よみがえったキリスト ―エマオ途上とその後―
復活の日、イエスは十一人の弟子たちには現れず、マグダラのマリアと一部の女性たちに天使がみずから復活を告げた。そしてその同じ日、エルサレムから十キロあまり離れたエマオへの道の途上で、それまで全く名前も記されていない二人の弟子に主は現れた。
しかも、どこからともなく近づいて共に歩き、語りかけられた。なぜこのような全く知られていない、どの福音書にも記されていないような弟子にこの復活という極めて重要な事実が知らされたのだろうか。
神は、つねに人間の予想を越えてなされる。主イエスが、語られたように、「風は思いのままに吹く。あなた方は、それがどこから来て、どこへ行くか知らない。」(ヨハネ三・8)
と言われた。風と、霊という原語(ギリシャ語)は同じ プネウマである。主イエスは、風のことを語りつつ、神の聖なる霊のことをも同時に語っておられるのである。
主イエスご自身が聖なる霊でもあったから、次のように言われた。
…イエスは彼らに答えて言われた、「たとい、わたしが自分のことをあかししても、わたしのあかしは真実である。それは、わたしがどこからきたのか、また、どこへ行くのかを知っているからである。しかし、あなたがたは、わたしがどこからきて、どこへ行くのかを知らない。(ヨハネ八・14)
このように、風(聖なる霊)がどこから来てどこへいくのか分からないように、主イエスご自身もどこから来て、どこへ行くのか、信じようとしない人には決して分からないことを告げられた。
この時の弟子たちは、目がさえぎられていて復活のイエスだとは分からなかった。
このことも、今の私たちに絶えず起こっていることである。 神が、その万能の力をもって、自然の風や雲、あるいは大空や小鳥のさえずりを生み出し、私たちに働きかけても目が開けていなかったらそこに神のメッセージが込められているとは分からない。野草の花や、樹木の静かなたたずまいが何かを語りかけていても、私たちの心の耳が閉じていたら分からない。
日常のさまざまの出来事についても、それが何を意味するのか、復活のイエスがそこにどんな意味を込めておられるのか、それも気がつかない。
この二人の弟子は、ふつうの意味において目は開いていた。それで話しかけた人も見て、話しも聞いた。しかし、霊的な復活のイエスをそこに見ることはできなかった。見ていても、見ていない、のである。
このような復活のイエスといった特別なことでなくとも、これに類することは、私たちの生活のなかでも多くある。目で見えるところだけを見て、その奥にある霊的なもの、真理を見ることができないのである。
例えば、その人の顔や服装、職業、地位を見ていても、その人の内面の心のひそかな傲慢や、たかぶり、心の汚れは見えないことが多いし、またその人の苦しみや悲しみ、あるいは誰にもいえない苦しみや悲しみや絶望感などは見ることがほとんどできない。
目がさえぎられている、それは天の世界についてはすべての人にいえる。表面だけを見て、その奥にある目には見えないものを見ることができないのである。
それゆえに、次のようにイエスは言われた。
…私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして見えない者は見えるようになり、見える(と思い込んでいる)者は見えないようになる。(ヨハネ九・39)
イエスは求めるものに新しい霊の目を与えるために来られたのである。
イエスが二人の弟子たちに語りかけたとき、彼らは暗い顔をしていたとある。イエスに従っていた仲間の婦人たちからイエスが復活して生きている、ということを聞かされたが、それでもそのようなことを信じることができなかったからである。
この方こそ世を救うお方、何百年も昔から預言されていたお方であると信じていたのに、わずか三年の伝道であっけなく殺されてしまった。
しかもあざけられ、鞭打たれ、裸同然の姿で十字架につけられ、重い犯罪人と同じ刑罰をうけるというこの上もない恥を受けた死であった。イエスが復活したというようなことは到底信じることができなかったゆえに、弟子たちは暗い顔をしていたのである。
