以下の文は、奥出雲の加藤歓一郎(一九〇五~一九七七)が発行していた「荒野」誌に掲載されていたもの。高橋勝子とは、加藤に信仰の導きを受けた女教師で三八歳の若さで召された。
陶山久則君のけが
高橋勝子
(一)十二月二十日の事
校内はどことなく、忙しそうである。みんな自分の仕事に余念がない。公民館では、久宗壮氏の立体農業の講演が始まっている。
その時、「先生これ頼みます。座談会の茶菓子です。」久則君のまっさおな顔。ぱたっと、上り段に体を投げ出した。
「あら、どうしたの」「いや、たいしたことありませんが、腹が痛い。」「何か悪いものでも食べたの」
「みかんを少し食い過ぎた位で……。」「そうお、でもそんな所にいたらいけないわ。さあ、上ってこたつで休みなさい。」と連れて上った。
その時なぜ容態が異常なのに、気がつかなかったのだろう。自転車で腹部を打ち、内臓が破裂して、刻々と内出血していたのだから、その痛さ、その苦しさは、筆舌に尽せぬものがあったであろうが、我慢強い久則君の言葉に、単なる腹痛に過ぎないと思った私、そのまま、公民館に上ってしまったのは、何という不覚であったろう。手後れの原因がこんな処にあったのだ。その上本人は刻一刻と生きる力を奪われているにもかかわらず、夜の講演も聞いてからと、家に帰ろうともしなかったのだから。
(二)手術室
それから、二十七、八時間後、雲南病院の手術室に、歯をくいしばりながら、横たわっている瀕死のけが人、血を三分の二も失って、なお生きようとしている若き生命を前に、「助かる見込みはない」たとえ手術が終るまで、生命があってもこの失われた大量の血の補給は不可能に近い。しかし、万が一にも、実現するかも知れない奇蹟を頼みに、いやそれを祈りつつ、メスが入れられたのだ。
四時間にわたる長い手術、衰弱し切った体に全身麻酔はかけられず、局部麻酔のみで、行われたのだ。
その間にも、何時息が切れるかもわからないからと、枕元に立たされた、お父さんの御心境はどんなだったでしょう。
麻酔の切れた痛さ、もはや精魂尽き果てて意識を失った久則君の口から、意外にも元気な言葉がとび出したのだ。「校長先生、きっとやりますぞ……」、「糸原先生、糸原先生、椎茸はどうなったろうなあ」「綿羊(めんよう)は…。」
意識を失った彼は、きのうまでの元気な彼に、大地に足をふんばって、農業に生きがいを見い出し、希望に瞳を輝やかせていた彼に帰って行ったのだ。
そして、三年間、いや卒業後も、折りにふれて真の人間の生き方を、教えてやまなかった加藤歓一郎校長先生の魂と、その道を歩まれた糸原先生の信念が、彼の無意識の底にまでしみこんでいた。
それが、意識を失い、表面の雑念が取り去られた、純粋な飾らない心から、ほとばしり出たのだ。
意識して言うお世辞ではなく、息の切れようとする、まぎわに「校長先生やりますぞ。」と真の言葉が叫ばれたのだ。
息は切れた。脈が止った。肉体はこの幾重にも重なった悪条件に耐えきれなかったのだ。
(三)ふれあう生命
しかし、彼の生きようとする意志は、みごと蘇生させたのだ。手術が終った彼に、必要なものは、大量の血であった。「輸血」それのみが、唯一の頼みの綱であった。
「輸血」、「O型」と友人から、友人へと伝えられるや、誰に頼まれたものでもなく、誰からも強制されたのでもないのに、唯友の命が助けたい一念で、深夜自転車でずぶ濡れになりながら駈けつけた人々を見かけた。
生命の尊さと、生きることの意義をつかんで互の幸福のために、共に働き、共に研究して来た友の一人を、あんな事で失いたくないと中断することの出来ない輸血の為に、病院内に泊り込んだ人々もあった。
そして、とうとう五日間にわたった。理想的な輸血を為し遂げたのだ。その事実に驚嘆された院長は「今までにも瀕死の病人の手術をしたことがあるが。今一歩というところで輸血が続かなくなり、みすみす殺してしまわねばならぬことが多いのに、こんなにも多量の血のしかもO型の輸血がよくも続けられたものだ。」と話されたと言うことです。
そして彼等はとりとめた生命の喜びを語り合うだけで、少しも誇るところは見られなかった。
不思議だ、頭に描きこそすれ、実現は遠い「かなた」だと思っていた人間の団結の美しい在り方を、生命の尊さを、真底まで知り抜いて、その為なら苦難と奉仕をいとわぬ、真実の人間の生き方を、若い世代の人達が、しかも、一人や二人でなく多数の若い人達によって実現されたことに限りない敬意を棒げます。
(四) 僕は生きたい
