大いなる転換
― 弱さから力へ
詩篇 第六編
主よ、怒ってわたしを責めないでください。
憤って懲らしめないでください。
主よ、憐れんでください。
わたしは嘆き悲しんでいます。
主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ
わたしの魂は恐れおののいています。
主よ、いつまでなのですか。 (二~四節)
主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。
あなたの慈しみにふさわしく
わたしを救ってください。
死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず
陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません。(五~六節)
わたしは嘆き疲れた。夜ごと涙は床に溢れ、
苦悩にわたしの目は衰えて行き
わたしを苦しめる者のゆえに老いてしまった。(七~八節)
悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。
主はわたしの泣く声を聞き
わたしの嘆きを聞いてくださった。
主はわたしの祈りを受け入れてくださる。
敵は皆、恥に落とされて恐れおののき
たちまち退いて、恥に落とされる。(九~十一節)
まず最初にどうして「怒ってわたしを責めないでください」と言っているのだろうか。この詩を書いた作者は、その具体的な内容は分からないが、重い罪を犯し、そこから厳しい裁きを受けて、非常に苦しい状態に置かれていたのである。自分の犯した罪のゆえに、この苦しみを罰として受けているということがはっきりとこの詩の作者には分かっていた。
これはダビデの詩と伝えられているが、たしかにダビデは重い罪を犯し、そのために家庭に悲劇的な事態が生じ、自分自身も非常な苦しみにあえぐことになった。そしてこの詩のような罪のゆえの苦しみはダビデでなくとも実に多くの人たちが味わっているであろう。
最も深い苦しみや悲しみは、自分の愛するものが失われたり、あるいは愛していた人、信頼していた人から裏切られたりしたとき、そして、もう一つは自分という人間の最も深いところでの罪ゆえにおきた事態ゆえの悲しみである。
愛する人を失う悲しみ、また信頼を裏切られた悲しみなどは、キリスト教信仰と関わりなく存在する。だれもが程度の多少はあっても経験していくだろう。しかし、罪ゆえの深い悲しみというのは、とくに神を知った人が一層深く感じることだと言える。罪の深さ、重さは神という正義と愛の無限に豊かなお方を知ってはじめてわかることだからである。
「わたしの骨は恐れ わたしの魂は恐れおののく。」と3,4節にあるが、「骨が恐れる」という表現は現代の私たちにとっては、違和感を与えるものである。
このような表現は、例えば新聞や雑誌では、まず目にすることはない。これは、私たちはまず使わない表現である。こういう点からも詩篇はわたしたちには、なじみにくいものだと思いがちである。
人間の体で奥深いところにあって全身を支えているものを「骨」と表すことは、聖書においては何度かあることである。どうしても風土が違うのでわたしたちは全く使わない表現が、確かに使われる。
現在のわたしたちではどのように表現するであろうか。そのことを考えるために、別の例をあげてみる。
「私は水となって注ぎ出され
骨はことごとくはずれ
心は胸の中で蝋のように溶ける。」(詩篇二十二の十五)
ここの表現もなじみにくい。わたしに水が覆いかぶさってくるというような表現であれば、意味は分かるが、自分自身が水となって注ぎだされるということは、これもまた特別な表現である。また骨がことごとくはずれるというのも、文字通りであるはずがない。
これは自分が水のように全く無力になって、自分の存在自体がじっと固まって立っていることができず、粉々になってしまうということを、同じような表現を繰り返して表している。
また「命は嘆きのうちに 年月は呻きのうちに尽きていく。罪のゆえに力は失せ 骨は衰えていく。」(詩篇三十一の十一)
この箇所にある、骨が衰える、といった表現を現代人がそのまま読むと骨粗しょう症のような状態になったのかと、思うかもしれない。ここでは自分の身心の奥深いところが衰えているということを、言い換えている表現なのである。
そのことは、「目も魂も内臓も衰えていく」(詩篇三一・10)という言葉でもうかがえる。
このように「骨」という言葉が詩篇にもあちこちにある。これらは、現代の私たちが思い浮かべる生理学的な骨とはちがっているのはこうした例を見てもわかる。
訳語を表面的に読んで、聖書の時代の人は私たちにとっての骨を思い浮かべて、その「骨が恐れる」というふうに考えるのも間違いである。このようなことを知らなければ、創世記に出てくる有名な表現も、間違って受け取ってしまうであろう。
