新しさを生むもの

新しい年を迎えて、日本では多くが正月休みとなり、飾りつけもなされて新たな年だという気持ちになる。
しかし、ユダヤ歴では、九月に新年が始まるということになっているし(*)、中国や東南アジアの国の中には、一月一日も休日であるが、旧暦の一月一日をより重要な正月としている国々もある。

*)旧約聖書には、「この月をあなたがたの月の始まりとし,これをあなたがたの年の最初の月とせよ」(出エジプト十二の2)と記されているように、過越と出エジプトの月が信仰上でもきわめて重要であり、それを第一の月(正月)とされている。他方、「年の終わりにあなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行なわなければならない」(出エジプト記二三・16)とも記されているように、収穫祭がなされる秋が正月であったことも記されている。現代のイスラエルは、私たちが使っている暦の九月に新年が置かれている。去年は、九月十九日、今年は九月九日が新年となっている。

このように、世界的に見ても正月は現在の太陽暦(グレゴリオ暦)以外にもいろいろとあるのが分る。
どのように正月の規定がいろいろとあろうとも、私たちが本当に新しさを感じるのでなければ、新年といっても大して意味はないだろう。
新学期、入社が全国的に始まる四月も、新しいものを感じる。人は、こうした外部の出来事や、服や車、家などを新調したときにも、新しさを感じる。
私たちの最も身近で常に新しく聞いたことを伝えているものがある。その名のとおりそれは新聞である。目新しいというだけで、その内容はしばしば読む必要のないこと、あるいは悪しき事件、災害等々がたくさんある。そしてそれらはほとんどの場合すぐに興味をひかなくなり、ゴミとして捨てられていく。このようにそうした新しさは、ほとんどはたちまち消えていくものである。
正月も、一週間もすればもう何も新しさはなく、いつもと同じような仕事や日常生活が始まる。 新学期や新しい車なども同様で、その新しさはすぐに感じなくなって当たり前のようになる。
人は、重要だと感じるほど新鮮な関心を持ってそれに対処する。有名人に人が群がるのも、その人物が重要だと思うからであり、そこに他にはない新鮮さを感じる人が多いからである。
とはいえ、そのような有名人というのは、政治家や歌手、プロスポーツの選手など、何かの事故や病気があるとたちまち消えていく。そしてしばしばそこに利権がからんだり闇の力との結びつきが生じる。そして新鮮さのようなものは汚れたものというイメージに変わってしまう。
本来重要な意味を持っているオバマ大統領の登場や自民党の古い体質を壊そうとする民主党の新鮮さですら、さまざまの問題が生じて数カ月でたちまち衰えを見せるという状態である。
こうしたすぐにはかなく消えていく新しさとは、根本的に違った新しさ、衰えることのない新鮮さを与えるものを聖書では提示している。
 それは聖書の巻頭からすでに見られる。 私たちが暗闇にあって、どう歩いていいのか分からないとき、そこに光が射してくるなら道がみえてくる。闇の中に永遠の光、言いかえると神の光を見出すこと、それこそは、新しさの根源なのである。
 そしてその神の光と本質を同じくしている永遠の命、聖なる霊のはたらきも同様にあたらしさを生み出す根源である。
 それらがあるところ、どんな人でも、新しさを実感する。毎日出会う大空や星、雲の動きすら、新しいメッセージをもって私たちに迫ってくる。
このような神の光を受けているとき、私たちは幼な子のような心でいることができる。幼な子が、母親を信頼しきって見つめるように、まっすぐにその光の方向を見つめることができる。そのような心こそ、つねに新しさを感じる心だと言える。

また、闇と共に混沌であったとあるが、例えば混乱して雑多な状態にある室内や机上を整理する、というだけでも新しい気持ちになるが、創世記の最初に、神が混沌としていた万物に神の言葉によって秩序を与えたと書かれている。
このように、神は、完全な闇と混沌のなかに、光を与え、その混沌に神の御支配の力をもって秩序を与えることで新しさを創造されていくということが最初から書かれている。
光があるとき、そこには新しさを感じる。あらゆる書物のなかで、ただ聖書だけが、いくら繰り返し読んでも読み飽きることがないと言われるのも、そこに光を感じるからである。
また、人間についても、信仰をしっかりもって日々罪清められている人たちはどこか新しさがある。それもその人の内部に主の光が輝いているからである。それは老人になっても同様で、若いときの美しさなどがもはやなくなり、顔はしわがたくさんでき、白髪であっても、キリストに結びついている人、祈りのある人は、そこに美しさがある。それはその人が神の光を受けているからである。
夜空の星もまた見飽きることのないものであるが、それもまた、闇に輝く光そのものであるからだ。
またいろいろのことに感謝することのできる心は、新しさを実感していることを表している。
 
