、「見よ、つかえ女を 主の」となる。これは、「私は、本当に主に仕える者なのです。」といった強調のニュアンスがある。 ドゥーレーとは、ドゥーロス(奴隷、僕)の女性形なので、女奴隷という意味をもっている。英語訳のうち、原文の表現に近い訳をあげる。
Behold the maidservant of the Lord!
NKJV

煉獄の門を入り、細くて左右から波のようにさまざまの妨げのようなもののある道を進んで、ようやくたどりついたこの煉獄の最初の台地、そこでまず見たのが、このマリアと、彼女に御子の誕生を告げる天使であったということ、それは何を意味するのであろうか。 マリアはイエスの母という特別な選びを受けた女性であった。今日まで世界で最もその名を知られた女性はいうまでもなくマリアである。しかし、そのマリアの特質を一言にして言えば、それは主に全面的に仕える、主の奴隷のように主から言われたことに忠実に従うということであった。そこにこそ、人間がずっと見続けているべき姿があった。また天使からの喜びの知らせ(祝福)を受けるにふさわしいのはそうした心の状態だというのである。
このマリアの自らを主のしもべとして全面的に仕えようとする魂の姿勢を見つめるとき、その背後にいます主(神)をも見つめることになる。単に謙虚さにおいて模範的な人間をみるというのではない。真に御前にへりくだった人間と接しているとき、私たちもまた、その人がいつも見つめている主を見つめずにはいられなくなる。まちがった模範は、その人間を見つめさせようとするのに対して、本当に模範となる人物は、その人間を通して、いわば透かし絵のように、背後の神がまざまざと見えてくるようになる。
その点では、清さや美しさという点で完全な模範となる、一部の野草の花のすがた、色合いなど、それはそれを見つめるときには、そうした清らかなものを創造された神の無限に清いお心が浮かんでくるのと同様である。
次いでそこに刻まれていたのは、ダビデの神の箱の前で讃美しつつ踊る姿であった。神の箱とは、神の言葉をおさめた箱であり、旧約聖書の時代に最も重要視されていた。敵に奪われさまざまのいきさつを経てようやくその神の箱がエルサレムの町に帰って来たことを、ダビデ王は非常に喜んだ。それは、神が近くに共にいてくださること、神の言葉が民族の中心の場所に置かれていることを何より喜びとする姿勢があった。その喜びと讃美の心を、主の前で、からだ全体で表さずにはいられずに、ダビデは力のかぎり踊った。(サムエル記下六章)
それはダビデの妃から見れば、じつにくだらないこと、恥知らずなこととしてしか受けとれなかった。それゆえにダビデが家に帰ったときに、口にしたのは、そのようなダビデを見下した言葉、王にまったくふさわしくないという非難の言葉であった。
それは、神を見つめていない心ゆえそのようなことを言ったのである。真の謙遜とは、ただ神だけを見つめ、人間を見ないことである。神の御前に幼な子のような心でその喜びや感謝を表すこと、そしてただ神の語りかけだけに耳を傾ける姿勢なのである。
神のみを見つめる心、それは父である神を見つめるのだから、そのような心があれば、おのずから子供のようになる。主イエスが幼な子のような心でなければ神の国に入ることができない、といわれたが、それは真の謙遜とはどのようなものかを言われたのであった。
ダンテは、このダビデのすがたを「王以上、かつ王以下」といった特異な表現で記している。王以上というのは、そのように人々とともに喜び踊るほどに、神だけを見つめていたという点である。王以下というのは、ふつうの人間の目から見れば、はしたない姿であり、およそ王としての威厳もない、ということであったからである。
人間を見つめる心は、人間のなかで敬われたいという心とつながる。ダビデの妃は、王妃として敬われたいという強い願望が心にあったゆえに、自分がいわば王になりたいといった心情になっていたのである。王の妃ということで周囲の者たちがみな最大級の敬意を払うゆえに、いつのまにか、神を忘れ、自分が敬われるのがあたりまえと思い込んでしまったのである。
煉獄篇のこの台地に、神の前で踊って讃美するダビデとそれを見下す王妃のふたつが並べて刻まれていたのは、神をわすれた高ぶりと、神だけを見つめて王であるということを意識もしないほどになっている謙遜が対比されるためなのであった。
このようなことは、聖書の人物の特質だと言えよう。主イエスは、最後の夕食のまえに、弟子たちの足を洗ったが、そうしたことは、奴隷がする仕事であった。鞭打たれ、あざけられ、つばをはきかけられ、はりつけの刑にされるということは、最も重い犯罪人が受けることであった。
他方、そのような辱めを受けたあと、復活し、神と同質の存在として天に帰られたということは、人間をはるかに越える神の子としての姿であった。それはまさしく人間の最低のところを歩まれたのであるが、他方、人間には不可能な万人の罪を赦し、死に勝利するという神のわざをなしとげ、天の高みへと帰られたのであった。

ダンテはこのような、神のまえに低くされ幼な子のような心もて神を見つめる姿勢が彫り込まれた山の壁面を見つめていた。そのとき、人影もなかった煉獄の台地を向こうから重い石を背負ってからだを深くかがめて、胸を打ちながら進んでくる人たちが見えてきた。彼らは生前の傲慢が罰せられているのである。人々の前で高ぶった態度をとってきたゆえに、それが矯正されるために、重い石でからだが真っ直ぐはできないほどなのである。
ここでダンテは、この書を読む者たちに呼びかける。
「読者よ、彼らが罰を受けて苦しむ姿をみて、そこに心をとどめてはならぬ。そのような苦しみのあとに何がくるかを思え。」
神の国へのはっきりとした道を、清めを受けつつ歩む者は、途中でいかに苦しい目に遭おうとも、そのあとにくるものを見つめよ、というのである。悪をなして最後まで悔い改めなかった魂は地獄で苦しめられていた。そしてその苦しみのあとには全く希望がなかった。しかし、煉獄において、御国への道においてはいかに困難や苦しいことがあろうとも、必ずそのあとにはよきことがひかえているというのである。
苦しみそのものは、信仰をもっている人も持たない人にもしばしば同じように襲ってくる。しかし、信仰ある人と、そうでない人とでは、そのあとに来るものが全くことなるのである。
そして次いでダンテは当時の人たちに呼びかけて言う。
「おお、心たかぶっているキリスト者たちよ、心の目を病んでいるがゆえに、後ずさりしつつも意気揚々としている、痛ましくも疲れ衰えた人たちよ。」
高ぶった心は、まわりの者を見下し、自分をえらいとするものであるとし、人より進んでいると錯覚している。しかしじっさいはその高慢ゆえに、後ずさりしているにすぎないのだという興味深い表現となっている。
低くするものが先になり、高ぶるものがあとになっていくのである。


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