アダムのあばら骨から女をつくったという箇所であるが、その時アダムがエバをを見て最初に言った言葉が「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。」(創世記二・23)
このような表現に接してたいていの人は、文字通りに受け取り、奇妙な、理解しがたい表現だと思うであろう。この場合も言おうとしていることは、女とは、私の存在の奥深いところと一致している分かちがたい存在だ、ということなのである。
このような理由で、詩篇六篇に現れる「私の骨は恐れ…」というところを、ある英語訳では「骨」を分かりやすく「私のからだ」(my body)を使って、My body is in agony.(私のからだは、苦しみの内にある)と訳しているものもある。
以上のようなことを知っておかなければ、「骨が恐れる」といった不可解な表現によって、この詩が読む人の心に入っていかず、力とはなりにくいといえよう。
この詩の作者が体験してきた非常な苦しみというのは実は「罪」から来ている。詩篇全体のうちで、七つが罪の悔い改めの詩篇とされてきたが、詩篇第六編はキリスト教の古い時代から、その最初の詩篇とされてきた。
誰でも罪を思い起こせば思い起こすほど、たくさん思い当たる。人間と言うのはたまに罪を犯すのではなく、毎日さまざまの罪を心で犯し、言動で犯しているものである。
みんな自己中心的であり、真の思いやりというのも、わずかしかないと言えよう。
また人間は苦しいときになって初めて、自分の罪を真剣に思い起こす。
「罪の苦しみ」をこれ以上耐え難いから、どうか赦してください、憐れんでくださいと叫ぶ。現状から必死に神に向かって、自分の罪から来る苦しみ、裁きをどうか止めてくださいと叫び、また五節からは助けてください、救ってくださいと言葉を変えて言っている。
この詩の作者の深い苦しみや悲しみとは具体的には、病気の苦しみであり、敵対する者から受ける苦しみであったと推測される。
罪ゆえの裁きに恐れ、そのままでは生きていけないというほどの状況にあったのは、「死んでしまったら、神への感謝をささげることもできない」(六節)と言っているのでもうかがえる。
このような表現によって、この詩の作者は死ぬほどに苦しい状態に置かれているのがわかる。
この作者が助けて下さいと祈るのは、今の苦しみが激しいからであるが、それとともに、意外なことに、死んでしまったら、神に讃美もできなくなり、また感謝を捧げられなくなるという理由で、救いを求めている。
このような理由でどうか救ってくださいという人は、ほとんど聞いたことがない。このように書く人がいるほどに、旧約聖書の時代の人は神への讃美と感謝をするということを、人間の当然のあり方だと見なしていたことがうかがえる。
旧約聖書の時代においては死後の国・陰府の国というのは、暗い影のような世界であって、そこでは讃美も何もかもなくなってしまうと見なされていた。復活して神のところに行くというような信仰は、まだ啓示されていなかった。
イエスは、十字架での死後、父なる神のもとに行くと聖書には書かれているが(ヨハネ十六の五など)、旧約聖書の大部分の内容においては、そのような死後のことはほとんど書かれていない。アブラハムでも死んで先祖の列に加えられたと書かれているだけであって、アブラハムが死んで天のもとへ帰ったというふうには書かれていない。先祖の列に加えられた、とは、要するに死者の世界に行ったということである。
このような旧約聖書の内容を知るとき、キリストが復活したというのは聖書全体の歴史の中でも極めて大きい出来事、根本的に新しいことであった。死後に復活するとかいうことは、ヨブ記、詩篇、ダニエル書の一部には見られるところがあるが、大体においてはまだ示されていない。
この詩の作者は、夜ごとに涙を流すほどに、悲しみと嘆きの中にあったし、あまりの苦しみに目もかすみ、老いてしまうほどであった。
みずからの罪のゆえの苦しみ、そこからくる病気や悪意をもって敵対してくる人たちから受ける苦しみなどが、この作者の身心を滅ぼしてしまおうとする状況が記されている。
このような絶望的な状態がどれほど続いただろうか。その期間は記されていない。しかし、このような真剣な神への祈り、叫びはそのまま捨てられることはありえない。
この詩の作者も時がきて、神からの応答を受け、それまでの絶望的状態から大きく変えられたのがわかる。これはとても大きな変化であった。
このような、内容的に大きな変化ということは詩篇を注意深く学んでいると、しばしば気づくことである。
八節までは死が近いと思うまで、恐ろしい苦しみや悲しみに打ちのめされていた。それなのに九節で「悪を行うものよ、皆わたしを離れよ。」と立ち上がる力もなかった人が力強い調子に変えられたのがわかる。