復活のイエスは、たしかに不安や苦しみ、あるいは絶望で暗い心のところに来てくださる。闇の中に光として来られたお方であったゆえにそれは当然のことであった。
聖書によって説き明かす
このとき、イエスはこの不安で暗い顔をしていた弟子たちに語りかけたが、あえて自分が復活したイエスであるとは言われなかった。
弟子たちが信じられない思いを語るのを聞いたあとで、救い主(メシア)は、苦しみを受けて復活し、神と同じ姿となって神のもとに帰るのだという、旧約聖書全体にわたってイエスについて書いていることを説明された。不安と信じられない思いでいる弟子たちに、なぜ、すぐにイエスは、自分が復活したそのイエスであると言われなかったのだろうか。
それを言わずに、メシア(救い主、キリスト)は苦しみを受けて、復活して神と同じ姿となって天に帰るのだということを、旧約聖書全体を通して説明をした。
そして歩きながら説明をしただけでない。この二人の弟子が、エルサレムに引き返し、イエスの十一人の弟子たちと復活のことについて話していると、イエスご自身が真ん中に立って、復活が事実であることを示された。そしてそのときにおいても、再び、イエスは聖書を悟らせるために、モーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄はすべて実現する、と言われた。
このように、復活したイエスは、自分がまさに復活したイエスだと言うだけでよいと思われるにもかかわらず、ルカ福音書では二回も、イエスが聖書に基づいて自分がはるか昔から預言されていたことが実現したのだと説明されたのである。
なぜだろうか。
それは、イエスが人から捨てられ、苦しめられて殺され、その後復活して神のもとに帰るということは、偶然のできごとではない、神の大きな御計画があるということを示すためであった。
万能の神、すべてを見通してあらゆることを愛をもってなされている神であるからこそ、深い御計画によって万事をなされる。イエスが地上に神の子として現れることも、永遠の昔からの神の御計画のゆえであった。
イエスだけでなく、私たちも、はるかな昔から選ばれ神の愛がわかるように創造されていることは、次のような箇所が示している。
…天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
(エペソ書一・4)
こんなことは一般のキリスト者でも話題にしないほど、驚くべきことである。私たちへの愛は、はるか昔の天地創造以前からはじまっていたというのである。そして時至ってこの世に生まれ出て、キリストを信じる者となり、さらなる清めを受けて御国に行く者とされるということである。
このように、神は愛であるということは、ずっと以前から深い御計画をもって万事を行っておられるということであり、イエスが現れ、十字架の苦難を受け、そして復活して神とともにおられる、ということも深い御計画の中にあった。
主イエスは、神の長い期間にわたるその御計画のことに目が開かれることを期待した。そしてもし目が開かれたならば、十字架の死の意味や復活ということもおのずからわかるようになる。
このように、長い時間の流れのなかにおける神の御計画ということを知ることの重要性のゆえに、イエスは弟子たちにくわしく旧約聖書で予告されていることを説明したのであった。
私たちが今生きているということも、偶然に生まれたのでなく、私たちが生まれるはるか前からの神の御計画があったということを知るとき、どんな人であっても神は愛をもって私たちを見つめておられるということを知らされる。
また、万事が神の御計画によるということを信じるとき、この世のできごとも、また将来起きるであろうことに対しても、大きく動揺するということがなくなるであろう。
私たちと共にいて下さい
イエスが聖書を用いて説明したことによって、弟子たちは心が燃やされた。そしてこの語りかけてきた未知の人に不思議な霊的な力を感じた弟子たちは、その人が、なおも、先へと行こうとしたので、二人の弟子は、もう夕暮れになったからと言って「私たちとともに留まって下さい」と無理に引き止めた。
そのために、イエスはその家に留まるために入っていかれた。
