リストボタンチェンジと改革

アメリカのオバマ大統領がチェンジ(変革)という精神を表明してその言葉に込められた思想に多くの人々が共鳴した。
日本の首相の初めての国会演説でも、この変革という言葉が多く使われた。現在の制度を部分的に変えるということでなく、根本的に変えるというニュアンスをもって使われている。
しかし、そうしたメッセージを出すことはできても、永続的にチェンジしつづけることは極めて困難なことである。じっさい、アメリカの大統領にも日本の新しい政権においても、そうしたチェンジをさせまいとする多くの勢力が現れてきている。
そのようななかで、国家の指導者とか責任ある部署についていなくとも、私たち一人一人も実は、少しずつ今の自分を変えることと共に、根本的な変革をとげることができるのである。そうしたチェンジは、反対勢力がつぎつぎと起ころうとも、それに関わりなく可能である。
ある目には見えない大きな力が迫ってくるとき、私たちは変えられる。新約聖書における最大の使徒パウロもペテロたち十二弟子たちも同様であった。自分でチェンジしようとしてもどうしてもできなかった者であっても、神の一方的な迫りによって転換されたのである。パウロは、ユダヤ教を堅く信じ、イエスという男はそのユダヤ教を壊そうとしているのだと信じてキリスト教徒をきびしく迫害していた。その方向は徹底していて、国外にまでキリスト者を追いかけて捕らえに行こうとしたほどである。
しかし、そのようにしてまちがった方向に突っ走っていたパウロは、突然その方向を百八十度転換させられたのは、生きてはたらくキリストの力が迫ってきたからであった。
ペテロやヨハネたちの十二弟子たちも、イエスの死が近づいても自分たちのうちだれが偉いのかなどと議論しあったり、自分の考えや力に頼るという方向を変えることはできなかった。そのような強固な方向性をやはり根本的にチェンジされたのは、聖霊を注がれてからであった。
それは、自分の性格や習慣、考え方などの一部が変えられることでなく、私たちの存在そのものが向かっている方向をチェンジすることである。
人間に向かい、最終的には死に向かっていた人生を、神に向かい、永遠の命に向かっていくチェンジなのである。それゆえ、聖書ではそのことを、最も重要なこととして記している。
主イエスのメッセージにそれは言われている。

あなた方の魂の方向転換をせよ、神の正義と愛による御支配はもう来ているのだから。(マタイ福音書四の十七)
(現在の日本語訳では、「悔い改めよ、神の国は近づいた。」であるが、悔い改めというのは何かの間違った行いを個別に改めることでなく、原語の意味は方向転換ということである。これは、旧約聖書では、このことは、「立ち返れ」と訳されていることが多いが、その原語のヘブル語ではシューブも同様に方向転換であって、英語では turn または、return といった意味を持っている。 )

本を読んでも、また、多くの経験をすることによっても、確かに何かは変る。部分的に変えられる。しかし、魂の方向全体は変わらない。やはり自分中心、人間中心、そしてそれらは最終的には死ということで終わる。何億年という長い時間でみればこの太陽や地球そのものも滅びに向かっているのである。そのような方向から抜け出すことは、いかに書物を読んでも研究しても、科学技術が進んでも決してできない。
しかし、それは神に方向転換をするとき、全くことなるものに向かっているのが分る。そのことを聖書は一貫して述べている。
そして、方向転換ということ、これはただ一回きりのことではない。日々なされることであり、そのつど、新たにされるのである。

だから、わたしたちは落胆しない。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていく。(コリント 4の16)

日々新たに、という実感、それは私たちの内なるものが日々神に向かって方向転換をなされるときに生じる。過去のことや、現在の小さなことを見つめているなら、「新たにされる」という実感はなく、かえって古びていく気持ちになり、停滞していく。
詩篇二三で言われているように、主は私たちを緑の野に伏させ、憩いのみぎわに伴われる。それは、日々新たな霊的食物をいただくということであり、それによってこの世のよどんだ世界から神へと方向転換をさせて下さるということであり、そこに日々フレッシュな気持ちが生まれることを示している。


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