それは、主がこの苦しむ人の声を聞かれたからであった。「主は、わたしの泣く声、嘆きを聞いてくださった」(口語訳)
ヘブライ語では完了形という形で書かれてあっても、確実だとみなされることは、たとえ未来に起こることであっても、また現在のことであっても、完了形で表すことがある。そういう点で、ここの訳は「聞いてくださった。」とするのが我々の感覚に一番近い訳になる。二十種類以上の英語訳を見てもほとんどは、 The LORD has heard my cry for mercy.と現在完了形で訳されている。なお、新共同訳は、「泣く声を聞き、…嘆く声を聞き…」と現在形で訳してある。「聞いてくださる」というのは現在の状態であり、神への信頼、信仰を表すが、「聞いてくださった」となると、現実に実現した事実だということになって、ニュアンスがちがってくる。
詩篇第六編で言おうとしていることは、人の魂の転換である。これだけ極限状態に追い詰められていても、これほど大きな変革がなされうるということである。
激しく苦しい絶望的な状態に追い詰められ、それがいつまで続くのかという非常に苦しい状態がずっと続いて、わたしを苦しめる者ゆえに老いてしまったほどである。心身が消耗したら、白髪になるということも実際にある。
しかし、そこから突然九節のように神が聞いてくださったという大きな変化が生じている。そして神の言葉を聞き取ったがゆえに、確信が生まれ、新たな力が与えられた。それまでは悪に対抗することもできず、まさに闇の力にのみこまれようとしていた。もしこの詩の作者が神を知らなかったら、そもそも祈ることもしないし、そこから大きな転換を遂げることもできない。
万能にして愛と真実の神など全くいない、と信じている人は、人生の突然の悲劇や荒波に呑み込まれようとするとき、いかにして耐えられるであろうか。
この詩の作者は、悪の力に対して「離れ去れ」と、立ち向かう力を与えられた。これは、主イエスが十二弟子を派遣したときに、まず悪霊を追いだす権威を与えたことを思いだす。
そして、主イエスがご自身の最期のときが近づいたとき、十字架にかけられるということを弟子たちに予告したが、ペテロは「そんなことがあってはならない」とイエスを引き寄せて叱ったことがあった。そのとき、主イエスは、「サタンよ、退け!」と厳しく一喝された。ペテロは神の深い御計画のことを考えようともせず、人間の小さな考えや願いを優先させたからであった。
それは神の権威を持ったお方のみの力をもって言われたのである。
このように、悪の力に対して、退け! と命じる力を与えられるということ、それは神からの力を十分に受けて始めてできる。そのような力をこの詩の作者は与えられたのであった。
このような、悪に対しての力、それは私たちの日々の生活においても重要である。そして、悪の力に対抗するためには、神の力を与えられるようにと祈ることが当然結びついてくる。それゆえに、何をどのように祈るべきかを、教えられた中で、「御国が来ますように」と祈れと教えられた。それは、神の正義と愛による御支配が来ますように、という意味であり、それは、悪の力、その支配が退けられますように、という祈りをも含んでいるものなのである。
そしてこの詩の作者においては、最終的には悪の力は滅ぼされる、という確信が与えられたのであった。(新共同訳では「恥に落とされる」)
かつては強い力をもって神を信じて歩む人たちを苦しめていたがそうした悪の力が骨抜きとされる。このように、みずからが全く新たな力を与えられるとき、悪の末路に関してもはっきりとした確信を持つようになった。
これは古代のキリスト教会のときから言われてきた七つの悔い改めの詩篇のなかの最初のものである。
真に悔い改めるとき、すなわち神の方向に魂が方向転換するとき、普通では考えられないような根本的な転換が生じるのだという証しがこの詩篇なのである。
神への魂の転換こそは、この世のあらゆる悪の根源に対しても勝利する道であると言おうとしているのである。罪の赦しを受けることがいかに力を与えられるか、それがこの主題となっている。
新約聖書でも中風で苦しんでいる人を友人たちがイエスの前に連れてきた。彼らは友人の中風を治してもらいたいのに、イエスは、病人を運んできた人たちのイエスに対する信仰をみて、「あなたの罪は赦された」と言われた。(マルコ二の五)
病気を治してもらいに来たのに、罪を赦されたというのは一見不可解であるが、実は様々な苦しみの奥には赦されていない罪があるという見方が、非常に古い時代から見られていた。
このように聖書の言葉は、非常に奥深いものがある。知れば知るほど聖書と言うのは、一見これだけのものだろうと分かったと思っても、さらにその奥があり、旧約聖書が新約聖書に不思議なところで繋がることが分かるのである。