食事をするとき、イエスがパンを取り、祝福の祈りをして、パンを分けて弟子たちに与えた。その時、二人の弟子の目が開けて、それが復活したイエスであることがわかった。そしてたちまちそのイエスの姿が見えなくなった。
この記述には、現実離れしたような内容があるため、実際にこのようなことが生じたと信じる人は少ないかも知れない。しかし、イエスという存在は、生まれたときから極めて不思議な驚くべき存在であり続けたのである。そして三三歳の若さで重い犯罪人として十字架で処刑された。それでふつうなら歴史の中から消えてしまう。無数の人間が生きては死ぬことを繰り返していくのであり、大きな時間という波にみんなのみこまれて消えていく。
しかし、イエスはいかなる時代の大波が押し寄せようと、その波にのみこまれることはなかった。時間の大いなる流れに何百年も続いた大帝国もみんな流れ去り、消えていったにもかかわらず、イエスだけはすべてのそのような波に超然として今日まで存在してきたのである。
イエスは生まれたときから、そして地上にあるときも、さらに死のときからも直ちに驚くべきことが次々と生じ、復活というだれにもないことが生じた。そして復活の主イエスは閉じた扉であってもどこからともなく入って来て、また必要なメッセージを与えたのちは、どこへともなく消えていく存在であることを示された。
イエスがこうして復活された、ということを弟子たちがはっきりわかったのは、彼らが無理にイエスを引き止めたからである。もし、弟子たちがイエスが通りすぎていこうとするのをそのまま受けいれて「さようなら」と言って別れていたら、彼らの目は開けず、復活のイエスであるということも分からないままであった。
ここにおいて、福音書の著者ルカがとくに強調しようとしているのは、復活のイエスとは私たちにどこからともなく近づいて下さるお方であるが、他方、私たちの方も精一杯、ともにいてくださるようにと無理にでも引き止めるべきだということなのである。
「求めよ、そうすれば与えられる」という有名な言葉もまた、ここであてはまる。弟子たちはどこか不思議な力をもった人であることを知って、そのままにせず、ともにいることを求めた、強く求めたのである。
それゆえにこそ、復活のイエスは彼らと共に食事をされ、魂の目を開いてイエスという復活という最大のできごとをはっきりと見ることができるようにされた。
このとき、弟子たちが言った言葉、「私たちと共に留まって下さい!」という強い願いの言葉は、単なる過去のできごとではない。
人生の夕暮れにおいて、生活の苦しいたそがれにおいて、生きて働くイエスに、私たちとともに留まって下さい、という切実な願いを表すものとして受け取られてきたのである。
それゆえに、ルカ福音書のこの箇所の言葉が取り出されて広く愛唱されてきた讃美歌にもなっている。
Abide with me
Abide with me,Fast falls the eventide.
The darkness deepens; Lord,with me abide.
When other helpers fail And comforts flee,
Help of the helpless, Oh, abide with me.
この賛美は、元の英語の詩をみればすぐにわかるように、タイトルも 「私とともに留まってください」Abide with me である。
そして、一節だけで、三回もこの Abide with me が用いられている。このことからもこの讃美歌の主題は 「私とともに留まって下さい!」ということであることが容易にわかる。
この詩の直訳を次にあげておく。
とどまって下さい、私と共に。 夕暮れは間近です。
闇は深まっています。主よ、私と共にとどまって下さい。
他のいろいろな助けが失われ、慰めも消え去る時、
助けなき者の助けよ、ああ、私と共にいて下さい。
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次は讃美歌21の歌詞を比較のためにあげておく。外国の歌詞を日本語にするときには、この讃美歌だけでなく、メロディーに合わせるために元の詩の内容を大幅にカットし、あるいは原文にない内容を入れて訳されている。
