第三の天にまで
使徒パウロは、その燃えるような伝道の日々のなかで、少なくとも十四年もの間でただ一度しか経験しなかった特別な体験を記している。パウロは主イエス以来無数のキリストの弟子たちのうちで、最も大いなる働きをした弟子であることは、彼の書いた手紙が、他の弟子たちの手紙と比べると、新約聖書のなかで断然多く組み入れられていることでもわかる。それはパウロという人間の考え、思想、エッセイのようなものとは本質的に異なっていて、神からの光を受けて書いたもの、啓示そのものなのである。そのような不世出の霊的天才ともいうべきパウロですら、生涯で一度しか経験できなかったように感じられる。
… わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っているが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられた。体のままか、体を離れてかは分からない。神が知っておられる。…
彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした。(Ⅱコリント十二・2~4より)
このように、一見ほかの人のことを述べているような書き出しであるが、その後で、これがパウロ自身のことであったことを示している。第三の天とは何であるか(*)、ほかには聖書にはこのような言葉は現れないので、はっきりとは分からないが、人間にはふつうは近づくことのできない特別に神に近いところを指していると考えられる。こうした通常の生活においては経験のできないような霊的な体験は、聖書においてはいろいろな人に与えられている。
(*)当時の考え方では、天の世界は何層にも分かれていると考えられていて、第三の天とはそうした層になっている最高の天であり、同時にそれは楽園(ギリシャ語でパラデイソス)であったと考えられる。主イエスとともに十字架にて処刑された犯罪人は、最期のときに、主イエスへの信仰を表して、イエスが御国に行かれるときには、私を思いだして下さい!と、死の間際であったが心からの祈りを捧げた。そのとき、主イエスは、「真実をもってあなたに言う。あなたは今日、私と共に楽園(パラデイソス)にいる。」と言われたことがあった。(ルカ福音書二三・42~43)
旧約聖書の世界では最大の人物といえるモーセは、十の最も根底となる神の言葉(十戒)を受けたときには、四十日四十夜、主とともにシナイ山頂にてとどまった。そのとき、モーセは神と語っていたが、その顔が光を放っていた。(出エジプト記三十四・28~30)
このような状態もいかにモーセが霊的に高いところに引き上げられていたかを示すものである。そうして高められて、永遠の神の言葉となる十戒が与えられたのであった。
また、旧約聖書のはじめのほうにあらわれるエノクは、神とともに歩んだのち、神が取られたのでいなくなった。という不思議な表現がなされている。エノクと並べて書いてある多くの当時の人たちは、みな「○○年生きた。そして死んだ。」とあるのに、ただ一人エノクだけがこのように、神が取られたと書かれている。それはふつうの人の死ではなく、神が取られたのだとはっきり区別されるほど異なるものであったのだとわかる。
旧約聖書の預言者たちのうちでもとくに重要なイザヤについては、預言者として呼びだされたときのことがつぎのように記されている。
…わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。
彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」(イザヤ書六章1~3より)
これは、預言者イザヤが神から呼びだされた最初のときに与えられた霊的な経験を表している。それは、神を見た、ということである。そしてそれと同時に、天使が聖なる賛美を歌っていたのを聞くことができたことであり、地上の混乱と闇のたちこめるただなかで、限りなく魂が引き上げられて天の国に入れていただいたことが表されている。
一般の人にとっては神とはいるかいないか分からない、ただ信じているという状況の人が多数を占めていると考えられるが、神はその御計画に従って、必要なときには特別に特定の人を選び、こうした特別な高いところへと引き上げられる。
パウロの体験も、エノクが神によって取られたように、その魂が神によって引き上げられて特別な高みに導かれたのだと言えよう。
ダンテの神曲にも、彼のそうした体験が背後にあると感じられる表現が折々にみられる。
…人間の世界から神の世界へ、
有限な時間から永遠の時間へ、
フィレンツェから、正しく健全な人々のなかに出た私は、
ただもう茫然自失の状態であった。…
驚きと喜びのあいだにあって、
私は何も聞かず、何も言わずに心満たされた。(ダンテ著神曲・天国編三一歌37~45より)
ヨハネ福音書の第一章には、この福音書の全体が要約されていると言える内容となっている。その第一章の最後にある言葉は次のような暗示的な言葉である。