意識を回復した三日目、病室を訪れた私に「先生、ほんとに苦しかったですよ。幾度死んだ方がよいと思ったかしれません。だから、今までのような、ねうちのない、生き方をするなら、あんなにまでして、助けて下さらなくても、よかったのです。
でも僕には今やり始めた仕事がある。今頭の中で描いている生活がある。それを実現するまでは、どんなことがあっても死にたくない。僕は、僕は生きたいのです。」
生きることの使命を発見し、その生き方が死よりも苦しくとも実現するまでは死にたくないと思えばこそ、又多くの友達が心を一つにして、どんな事があっても助けたいと、願ったればこそ、不可能と思われた奇蹟があらわれたのであろう。
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○意識不明になっても、なお、まっすぐ前を見つめて歩もうとしているこの生徒の心、そしてそのような生徒に真実なキリスト者の愛を注ぐ教師の高橋、そして周囲の人たちの純真な友情が浮かびあがってくる。
この高橋勝子が召されたときの、追悼文も次に掲載する。
山間部の都会とはまったく異なる風土にあって、キリストを信じる人たちが起こされ、彼らの真実な歩みの一端が伝わってくる。
高橋勝子先生を偲んで
木次町 福間 三佳
細長い木次の町のほぼ真ん中あたり、わずか五〇メートルほど離れた家で、しかも同じ年の三月に私たち二人は生まれました。その後、お父様の転勤のご都合だったのでしょうか。学校生活を共にしたのは、小学校の三年生の時からでした。その後、大東高等女学校、青年師範学校とずっと一緒に学び、卒業後も新制中学実施と同時に日登中学校で五年間勤務を共にいたしました。
勝ちゃんと言えば静かな微笑をもって読書なさっている姿をすぐ想い起こします。大東高等女学校時代は戦争中でしたので、勉強よりも食糧増産に精出して働くことが多かったのですが、特に先生は理数科がお得意で級友から尊敬されていらっしゃいました。
一九四四年、共に青年師範学校に入学致しましたが、先生は素晴しい成績でしたので、当時の石黒校長先生から、女子部高橋勝子以下四〇名の新入生を迎えたと力強く宣言された言葉は今も私の耳の底に深く残っています。希望に満ちて青年師範学校へ入学し、同じ寮で同じ釜の飯を食べ、学習の他に名古屋の学徒動員、学校の広い農場で食糧増産にとはげみました。
ひざぼうずにつぎの当ったもんぺをはき朝六時から開墾作業、そして夜は月の明りでさつま芋の苗植えをし、汗でじっとりとした身体を涼風に当て乍ら、帰り途では青春の夢を語り合いました。空襲に合い同じ防空壕で幾度か身体を寄せ合ったこともありました。戦争のまっただ中ですっかり疲れた身体でも先生は常に本を離さず読書をし続けていらっしゃいました。高い理想に一歩一歩ひたむきな努力をなさっていた先生でした。一九四六年三月、青年師範学校を卒業し、翌年の一九四七年、日登中学校で初代校長加藤歓一郎先生の下で、また、二人共に勤務することができました。
三キロの久野川べりの道をカバンを片手に五年間共に歩いて通いました。
話題はいつも生徒のことだったのです。先生の教育者としての情熱は非常に強く常に新たで生徒のために骨身を惜しまぬ先生でした。
今から約十五年前、文集「日登の子」の中に「陶山久則君のけが」と題し、当時二十三才であった先生の記録が載っています。わたくしは、この記録を何回か読ませていただきました。そしてその度にこの若さでこれだけの考えを実践を……といつも胸が熱くなる思いでした。本当に生徒一人一人を尊重し、よき相談相手をなさった先生でした。生徒から「美しく清純で女神様」とも噂された先生でした。
私も結婚問題を通して十年前に信仰を与えられましたが、当時の先生を振り返ってみる時、あれだけの勇気、情熱が一体どこから出たのでしょうか。すばらしい努力家ではありましたが、先生の努力だけでなく、神様の僕として主によりすがり、いかなる試練にも耐え、祈りの生活であったとしみじみ考えさせられます。
私は、勝子先生が乳癌で療養なさっている事を知った時本当におどろきました。そして召されたという知らせを聞いた時、かつての勝子先生の面影をあらためて思い起こし、先生は、苦しいこと、困ったことがあっても、さわがずにじっと耐え、祈りながら、主と共に清く生き抜かれたお方と思います。
大浦勝子先生の思い出
田中初恵
大浦先生と言っても私達には呼びなれた旧姓高橋先生とつい言う。
