文を集める 2008/11
毎年「野の花」という文集を作っている。最初は集会員の文集ということで相互の考えや信仰を述べあうことで互いにより前進を目指すという目的であった。その後次第に、集会員の枠を越えて、「いのちの水」誌の読者や、集会に関わりある方々の信仰や考えを交流させる場となるようになり、さらにそれがキリスト教を知らない人たちへの福音を知らせるためにも用いられるようにということも目的の一つになっていった。
私たちがすることは絶えず、御心に一致したものでありたいと願う。そしてその御心とは真理が絶えず広がって、真理を知らない人たちの魂の闇に光を投じるということである。
自分たちだけの楽しみに終わるのならば、それは一種の娯楽になるし発展性はない。苦しむ魂を救うことにもつながらない。しかし、真理がそこに関わりあるならば、その真理がそれを読む人に働きかける。そして真理そのものが人を救いへと引き寄せる。
「野の花」もそのようにありたいと願っているが、それも主に委ねていくしかない。主が信じてなすことを祝福してくださるという信仰である。
長い文章、立派な構成の文章、あるいはだれも考えつかないことを掘り下げて考察した文、緻密な思索を裏付ける文、また言葉を効果的につかった詩文等々いろいろな文がある。この世の評価では、そうした方面の専門家が判断をして選び出したのが受賞作品となったり、俳句や短歌欄に掲載される。
しかし、キリスト信仰においては、いかに文がたくみであって、構成がよくできていても、また博学な知識を駆使していても、だからといって神に用いられるとは言えない。
それは知識そのものと同じである。どんなに博学でたくさんの学識があっても、それは神に用いられるとは限らないし、また他の人の救いにつながることも必ずしもない。今日では、パソコン、インターネットで膨大な知識が簡単に手に入る。しかし、だからといって現在の人々が真理により近づいて心が真実になったとか清い愛と正義や勇気が増大しているなどとはだれも思わないだろう。
イエスの当時にも、学者はいたし、経験豊富な知識人もいた。しかし、かえってそうした学者、知識は真理のさまたげにすらなっていたことがしばしば記されている。真理を求める幼な子らしい心、真剣さがなく、聖書(律法)に通じているはずの律法学者がかえって真理そのものであったイエスを憎んだり、偽善的であったりしたといったことが記されている。
現代でもそうした傾向がある。聖書に関する複雑な研究や議論がかえって、いま苦しむ多くの人たちを聖書の真理から遠ざけたり、すでに信仰をもっている人たちの信仰を揺るがせたりすることがみられる。主イエスはそのような、頭のよい人たちだけが理解して納得するようなことを言われただろうか。そんなことは決してなかった。だれでもが分かるようなやさしい言葉を用いてそこに深遠な真理を込め、そして神からの権威をもって話されたのである。
書くことにおいても、同様である。難しい表現や用語を使っても主が用いて下さらなければ何の意味もない。どんなに短くとも、また平易な言葉ばかりであっても、主が用いてくださるならば、人の魂の救いにすらつながるほどの働きをする。ここでも、私たちに求められているのは文章のたくみさでなく、信仰なのである。
信じる者には、山も動く、と主イエスは言われた。(マルコ十一・23)信じて成す者には、神が介入して神が働かれるからである。
人間も文と同じである。能力が小さいとか経験が浅い、何も知らない、等々と自分や他人の評価を簡単にしてしまうことが多い。しかし、どのような小さな人間も、能力の小さいように見えてもまた弱い者であっても、神が用いようとするときには大きく用いられる。弱いところにこそ、神の力は働くからである。(第二コリント十二・10)
弱さのただなかで発せられた一言であっても、主が用いるときには大きな働きをするという例として、福音書の中の記事がある。十字架でイエスとともに処刑されていた重罪人は、自分の罪を知り、このような処刑も当然の罰だと受け止め、イエスに向かって、「御国に行かれるときには、私を思いだして下さい!」というただ一言を主イエスに差し出した。命が絶えようとする激痛のなかであったからそれは弱さの極みであったと言えよう。しかしその一言は二千年もの間、無数の人たちを励まし、また希望を与えることになったのである。