「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(ヨハネ福音書一・51)
天が開けて、天使たちが人の子、すなわちキリストの上に昇り下りするとは、キリストが神の国と地上を完全に結ぶ存在であること、地上の人間でありながら、天からのものを完全に受けているということを象徴的に表している。これはヨハネ福音書がその冒頭で書いていること、キリストは神とともに永遠の昔から存在し、かつ神そのものでもあったが、地上に人間の姿をとって現れたということの別の表現である。
これはキリストだけに起こることではない。この「天が開けて、神の天使たちが昇り下りする」ということは、イエスよりはるか昔の時代には、アブラハムの孫にあたるヤコブにおいてすでに示されたことであった。ふつうの人間には、天の世界は閉じられている。
しかし、神によって選ばれた者には、天という無限の世界、目には見えない神の世界が開かれ、しかもその神の世界へと人間の思いや願いが通じ、さらに神からの祝福が注がれてくる、ということなのである。
兄から命をねらわれて遠い未知の土地へと逃げていくヤコブの旅の途中、人も住んでいないような荒れ野のただ中に、こうした驚くべき啓示がヤコブに与えられた。ヤコブは決して完全な人でもなく、人生に熟達した人でもなく、まだ若くほとんど人生の経験もない人にすぎなかった。それにもかかわらず、神はこのような大いなる啓示を与えて、天が開けて、地上の人間の思いが天に通じ、神からのよき霊的な賜物が人に流れてくるという体験が与えられたのである。
そしてヤコブの時代からはるかのちの時代のイエスにおいて、このことが完全に成就したというのが、ヨハネが受けた啓示であった。そして人生経験も信仰的経験も少ない若者にすぎなかったヤコブに与えられたように、現代の私たちにおいても、与えられることであるからこそ、ヨハネ福音書でも記されていると言えよう。
パウロの与えられた、第三の天に上るということもまた、「天が開けた」という経験であった。大多数の人々には閉じられている天の世界が開かれ、その奥深いところまで、引き上げられたということなのである。パウロの人間としての思いや願いは神にそのまま届き、神の国の霊的な豊かなものが注がれるという状態となった。
主イエスにおいては、常に天が開けていたと言えるが、自分の最後が近づいたときには、とくに三人の弟子を連れて高い山に登った。そして次のようなことが生じた。
…イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。(マタイ一七・2)
これは、イエスが人間でなく、神と等しいお方である、ということを示すものであった。天が開けて神の国の光や完全な清い霊が注がれたゆえに、このように輝く姿となった。
私たちにとって、神との深い霊的な交わりが与えられるということは、言い換えると神と人間の深い愛の交わりが与えられるということである。そのことを、ヨハネ福音書において、主イエスは、「私の内に留まれ。そうすれば私もあなた方の内に留まる」と繰り返し言われたし、さらにそれを言い換えて「わが愛の内に留まれ」と言われた。(ヨハネ福音書十五章4、9など)
そしてこのことをさらに別の表現として、「私たちの交わりとは、父なる神と、神の子キリストとの交わりである」(ヨハネの手紙Ⅰ一・3)と言われていて、そのような神とキリストとの霊的な交流を人々が持つようになるためであると書かれている。
神とキリストとの交わり(コイノーニア)とは、実に奥が深い。この交わりは、その入口にはすべてのキリストを信じるようになった人たちが入ることができる。神が存在する、目には見えないけれども、私たちを励まし、慰めて下さる存在を少しでも感じるとき、そこには神との交わりがある。神に祈ることができるということはすなわち、神との交わりである。キリストのことを思い浮かべてそこから力を与えられること、十字架のキリストを仰いで、罪の赦しを実感することができるなら、それもキリストとの交わりを与えられていることである。
そのような交わりはすべての人に開かれていて、信じるだけでその経験が与えられる。
そこからこの交わりはどこまでも深くなっていく。すでにあげた、使徒パウロの第三の天にまで引き上げられたという経験もまた、この神とキリストとの交わりの特別に深い体験だと言える。
パウロは、このような特別な経験とは別に、キリスト者ならだれでも与えられる神やキリストとの交わりについては、「主にある」、「キリストにある」という表現を用いて表している。英語の in the Lord や、in Christ といった表現はギリシャ語の原語の表現(en kuriw)をほぼ再現していると言える。
パウロはこの表現を非常に多く用いている。この二つの表現は新約聖書には一六四回も用いられている。これに対して、この表現は福音書や使徒言行録、ヨハネやヤコブの手紙、あるいはヘブル書などには全く用いられておらず、ペテロの手紙と黙示録には一度ずつ使われているだけである。