「日暮れて闇は迫り」
日暮れて やみはせまり
わがゆくて なお遠し
助けなき身の頼る
主よ ともに宿りませ
(讃美歌21-二一八/新聖歌三三六)
このように日本語の讃美歌にするときには、タイトルも詩の内容も大きく異なってくることが多い。この讃美歌では、日本語版のタイトルは「日暮れて闇は迫り」である。しかし、もとの讃美歌のタイトルは「私とともにいて下さい
」Abide with me である。
タイトルを見ると、闇が迫るというのがこの讃美歌の内容だと思い違いをしかねない。しかし、元の讃美歌のタイトルは、そのような「日暮れて 闇が迫る」ことが主題でなく、「私とともにいて下さい!」という切実な願いであって全く異なるものなのである。
聖書の言葉は、前後の関係の中から読むことによって本当の意味が浮かびあがってくるが、この言葉のように、前後の文脈とは切り離して広く用いられ、多くの人たちの慰めや励ましとなってきたものもある。神の言葉は、生きて働くからこのように前後関係の中から読み取っても、またその言葉だけ取り出しても力を発揮するのである。
目が開けて
イエスの復活の記述において、「目が開ける」ということが特に記されている。
二人の弟子たちがイエスが処刑されたことや一部の婦人たちがイエスは復活したと話したことなどを語り合いつつ歩いていたときに復活したイエスが近づいて、語りかけ、十キロ余りもある道のりをともに歩きつつ語りかけていたのに、「二人の目はさえぎられていて、イエスだとは分からなかった」(ルカ二四・16)と記されている。そして、そのイエスだとようやくわかったのは、弟子たちが強いて引き止めて家に留まってもらったとき、イエスがパンを分けて彼らに渡したとき、「二人の目が開けて、イエスだとわかった」(31節)。
さらに、イエスは、十一弟子たちとさきほどの二人の弟子たちがともに集まっているときに、「聖書を悟らせるために、彼らの心の目を開いて言われた…。」(45節)と何度も目が開けること、さえぎられていることを書いている。
復活のイエスを本当にわかる、ということは、いかにふつうの目が見えてもどうすることもできないことが強調されているのがわかる。
このことは、ルカ福音書だけではない。ヨハネ福音書においても、十字架でイエスが処刑されて三日目、朝早くマグダラのマリアがイエスが葬られた墓のところに来ていたとき、そこに復活したイエスが現れて後ろに立っているイエスが見えた。しかし、マリアはそれがイエスだとはまったくわからず、そのあたりを管理している人間だと思った。そして会話を交わしたが、イエスが「マリア!」と呼びかけたとき、彼女は一瞬にしてそれが復活したイエスだと分った。目が開けたのである。
このように、復活ということの困難さは、弟子たちや最もイエスと身近にいて生活をともにしたような人ですら、分からなかった。しかし、イエスから直接に何かが与えられること―それがパンであったり、短い一言であったりするが―そのとき初めて目が開かれて分った。これは、福音書が書かれた当時のキリスト者たちの霊的な経験を反映しているといえるし、そのことは時代を越えて現代に生きる私たちにもあてはまるのである。
生きて働いておられるイエスは、今も私たちの直ぐ側に来られて、ともに歩いておられる。しかし私たちは気づかない。重い罪や病気、苦しみのとき、あるいは祈りのとき、野外を一人祈りをもって歩くとき、真実な礼拝のとき、また清い自然のなかに浸されるとき…等々、突然にして目が開かれることがある。
また、私たちの側で心の目が開かれるという記述とともに、これと似通ったことであるが、時折、「天が開けて」という表現がある。すでに旧約聖書にもヤコブが兄から命をねらわれて遠くに一人で逃げていく途中に、天が開けてそこから地上に階段が見え、御使いが上り下りしていたのを見た。それはヤコブの生涯を、また神を信じるひとたちの歩みをも象徴的に示すできごとであった。
また、イエスが、罪はないにもかかわらず、罪人のようにみずからを低くして洗礼のヨハネのもとで、川の水に入り、そこから上がったときにも、天が開けて聖なる霊が降ってきたとある。また、ステファノが石で打たれて息を引き取ろうとするときにも天が開けたことが記されている。