中学校が創設された時、私は一年生だった。その時どの学級も男の先生だったのに、特に先生は希望して私達一年生を担任なさった。戦後の混乱の中に感じやすい年頃の私達は.荒れすさんでいて、先生を時々いじめたりして喜んでいた。そんな時先生は、「私が至らぬから」と、唇をかんで耐えていらっしゃった姿が思い出される。特に数学は非常にわかりやすく教えられた。一人でもわからないと言うと放課後でもわかるまで教えていただいた。
男の子達が大勢でこんなむずかしい数学を習って、将来百姓の生活に何の役に立つでしょうかと問い詰めた時があった。
先生は静かになるのを待って、つめたいまでの冷静な微笑を浮べて「それはね、直接百姓生活にこんな数学が役に立たないかも知れませんが、数学的頭を養っておくことが大切だからです」とおっしゃった。
また、国語も教えられた。とくに哲学を勉強なさっていらっしゃった先生は国語の勉強を通して人生問題に深くふれていかれた。
「永遠なるものとは何か」 「何のために生きるか」この二つの問題を考えるようにおっしゃった。この大問題にこそ生命かけてきわめねばならないと言われた。私達は、この問題を与えられることによって人生について目を開いていった。又読書熱も高まっていった。
中学二年三年になってからも、私達は悩みごとなど壁にぶつかると相談した。先生は実に親切に深く教えて下さった。また、ともに悩んで下さったものだった。
卒業する時、先生はこんな事を言われた。「私には、あなたに何も言う事が出来ません。恐しいからです。あなたはあなた自身の内なる声に従って生きねばなりません。自己に忠実に生きなさい。」そして、めったにお見せにならなかった涙を澄んだ瞳にいっぱいためて、「初めて頼んでまで担任した子供と卒業して別れるのが淋しくてね。」とまるで我が子を手離す如く切なさそうにうつむかれた。
「おめでたい卒業生に向ってごめんなさい。」とおっしゃいました。
また、卒業して一ケ月位してから先生に呼ばれてお逢いすると、「あなたにすすめたいことがある。加藤先生がお宅で聖書研究の講座を開いていらっしゃるから行ってみませんか。私も先生に話して頼んでおきますから。」
とおっしゃり、それがきっかけで加藤先生の下に学び、キリストを信ずる生涯に入る事が出来た。本当にありがたく思っている。今思えば、神は、中学三年間はキリスト教に入る準備を大浦先生を通してなさったと信じ感謝している。
その後二年程してから結婚をなさるため、転任なさった。送別式の前日に、私をお呼びになり、校庭につれて出て、「あなたに聞いてたしかめたい事がある。あなたはキリストを信じますか、キリスト教信者として生涯を歩む決心がついていますか。」と聞かれた。
私はぎくりとした。私は非常に力んで「はい。」と返事をした事を覚えている。その時返事する事によって実は決心がついた。その後一週間程してからお便りが来て、「あの時、あの返事どんなにうれしかったことでしょう。」と書いて来られた。
その後も時々お便りがきた。葉書一枚にも、自分の心境を明らかにした同じ道を求める友の如く謙虚な便りが来た。
「この小さな生命がとうとうと流れる大いなる生命につながっている。そうだ生かされている。これは貴い事実だ。」(一九五二年)
「私も妻となり母となる事によって深い豊かな新しい人生が開けてきた様な気がします。平凡にして非凡な人こそ私達の理想ではないでしょうか」(一九五三年)
「小さな幸福を喜んで生きましょう。」(一九五六年)
また、去年正月には、「私は生涯を、盲人教育に捧げたいと思います。盲という障害に打ち勝って、強い社会人とする為に私の生涯を捧げたいと思います。」これが最後の手紙となった。
お逢いしたのは去年の正月六日に日赤病院に於いて長男の手術の為、手術室の前で主人と二人で待っている時、先生は担任の子供が入院しているので見舞いに来たと言ってこられ、若々しい元気そうなお様子だったのに……。
私達も時計ばかり見て手術の終るのを待っていた時だけに落ち着かず残念だったが、でも土曜会のこと、加藤先生のお体の調子のこと、陶山久則さんの農家経営ぶり等を話した。
先生は嬉しそうに聞いていらっしゃった。お別れするとき、先生に、夏休みのときを利用して、私の家に泊まりにきて、土曜会に出席して久しぶりに加藤先生にお会いなさって下さい……とお誘いしたら、お邪魔しましょう。と喜こんでいらっしゃった。こんなことになるのなら、夏休みに強引にお招きして、ぜひ土曜会に出席していただけばよかったと心残りでならない。