これを見てもいかにパウロがこの表現に彼の信仰とその体験を込めていたかがうかがえる。新共同訳聖書では、それらの表現の多くが「キリスト(主)に結ばれて」という訳語を用いているので、原語や外国語には訳されている、「~の内に」というニュアンスが感じにくくなっている。
キリストは霊的存在であり、聖霊でもある。それゆえに、その聖なる霊の内に置いて頂けるということ、それがキリスト者の最大の恵みなのである。
このパウロの「主の内にある」という特別な表現とその強調は、ヨハネ福音書では、「キリストの内に留まる」という表現となってやはり強調されている。
ヨハネ福音書では、この「留まる」という原語メノーは、三八回、その手紙を合わせると合計で六四回も使われている。(*)
しかし、ほかの三つの福音書を合わせてもこの語は十二回、またパウロはその全書簡を通じても十一回程度しか使われていない。
(*)ヨハネ福音書では、この言葉は、ヨハネ十五章の有名なぶどうの木のたとえにおいても、「(主と)つながっている」「内にある」「とどまる」などいろいろに訳されているので、同じ原語が繰り返し使われているということに気付きにくい訳語となっている。
しかし、本質的な内容は同じなのであって、パウロの手紙においても、ヨハネ福音書においても、いかにキリストの内にあることが重要であるかを聖書は示しているのである。
キリスト教信仰によってどんな恵みが与えられるのか、それはまず、人間の魂の最大の問題である心の汚れ(罪)が赦され、過去の罪深い生活が赦されること、現在の生活においても毎日の生活の罪を赦され、清められること、そこから新たな力を与えられ、日々の生活の支えとなり、前途の希望が与えられること、思いがけない出来事が生じても最終的にすべて主が導いて下さると信じられること等々数知れずある。
そうした恵みの出発点であり、中心でもある罪の赦しはいつも私たちに与えられているが、それだけで終わることなく、私たちは主の内に深くとどまることが与えられている。それは言葉では表すことのできない霊的な恵みと体験であるから、それをパウロやヨハネは、「主の内にある」とか「主の内に留まる」といった表現でさし示しているのである。そこからどれほど奥深い世界があるのかは、ただ主の恵みにより導かれた人、また、「求めよ、そうすれば与えられる」という主イエスの約束に従って、心砕かれて求める人に与えられるのであろう。
ヨハネはそうした霊的な恵みを、その福音書の巻頭において記している。
…私たちは皆、この方(キリスト)の満ちあふれる豊さの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた。」(ヨハネ一・16)
この表現は、この福音書記者がキリストの内に留まり、どのような霊的な深みへと導かれ、天の国に属する賜物を与えられたかをうかがわせるものであるが、それが福音書の最初の部分に置かれているということは、そうしたあふれる恵みへとキリストはすべての人を招いているということを示している。
聖書は一部の特異な賜物を与えられたひとの書でなく、万人への幸いのおとずれを告げる書だからである。
ヒルティはこうした霊的に豊かな賜物を与えられる体験について次のように語っている。
…自分の生活の内に神をそこはかとなく感じることは、われわれにもできることであり、神からわれわれに伝わってくる力を感じることはできることです。…どんな人の生活にも、神の本体に非常に近づいた感じがし、その実在をもはや疑い得ないような瞬間が、少なくともあるものです。
…プロテスタントの教会では、神との直接的交わりを重んじること(*)が乏しきにすぎます。そこでは、彼らの説き得る信仰をもってこの世の最高のものと見ていますが、じっさいは最高のものは恵みなのであり、神が内面的に現れること(**)にほかなりません。
…神に心を傾けることによって、人は神を得るのであって、神に関する知識や研究によってではありません。そして神と交わる場合においても、それは地上における最高の幸福であり、地上唯一の、完全に純粋な喜びでありますが、人と交わる場合と同じことが基準になります。
愛と誠実(真実)がすべてなのです。愛と誠実がなければいかなる信仰も行いも役には立ちません。…
あなたご自身が、この「神に近づくこと」を経験されるように祈っています。それは人生の頂点であり、白銀の輝きなのです。(***)
(「Briefe」(書簡集)手紙形式でヒルティが書いた著作。 邦訳名「愛と希望」白水社刊 ヒルティ著作集第六巻150~156頁より)
(*)Mystik このドイツ語は、日本語では、神秘主義と訳されるが、神秘的なことを何でも指すのではなく、ヒルティが用いているのは、神との直接的な交わりを重んじる信仰のあり方という意味である。
(**)Gnade und innere Erscheinung Gottes
(***)Mochten Sie die Gottesnahe selbst erfahren;das ist des Lebens Hohepunkt und Silberblick.