預言者たちが、ほかの人たちには見えないものを見たり聞いたりしたことも、みな天が開けたゆえに見ることができたのである。
こうした記述は、魂の目が開かれた者には、また天が開けて通常は見えないものが心の目で見えるようになるのを示している。
Uターンした弟子たち
二人の弟子たちは、無理に引き止めた人が、復活したイエスであることをはっきりと知った。そしてすでに夜遅くなっていたにもかかわらず、片道十キロ余りあるという距離をただちに、イエスが選んだ十一人の弟子たちがいるエルサレムへと引き返したのである。
エルサレムは、八〇〇メートルほどの山の頂上にある町であり、エマオからは上り坂が多かったであろう。それは歩いて夜の道を行くとすれば三時間ほども要する距離である。夕方にイエスがエマオの家に入り、そこで話しをして食事をしたということであるから、エルサレムに着いたのは夜遅かったと考えられる。
夕食後ただちに出発した町に引き返す、というのは彼らの熱意が相当なものであったのがわかる。復活したイエスは、このように暗い表情をしていた者たちに全く新たな力を与え、行動に移させるのであった。
夜遅く、エルサレムへの登りとなる山道を復活のイエスを報告しようと喜びと驚きをもって帰っていく二人の弟子、それは何時間か前には、不安と恐れと動揺する心で力なく歩いていたのとは大きく異なっていた。
神を見つめ、復活したキリストを心の目で見つめつつ、Uターンする弟子たちは、そのまま現代の私たちにとっても、暗示的である。私たちもまた、復活の力を受けるとき、憂鬱なこの世、暗い心になって夕闇のなかを歩いている状態から、希望の光に向かって登っていくように変えられるのだからである。
復活したイエスの最初の言葉
夜遅く、引き返していく二人の弟子、その姿を思い浮かべるとき、キリストが人間の魂を揺り動かす強い力を感じさせられる。その二人の弟子が、ようやくエルサレムのキリストの十一人の弟子たちのところに着いて復活のイエスのことを話していた。
そのとき、復活したイエスがどこから入って来られたのか、部屋の中に来て、彼らの真ん中に立った。イエスを信じ、慕っている人たちの真ん中に立って下さるということ、そこには誰をも同じように見つめるイエスの姿がある。かつて地上に生きておられたとき、主は言われた。
…真実をもって言う。あなた方のうち二人が心を一つにして求めるなら、天の父はそれをかなえて下さる。二人、三人が私の名によって集まっているところに私はいる。(マタイ福音書十八・20より)
生前のイエスもこのように二人三人が主に向かって心を一つにして集まっているただなかに来てくださる。復活したイエスもこのように、イエスを心から求める弟子たちの真ん中に来てくださったのである。このことは、ヨハネ福音書にも記されている。イエスが十字架で処刑され、復活して聖なる霊を送ってから、弟子たちは力強くローマ帝国の各地をみ言葉を伝えるようになった。
しかし、ローマ帝国による厳しい迫害もまもなく生じてキリスト者は困難な生活に直面していく。
そのような中で書かれたからこそ、ルカ福音書もヨハネの福音書もともに復活のイエスが、弟子たちの真ん中に来てくださった、ということを強調して書いてあるのである。
とくにヨハネ福音書では、二回も繰り返して「イエスが真ん中に立った」ことを記している。 (ヨハネ二〇・19節、26節)
迫害の中で孤立し、周囲の人たちから世をまどわす者として憎しみを受けて、家族からも見捨てられ、暗くて不潔な牢獄や人に隠れたところでの集会など、困難な生活へと変容していった弟子たちにとって、彼らの真ん中に立って語りかけ、力付けてくださる主イエスを本当に彼らは実感していたのである。それゆえにこそ、長く苦しい迫害の時代を耐え抜くことができたのであっただろう。
現代の私たちにおいても、どこにも聖なるお方、純粋な愛の神などいるわけはない、という大多数の人たちの考えのただなかにあって、主を求めて集まる二人、三人の真ん中に来てくださる主、復活のキリストに私たちは希望をかけるのである。