だから、わたしたちは気落ちしない。わたしたちは外見的には滅びつつあるが、内的には日ごとに新しくされていく。 (コリント 四の16)(*
Therefore we do not lose heart. Though outwardly we are wasting away, yet inwardly we are being renewed day by day.
New International Version

*)この箇所は、外なる人、内なる人 というように訳されてきたが、New Interpreter's Bible Commentary シリーズでも採用されている英訳(NIV)のように訳するのが、現代の私たちによりはっきりとその内容が理解できる。また、滅びる、新しくされる、という原文は現在形であり、ギリシャ語の現在形は継続の意味も含むので、この英訳のように訳される。

老化して、読み書きの能力も衰え、手足の力も弱くなり、記憶も不十分となっていくのに、どうして日々新しくされていく、と言えるのか、疑問に思う人もいるであろう。
しかし、キリストによって滅びから救い出された私たちの内には、主イエスが住んでいて下さっているのであるから、記憶力や手足の運動等々が衰えていこうとも、内なるキリストは衰えることがない。
 私たちは、見かけ上の老化現象によって人間全体が滅びつつあるように思いがちだが、霊的に見るならば、私たちの内に住んで下さっているキリストはそうした外見には関係なく、存在しつづける。
 老齢化とともに、人間の本質ではないような能力は次第に失われていくが、神と結びつく霊的な本質、それは内に住んで下さるようになったキリストでもあるが、その本質は私たちの肉体がいよいよその役目を終えたときには、そのキリストが残って私たちを新しい霊の体へとしてくださる。
 私たちは主と同じ栄光の姿に変えられる。という聖書の言葉は、そのことを意味している。
私たちの内に完全な光であるキリストが住んでいて下さるときには、何に接しても新しさを感じるであろう。
人間関係でも、初めて学校に入ったりして知り合った友人は新しい気持ちでつきあうだろうが、まもなく変わっていく。しかし、二人、三人の人間の間に、キリストがいるならば、その関係はずっと古びることがない。
キリストは光そのものである、それゆえに、キリストに従うときには、命の光を持つと約束された。キリストに従いつつこの世の仕事に従事するとき、この世の仕事も新しさを感じつつなすことができる。
本も同様である。ダンテの神曲やアウグスチヌスの告白などの古典には、永遠の光がそこにあるゆえに、古びることがない。さらにそれらよりはるかに完全な光がある書物、それが聖書である。聖書という書物は、至る所から光が放射されているゆえに、私たちは聖書をいつまでも持っていたい、読みたいという願いが持続する。
水野源三は、四十年近く寝たきりでしかも言葉も話せず、部屋から出られなかったような人である。もちろん職業にもつけず、結婚もなく、自分で好きなところに行くこともできない、起き上がることすらできない、そのような変化のない状況に置かれたなら、身心ともに老化して何も反応できないような状況に陥ってしまう可能性が高い。
 ところが、彼はつねに新しいものを日々実感しながら生きていた。それはキリストの光を常に見ていたからであり、キリストの言葉のように、命の光を与えられていた。それゆえに、詩が次々と生まれた。詩(短歌、俳句なども含め)とは、何らかの新しいものを感じなければ作れない。

かくれている 水野源三

緑も花もない冬の庭には
神の恵みはないだろうか
北風が吹き、雪が降る冬の庭には
神の恵みはないだろうか
かくれている かくれている
雪の下に 土の中に
神の豊かな恵みが