このような神との深い霊的交流は、キリスト教の長い歴史のなかでもいろいろな人たちによって証しされてきた。
アシジのフランシスコ(*)も特にそうした霊的に高いところに引き上げられた人として広く知られている。
(*)アッシジのフランシスコ (一一八一~一二二六年) フランシスコ会(カトリックの修道会)の創設者。フランシスコとは、「フランス的」といった意味。大多数の日本人にとっては、このフランシスコというキリスト者の名前は、個人の名としてよりも、アメリカの大都市サンフランシスコという地名で広く知られている。この都市は、フランシスコ会の修道士が創設者の聖フランシスコを街の名としたものである。「サン」とは、サント santo(聖なる)の短縮形。アシジとは、イタリアの地名。フランチェスコは、イタリア語読み。
一二二四年の八月、フランシスコは、自分の生涯が終わりに近づいていることを知って、アルヴェルナ山に出かけて深い祈りに徹した。 ある夜、弟子がフランシスコの祈りの場に近づくと彼は、声をあげて祈っていた。
「最愛の主なる神よ、あなたは一体どういうお方でしょうか。また、あなたの役に立たない虫けらのような私は何でしょうか。」と繰り返して祈ったのである。それは、次のような意味だとあとで、フランシスコは、その弟子に話した。
「その祈りによって、二つの光が啓示された。一方の光には、創造主を認め、もう一つの光には、自分自身を認めた。
神の善の無限の深さと、自分自身の悲惨の悲しい深淵を見た。だから私は、『主よ、いと高く、賢く、いと憐れみ深いあなたは、何なのでしょう。いとも、あわれな虫けらのような小さな被造物である私のところに来てくださるとは』と言ったのだ。」
このように、フランシスコは、死が近づいているときに深く感じていたのは自分自身の卑小さと神の無限の愛の深さであった。そしてそのような深い認識の後で、神はフランシスコに特別なしるしを与えられた。
ある夜、彼の深い祈りのなかで、次の二つの願いをかなえて下さるようにと主イエスに祈った。
一つは、主イエスが十字架の苦難で耐え抜かれた苦痛を、自分の心と体でできるだけ感じること。
二つ目は神の子である主イエスの燃え立つような愛、イエスを動かして罪人のために苦しむように仕向けた大いなる愛を、自分の胸の中でできるだけ感じることであった。
そうした祈りをもって長く祈っているとき、天から御使いが現れ、フランシスコは激しい苦しみとともに彼の胸には炎のようなものと、神への生き生きとした愛が残り、彼の体には、手足と胸にキリストが十字架で処刑されたときの傷跡が残された。
アシジのフランシスコにおいては、パウロの第三の天にまで引き上げられるということに相当する経験は、このように、徹底して自分の卑小さを知り、キリストの受難という深淵な意味をみずからの体に同じような傷を受けるという苦しみを知るほどに、キリストと一つにされた経験となったのであった。
パウロもまた、霊的な高いところに引き上げられたが、そのことを誇ることのないようにと、その肉体にいやしがたいとげを持つことになった。パウロがそのために必死にいやしを求めて祈ったが、それはいやされず、かえって主から、「私の恵みは十分である。神の力は弱いところに完全に現れる」というみ言葉が示されたのである。
このように、人間は、神によって高められるときには、私たちが通常では考えることもしないような高みへと引き上げられ、神を単に信じるだけでなく、確かに生きて働いておられること、その愛を深く実感させるのがわかる。
そしてそれは決してそのような高められた状態を誇るとか楽しむためには与えられない。自分の罪や弱さを深く知らされ、神の無限の大きさと愛を知ってどこまでも低くされ、力を与えられ、そこから御国のために働くために与えられるのである。