青、緑、白 2008/12
初冬の朝、山道を歩く。周囲は緑の木々におおわれた山々。そして天に広がる澄んだ青空。そこに浮かぶ真っ白い雲。
地上では、ほとんどどこに行ってもこれらの三つあるいはそのうちのいくつかは私たちの身近に見ることができる。都会のただ中であってもなお、大空は頭上に広がっている。
緑は希望を表し、青空は神の無限の深みを示し、純白の雲はあらゆる汚れからの清められた状態を私たちに語りかけている。
新しい命は至るところで生じている。冬の到来にもかかわらず、緑の木々はたくさん山々を包み、一時は枯れたようになった落葉樹もとき至れば初々しい緑の芽を出してくる。緑は変ることなき神の命を象徴するもの、希望を私たちに語りかけている。
そして神の無限の深み、自然の世界の奥深さ、その神の御手の無限の多様性、そして人間や動物の持つさまざまの能力、さらに人間の集合たる社会全体の大きな流れである歴史において、人間の予想もできない大きなスケールにおいてその御計画を着々と進めつつあるその深さをあの青い空が指し示している。澄みきった空はたしかにどこまでも限界がない。神の御計画もあらゆる制限を超えた深みをたたえている。
使徒パウロも、神の歴史を通しての人類全体の救いにかかわる遠大な御計画を啓示されて、次のように感嘆の声をあげざるを得なかった。
…ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。(ローマの信徒への手紙十一・33)
そしてパウロが神から啓示されたことは、あらゆるものが、ばらばらになっていくように見える表面的な状況とは逆であった。
…すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている。(同36節)
この世界にはさまざまの暗い出来事がいつも生じている。しかし、そうしたことは最終的には闇に向かっているのでなく、私たちの理解や想像をはるかに超えたところで神の御計画と導きがあり、最終的にすべてを、愛なる神に向かわせているということを直接神から啓示されたのである。それはこの世のあらゆる災害や政治的混乱や社会的な問題を越えて、その深い底流が神の国に向かって流れているという啓示であったゆえに、パウロもこのようにその無限の深い計画をただ賛美するほかはなかったのである。
私たちも頭上に広がる青い空を見つめることによって、その神の雄大な計画、人間の考えや学問、想像をすべて超えた神の愛の計画を思い起こすようにとうながされるのである。
私たちの悩みや悲しみ、あるいは不安や恐れは、たいてい私たちの考えや想像が狭く、限られたものだから生じてくる。自分が大事にされていない、といったことだけで不満や怒りが生じることでもわかる。それはこの広大な世界において、自分のことだけを中心に考えるという著しい狭さから来るのであって、もし、自分という狭く小さいものから離れて、どこまでも青く澄んだ空のように無限の深みをたたえた神の御計画を思うならば、そうした小さな不満はおのずから消えていく。