このように、隠れているのが見えるなら、そこには限りない新鮮さが実感される。この世には無数のよきものが隠れている。そしてそれは特別な光を当てないかぎり見えない。
 闇にある者は新しいものを実感することができない。よいもの、心を安らげるものが見えないからである。
しかし、光あれば、どんな闇にあっても私たちは新しいと感じるものなのである。逆に上よりの光がなかったら、どんな教育も旅行や勉学、研究、芸術なども本当の新しさ、新鮮なものを永続的に与えることはできない。
聖書とは、驚くべき新しさを全身をもって感じた人たちの心と行動の記録であると言えよう。預言者たち、それは先ほどの水野源三の詩と通じるものを持っていて、だれもみえていない神の大いなる恵みや神の力、あるいは悪に関する神の裁きなど、それらに光があてられてまざまざと見えたことが書かれている。

わたしの戒めに耳を傾けるなら、
あなたの平和は川のように、
恵みは海の波のようになる。(イザヤ書四八の十七~十八より)

 神の戒めとはすなわち神の言葉である。 み言葉に聞き入るとき、平和は川のように次々と流れきて、心はつねに新鮮であり、新しい。川の流れは古びることがない。よどむことがない。
また、祝福も打ち寄せる波のようになる。そこにたえず新しさを感じる。日々、神の国からの波が打ち寄せる、そしてそれを心に受け取るときに日々新しい心となる。
聖霊、聖なる風も同様である。
 このように、私たち信じる者に、神からの平和が川のように流れ来て新鮮なものをもたらしてくれるのは、神が愛であるからだ。
 愛は、人間的な愛であっても、一時的ではあるが心に新鮮なものを与える。愛のないところは心が古びていくし、固まっていく。愛されているという実感は魂を生かす。人間の愛はすぐに移り変るし、何かちょっとした不真実があっても壊れていく。
しかし、神の愛は永続的に私たちに注がれているゆえに、神の愛を知らされるときには常に新しいものを感じる。十年、二十年という人間関係のなかでも、神がその内にいて下さるなら、その人間関係はつねに新鮮である。
しかし、神が内にいないなら毎日会っていても何も新たなものを感じない古びた関係となる。
立体写真とか映像などが次第に広がっているが、次々と移り変わり消えていくものをそのような立体的映像で見たところで一時の興味を満たすにすぎない。
もし、神が私たちの心にあるときには、単調な風景や毎日見る空や雲であっても、そこに日々新たなものを感じ、それらが立体的に迫ってくる。
主イエスは、「空の鳥を見よ、野の花を見よ。神がそれらを養い、装って下さっている」と言われた。ガリラヤ湖の北部などには二月下旬から三月は美しく野の花が咲く。そうした無数の野生の花の群生を見て、神がそのようになさっている、とごく自然に言われた。
私は子供のとき、わが家にいたニワトリや山羊などが子供を育てるのをよく見てきた。そこにはたいていの人は新鮮なものを感じる。愛こそは新しさを実感させる原動力であり、動物が本能的に愛をもって子供にかかわっているというのがよく分るからである。
そのように、神がその愛により、その見えざる御手をもって、身近な一つ一つの樹木や野草、草花などを育てているのだと実感できるとき、そこには尽きることのない新しさを感じることができる。
さらに、毎日見る雲や風の動き、夜空の星などの無生物も、そこにも神が愛をもって、人間に向けてそのような変化のある自然を見せて下さっているのだと信じて受け取るときには、私たちをさまざまの手段で育てようとしてくださっている神の愛を感じる。そうした日々の実感は私たちに衰えることなき新鮮さを感じさせるものとなる。
このような実感を与える根源は、キリストそのものが与えるいのちの水にある。水は古き汚れたものを洗い流す。同様にキリストから流れ出るいのちの水は目には見えない心のさまざまの汚れ、よどんだものを洗い流し、かつそこに新たな命を注ぎ込む。

わたしを信じるものは、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出る。(ヨハネ七の三八)

よどんだものには流れはない。私たちの内に命の光たるキリストが住まわれるとき、それがもとになって、この聖句のように生きた水が私たちの魂の内から流れ出ると約束されている。言いかえれば、その人の心が一つの泉となる。そうなれば、外側の出来事に関わりなくその人は新しさを実感することになる。
このような尽きることのない新しさこそが、聖書が約束しているものであって、それは求める者には誰にでも与えられる。ここに喜ばしい知らせ(福音)がある。


音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。